初出勤⑤
リンはラベンダーとオレンジの香料をオイルと混ぜてサーシェの部屋の扉を叩いた。
「失礼します。」
コポコポと酸素を投与するための大きな機械が鳴るだけで、殆ど無音だ。
「サーシェさん、足が浮腫んで重いと思うので足をオイルでマッサージをさせて下さい。」
リンの声が静かな病室にシンっと響く。
サーシェはゆっくりと開眼し小さく頷いた。
温かなお湯で硬く絞ったタオルを使い、まず両脚を温める。サーシェの膝を少し曲げ間に枕を挟み、適温に準備したお湯の入った大きめの洗面器に足首より下をつける。
その中に数滴、ラベンダーとオレンジの香料を垂らした。
冬の匂いがする病室に柑橘系の爽やかな匂いと緩やかで濃厚な匂いが舞い始める。
温まった足に掌で温めたオイルをつけて、力を入れず撫でるようにマッサージしていく。
冷たかった脚に温かみが戻り、浮腫がほんの少しずつ取れて行く。
「衛生師さん。」
ふと声がしてサーシェを見るとシミひとつない天上を見つめたまま、
「サーラは今日来るかしら。」
と小さな声で言った。
「はい。もうすぐいらっしゃると思います。」
「そう。貴方、スーモアの方?」
天井を見つめていたサーシェの瞳がリンを見つめている。リンが「はい」と言うと、サーシェは、「私もなの」と言い、大きく息を吸い込んで咳をした。痰が絡んだような湿った咳は肺に響くような音だ。
サーシェはリンを見つめたまま、目尻から一粒二粒と涙の粒を流す。
「嫁ぎ先で辛い目にあって」
「子供を連れて逃げてきたの」
「母の形見の指輪を売って」
途切れ途切れに呟くように話す。
リンはマッサージの手を止めず黙って話を聞いた。
「私は幸せだったけれど」
「娘はどうなのかしら」
「もうすぐ30になるのに」
「結婚もしないの」
声はどんどん小さく呟くようになって行くのに、リンにはしっかりと声が聞こえる。
「私のせいなのかしら」
一段と小さな声でポツリと呟いたその声は、まるで叫んでいるかのように聞こえた。涙は伝い落ち枕を濡らしている。
「いいえ。サーシェさんのせいではないと思います。」
マッサージの手を止めず、少しでもつめたい脚が熱を持つようにと足先を包み込んだ。
「娘さんは自分で色々なことを選択できるお歳です。幸せでいるための選択をした結果、ただ結婚しなかっただけだと思います。」
リンの掌の熱がサーシェの足に移っていく。
サーシェは涙に濡れた眼を閉じて、
「ありがとう。」
とだけ言った。
心ばかりか口元が微笑んでいるように見えた。
トントントン
「お母さん!」
眼の赤いサーラが笑顔で入室する。続いて、「失礼します」とノーマンとヅッタも入室した。サーラがベットサイドに寄り、「何してもらってるの?気持ちよさそうね。私もお手伝いしようかしら。」と矢継ぎ早に言い、足元に移動しようとした時、
「サーラ。」
サーシェがサーラを呼んだ。
「何?お母さん。」
すぐに振り向き、サーラは屈んで顔を寄せる。
すると、サーシェは何も言わずに微笑んだ。
それを見てサーラはぐっと息を飲み込むようにして口元を引き締めたまま母であるサーシェを見ている。
しかし、数秒も保たずやがて目頭を押さえて後ろを向いた。肩が不規則に震えている。
ノーマンが交代するようにベットへ近づき、
「お身体がお辛いようなので眠れるお薬を使おうと思います。」
と言った。
サーシェはノーマンの言葉に何度も小さく頷き、
「お願いします」
「ありがとう」
と言い、眼を閉じた。
サーラは泣きながら、足元へ移動し涙も拭わずに「どうやって。やったらいいっ」とリンに聞いた。
リンはサーラの手を取り、オイルを乗せて「手の温もりが伝わるように、ゆっくり上から下に血液を流すように撫でであげて下さい」と言い、手を被せて一緒にサーシェの足を撫でた。
サーシェは「難しいわね、案外っ」と泣きながら笑った。
ノーマンとヅッタはサーシェとサーラと言葉を交わし退室したが、ヅッタはリンにはマッサージを続けるように言った。
その後、サーシェの友達が入室し、皆泣きながら言葉を交わしていた。
20分をかけマッサージをし終え退室した時、サーラがリンを呼び止めた。
「ありがとう。幸せでいるための選択をした結果だって母に言ってくれて。」
「聞こえていたんですね。」
サーラは躊躇いがちに、「中々部屋に入れなかったのよ」と言い、
「でもその通りよ!母のおかげで私はずっと幸せだったもの。」
涙の乾かない顔で歯を見せて笑った。
その3日後にサーシェは眠るように息を引き取った。
サーラは母の友達と穏やかに涙を流しながら、天国に旅立って行くサーシェを看取った。
初勤務からこの日までリンは絶え間なく自身に失望し、その度奮起した。
ヅッタがリンに、「いいか、人の命を救える思うな。」とサーシェが亡くなった日に話した。
「それは驕りだ。どんなに治療してもやがていつか人は死ぬ。助けたいと強く願っても、無力に敗れることが殆どだ。」
リンは「はい」と心の底から返事をした。
「寄り添い、自身のできる最善を尽くせ。そのために学んで行くんだ。リンも。俺も。」
ヅッタについて三日間、学校では教わらない現実を多く学んだ。
毎日、22時投稿予定です。
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重い展開が続きしたが、後の章ではファンタジー要素や恋愛がやや多い展開になっていくと思いますので、目を通し続けて頂けると嬉しいです。




