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02. 魔獣

 森の奥へ進むにつれて、木々の間から差し込む陽光は細くなり、湿った土と苔の匂いが重く立ち込めていく。

 探知魔法で捉えた気配を追い、私は枝葉を掻き分けながら暗がりを駆けた。


 町娘の気配は、もう目と鼻の先だ。

 そしてそのすぐ背後には、巨大で禍々しい魔力が迫っていた。


 木々の隙間から姿を捉えた瞬間、私の息が詰まる。


 黒々とした毛並みに覆われた巨大な体躯。

 人間の二倍以上はある巨体が、音もなく娘の背後へ忍び寄っていた。

 太い腕の先には、肉など容易く引き裂く鋭い爪が光っている。


 グリズリー――森の奥に棲む、獰猛な凶暴種だ。


 小さく鼻歌を歌う娘は、まだ襲い来る魔の手に気づいていない。

 魔獣が、大きな影となって彼女を覆い、爪を振り上げた。


 ――考えるより先に、足へ魔力を集めていた。


 大地を蹴る。身体が風を裂き、視界が加速する。

 振り下ろされる爪の寸前、私は彼女の細い腰を抱き寄せ、そのまま地面へ滑り込んだ。


「きゃあっ!?」


 二人の身体が重なり合い、枯れ葉の敷き詰められた土の上を転がる。

 娘が抱えていた籠が宙を舞い、中から薬草が地面に散らばった。


 腕の中に収まった娘は思いのほか華奢で、驚くほど温かい。

 ほんのりと漂う香油の香り。

 とくとくと波打つ小さな鼓動が、直(じか)に肌へ伝わってきた。


 ――生きている。この弱々しい人間は。


 感傷に浸る隙もなく、頭上から絶望的な質量が迫ってきた。

 私たちを押し潰そうと、巨大な爪が襲い来る。

 私は彼女の身体を胸の中に庇ったまま、空いた左手を掲げた。


「――〝拒絶(リフレクト)〟ッ!」


 刹那、薄紫色の光が夜のように暗い森を照らし、空間に幾何学模様の巨大な魔法陣が展開される。

 魔獣の爪が魔法陣へ激突したのは、その直後だった。


 腹に響く凄まじい衝撃音が空気を揺らす。

 だが、幾重にも重なる魔力の紋様が、振り下ろされた巨腕を正面からしっかりと受け止める。

 爪を弾き返すと同時に、役目を終えた魔法陣は硝子のように砕け、薄紫の光粒となって霧散した。


 グオオオッ、とグリズリーが不快そうに低く唸る。

 体勢を崩しながらも、なおも殺意を滾らせ、今度は横から払うように爪を振るった。


 私は娘を抱いたまま膝をつき、二枚目の魔法陣を斜め方向に展開する。

 滑るように爪の軌道を逸らし、光の残滓を残して陣が溶けて消える。

 狂乱した魔獣が反対の腕を振り下ろせば、三枚目の魔法陣がそれを完璧に遮断した。

 激しい衝撃音が連響し、紫色の光粒が花火のように舞い散る。


 その光の渦の中で、私を見上げる娘の揺れる瞳と視線が交差した。

 恐怖に怯えながらも、目の前の光景――自分を守るように庇う私から、目を離せずにいる。


「そこでじっとしていなさい」


 短く言い捨て、私はやや乱暴に、娘の身体を背後に押しやった。

 そしてゆっくりと立ち上がる。


 連続で攻撃を弾かれて怒り狂うグリズリーが、身体ごと跳びかかってくる。

 巨体が空を覆う。


「隙だらけね」


 両手を伸ばし、魔獣の巨体と同じ程の大きさの、四枚目の大魔法陣を展開した。

 激突。爆昂する紫光。

 巨体があたかも壁に激突したかのように大きく跳ね返り、無防備な胸元が目の前に晒された。


「――これで終わり」


 右手に濃密な魔力を収束させる。周囲の空間が歪むほどの密度。

 魔獣がそれを認識するより早く、解き放たれた光の奔流が森を貫いた。


 閃光。そして、断末魔すら残さぬ静寂。


 胸を撃ち抜かれたグリズリーはゆっくりと傾き、地面へ崩れ落ちると、黒い煙となって消えていった。

 後には、掌ほどの魔石だけがポツンと転がっている。


「……」


 息を整え、外套の裾を払う。

 静けさを取り戻した森の中で探知を広げ、周囲に他の魔獣がいないことを確認してから、私は魔石を拾い上げてポケットに収めた。


 そして――ゆっくりと振り返る。


 そこには、土で服を汚したまま、地面に座り込んでいる娘がいた。


「も……森の、魔女……っ」


 乱れた髪の間から覗く顔は青ざめ、肩が細かく震えている。

 その瞳に浮かんでいるのは、私が千年間見続けてきたもの。


 ――畏怖。そして、恐怖。


 ……そう。

 気まぐれで助けてやったところで、結局は同じなのだ。


 腕の中で感じたあの温もりも、無垢な歌声も、私という存在の異質さを知ればすべて引きつり、逃げ出していく。

 数多いる人間のひとりと、何ら変わりはない。


「……とっとと森から去りなさい。二度と奥へ入り込まないことね」


 娘に背を向け、冷ややかな声でただそれだけを告げた。






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