エンディング
――ワルキューレ帝国皇太子と公爵令嬢の婚礼はチェルリクの首都ユルドスで無事に完遂された。
式当日に皇帝夫妻ならびに皇太子は襲撃を受けたが、皇太子はこれを退け、結婚式を敢行。
式は完全な形で幕を閉じ、その華麗な宴の様子は帝国内外でも大きな話題を呼んだ。
皇太子夫妻はその後しばらく、異国の新居で水入らずの蜜月を送ることになったという。
***
ジークラインは結婚式に間に合った。
彼が来なければ、皇族の青年が代わりに花婿役をすることになっていた。寂しくはあるが、それも皇妃の務め。仕方がないとディーネは思っていたが、彼はちゃんと来てくれた。
一か月に及ぶ結婚式の段取りのすべてを終えて、ディーネはようやく肩から力を抜くことができた。張りつめていたものが切れてしまったせいか、ダラダラと夜となく昼となくジークラインと一緒に寝て過ごしていたら、あっという間に三日過ぎ、四日過ぎた。
強行スケジュールの結婚式からちょうど五日目の昼。
「ディーネ。起きろ」
ディーネは鼻をつままれる感触で、うっすらと目をさました。
昨日おとといとほとんど明け方まで起きていたので、まだ眠い。
「起きねえとイタズラすんぞ」
あちこちまさぐられる感触がして、ディーネはまた少し目を覚ました。
「こんだけしてもまだ起きねえのか」
呆れたような笑い声が聞こえたが、泥のような疲労に全身覆われており、ディーネは目を開けることもできなかった。頬をつつきまわす手をうなりながら押しのけ、寝返りを打つ。
「なんだその動き。可愛いなあ、おい?」
ジークラインが笑っているが、ディーネにはうるさく感じた。とにかくほっといてほしい。まだ寝足りないのだ。
「よく寝てるとこ悪いが、客だぞ」
「んー……」
「可愛い声出しやがって。しょうがねえなあ。追い返すか」
婚礼から一週間ほどはディーネの予定も全部開けてある。面会予定の客なんて誰も来ないはず。そんなことを寝落ちしそうになっている頭でぼんやり考えていると、ドアが開く音がして、能天気な女性の声がした。
「まだ寝てるの?」
「おい、勝手に入ってくんな」
「王子様、皇帝になっても口悪いですね」
ディーネはようやく目が覚めた。女性の声に聞き覚えがあったからだ。
「……ミルザ様?」
どうにか大きなベッドのへりに這っていって、天幕を持ち上げると、言い争っているジークラインとミルザの姿が見えた。
「皇妃さま! ご結婚おめでとうございます」
一方的に告げて、まだ半分寝ているディーネに花を渡してきた。ディーネはまだ寝間着だったのでちょっと恥ずかしいなと思いつつ、受け取る。
「ミルザ様もよくおいでになりましたわ……ご無事でしたのね」
戦争のどさくさに紛れて消息不明になっていたので、どうしているのだろうとは思っていたが、元気そうだ。
「ええ。なんとか、あなたのおかげで無事でした」
「わたくし?」
ディーネには心当たりがなかったが、ミルザはにこにこしながらこれまでどうやって生活していたのか教えてくれた。ワルキューレを発ったあと、皇帝にことの次第を報告したら、不興を買って処分されかかったらしい。そのあとすぐに戦争が始まったのだそうだ。
「私、戦争が始まって、助かったって思って。あなたからワルキューレのこといろいろ聞いてたから、きっと勝てないって分かってた。だから兄さまたちと相談して、隠れていたの」
「それで結婚式にはいらっしゃらなかったんですのね」
「うん。でも、新しい皇帝が王子様だってうわさを聞いたから、遊びにきた!」
ミルザがにこりとジークラインにほほえみかける。
ディーネは呆れすぎて、怒るのを忘れてしまった。
新婚さんの寝室に押しかけてきて、人の旦那に色目を使うとは、いい度胸をしている。
「……第二夫人にはしませんからね?」
ディーネが思わずつぶやくと、ミルザは慌てて手を振った。
「あっ、別に変な意味じゃないよ? 王子様面白いから好きだけど、あなたも面白くて好きだから、何もしないよ」
「面白い……」
「あなたたちふたりともとっても面白い!」
ディーネは酸っぱいものを食べたときのように、口がすぼまった。ジークラインが面白いのはある意味分かるのでともかくとして、まさか自分も同じ枠に入れられる日が来ようとは。
ミルザはくすくす笑っていた。ジークラインまでつられて苦笑している。
ミルザは楽しそうに寝室にまだ飾ってあるウェディングドレスや前皇帝が集めた趣味のよいインテリアをあちこち眺めていたが、ふと窓の外を行き来する人に目を留めて、言った。
「ところであなた、使用人に贈り物はしたの?」
「……え? 贈り物って?」
「何でも構わないよ。服とか本とか、その綺麗なアクセサリとかでもいいよ」
つまり装飾品やぜいたく品ということだろうかと、枕元に置いてあるチャプレットを見て考える。ディーネたちの国では基本、衣服や食料、給料の支給はあるが、贅沢品を配る習慣はない。
「チェルリクでは、使用人は贈り物をしないと何にもしてくれない」
「そ、そうなの……?」
「それもただの贈り物じゃダメね。自分の持ち物を分け与えてあげないと。独り占めをするのと、差を見せつけるのはとても嫌われる」
ディーネはちょっと返答に困った。独り占めも何も、使用人と主人で持ち物に格差があるのは当たり前ではないのか。王様が庶民よりも格上のぜいたく品を使うのは世界の常識なのではなかったか。
残念ながら、ディーネの世界史知識にも、そんな風習には心当たりがなかった。
「特に結婚式とか、会議みたいな大きな宴で、いろんな持ち物を見せびらかして、それで何にも渡さないのはかなりダメね。とってもケチで嫌な主君と思われる。素敵な品物は皆で共有するのが当たり前ね」
「そうだったの……!?」
「あなたが持ち物をプレゼントして、もらった人もまたプレゼントして、その人もまた次の人にプレゼント。順番に共有するのがチェルリク人のやり方」
「そんなやり方が……」
異文化の壁にディーネは震えた。やはりここは異教国家のど真ん中。生活レベルだと、想定外の衝突がいろいろ起こるものである。
ミルザはにっこりした。
「私、あなたがしてくれた親切のことは忘れていないよ。あなたがいろいろ教えてくれたおかげで、ワルキューレでも楽しくやれたわ。だから今度は私が教えてあげる番ね」
「せ……先生……!」
――なんと言うことでしょう。
突然救いの神が現れた。
ディーネは思わず祈りを捧げるポーズをしつつ、かねてより保留にしていた謎の数々を芋づる式に思い出した。
結婚式が終わったはいいものの、チェルリク人の家来たちがすることの意味や由来がまったく分からなくて大層困っていたのだった。
「でしたらミルザ様、さっそくいくつか教えていただきたいことがあるのですけれども。入り口のアレって何なんですの?」
ディーネが窓から入り口のほうを指し示すと、ミルザはどれどれと身を乗り出した。
「……モシドジカのこと?」
「モシドジカって言うんですの? いただいたはいいものの、何だか分からなくて困っておりましたのよ」
モシドジカは結婚祝いに右玉――チェルリクの元皇太子に相当する人からもらったものだ。
羊毛フェルトでできた何かの偶像で、豪華な擦りガラスの山車のようなものに入っている。
「あれはチェルリクの神様ね」
「まあ……そうだったんですのね。あれってどうすればいいんですの?」
「置いておけばいいんじゃないですか? 悪いものではないよ」
「そんな適当な……」
一般的なメイシュア教徒の価値観からすると、異教の神様に祈りを捧げるのは相当なタブーである。聖書のどこかに、異教の神様に願い事をしたせいで破滅する民族のエピソードがあった。
飾っておくとおそらくワルキューレ側の人間はいい顔をしないだろうが、なければないでチェルリクの有力貴族たちがどんな顔をするのかは気になるところだ。
「お供えだけしておけば大丈夫よ」
「そ、そういうものなのかしら……わたくし、メイシュア教徒なのですけれども……」
「私もそうだけど、お供えするよ。メイシュアさまにお祈りもする」
「あ、そんな感じなのね……ゆるいわ……」
現代日本の知識持ちのディーネとしては、別に異教の神様に祈りを捧げたくらいで罰は当たったりしないし、クリスマスも正月も一緒に祝えばいいとも思うが、ミルザもそんな感覚なのだろうか。
彼らチェルリク人が多神教でごちゃまぜなのをよしとしているのならば、善意でくれたものを勝手に捨てるのはまずい。深刻な仲たがいの原因になりかねない。
かといって純粋なメイシュア教徒が多いワルキューレ側の使用人に『毎日お供えしてちょうだい』などと命令するわけにもいかないだろう。こちらも深刻な不信感の原因になる。
となるとやはり、ディーネがお供えをするしかないかもしれない。
「……ちなみにお供えってどうすればいいんですの?」
「え? おわんに入れて馬乳を置くだけよ。あ、それとお清めも……」
「待って待って、ちゃんと教えて! 実演してみせてくださらない!?」
ディーネはベッドの上から降りると、慌てて適当な服を頭からかぶった。
もたもたとやたらにいっぱいついているボタンをかけていると、そばで見ていたジークラインが何気なく手を伸ばして、着付けを手伝ってくれた。ディーネの指示を忠実にこなし、いい感じに仕上げてくれる。
ついでに彼は髪も簡単にまとめてくれた。最後にヴェールの中へ仕舞い込んだら、どうにかうろつける格好が整った。
「よし、こんなもんだろ。今日も驚くほどいい女だな」
恥ずかしい褒め言葉をもらってちょっと照れつつ、ディーネは彼を手招きした。
「あの、ジーク様にもぜひご一緒に来ていただきたいのですけれども。チェルリクの民のこと、少しでも知っておいていただいたほうがいいかと存じますわ」
新居にはモシドジカ以外にも、使途不明のオブジェが山ほどある。これから生活をする上で、彼にも知っておいてもらいたかった。
「分かったよ。いい女の出陣には使い走りの男がいなきゃ始まらねえからな」
「まあ、茶化してらっしゃるの?」
「馬鹿だな、本心だよ」
ジークラインは洋画のようなオーバーリアクションで肩をすくめた。台詞回しも芝居っけたっぷりだが、他意があるわけではなく、これが彼の通常運転なのだった。
「ここはお前の城だ。異民族の地にあって、もっとも女主人にふさわしいのがお前だということを忘れるな。お前のために在るんだから、お前の思うままに調えてみろ。お前のために火が焚かれ、お前のために人が集うだろう。ここではこの俺すらもひとりの参列者にすぎない。お前を慕って集う人間のな」
「王子様、とってもお喋りが上手ですね」
そばで聞いていたミルザが感心したように言うので、ディーネは吹き出すのをこらえきれなかった。
「なに笑ってやがる」
「も、申し訳ありません、つい……ジーク様があまりにも素敵だったものですから」
ディーネが誤魔化し笑いを浮かべると、彼はディーネの好きな、あの茶目っ気たっぷりのふてぶてしい顏で軽く笑った。
「そうかよ、そいつは責められないな。俺が素敵なのは毛ほども揺るがない事実だ」
あまりにも不遜な言い回しに、ディーネはなんだかジンとしてしまった。
以前ならとても平静では聞いていられなかったのに、こうして無事に結婚式も終えて、彼がどんなときでもやさしいことを改めて実感したあとに聞くと、不思議な愛しさが込み上げる。
「わたくしも早く、ジーク様にふさわしい素敵な皇妃だと言われるようになりとう存じます」
「もう十分だろ。お前は俺にはもったいないいい女だよ」
それから彼はディーネの退室をうながすように、ちょっともったいつけてうやうやしく手を差し出した。
「さあ、うるわしの姫君のお手を拝借と行こうか」
からかうように言われてしまい、ディーネはきょとんとした。
「姫君……なんですの?」
「あ? そう呼んでほしいっつったのはお前だろ」
「そんなこと申し上げたかしら……」
横で聞いていたミルザが『ああ、あのときの』とつぶやいたので、彼女につられてディーネも思い出した。
そういえば以前、ミルザが姫と呼ばれていたときに、ひどく妬いてそんな約束もしたような気がする。どさくさに紛れて今の今まで忘れていた。
小さなことをちゃんと覚えていてくれるところも、彼が好きな理由のひとつだ。
ディーネは上機嫌になりながらも、少し生意気な感じでつんと顔を背けた。
「でも今は、もっとふさわしい呼び方があるように思いますの」
ジークラインが何の話だか分かっていないようなので、ディーネは偉そうに説教をするようにして、指を一本立てた。
「ほら、わたくし、ようやく念願叶って、ジーク様のお嫁さんになれましたのよ。ずーっとずーっと、十年以上もはやくなりたいな、明日はなれるかしらって、申し上げ続けてまいりましたのに」
ジークラインはディーネの言いたいことが分かったのか、呆れたように笑ってくれた。
「せっかくいただいた称号を大好きな方に忘れられてしまってはとってもさびしいですわ」
「そうかよ。まったくお前はしょうがねえな」
笑い交じりのジークラインの声には、愛おしむような響きがあふれていた。
「そんじゃあ気を取り直して。行こうか、うるわしの奥方どの」
「はい!」
ディーネは彼がうやうやしく差し出した手に自分の手を預けて、ここしばらくこもっていた寝室を出るべく、歩き出した。
――ワルキューレの皇太子妃兼、チェルリクの新皇妃が、結婚式を終えたあと、チェルリク宮の奥から人々の前に姿をあらわしたのは五日後のことで、その日は一日、幸せそのものの表情でチェルリク宮を練り歩いている皇妃の姿が見られたという。
うら若い妃の、世にも美しい青い瞳と、心にしみいるような澄んだ声、透明な水のように冴えた知性から、チェルリクのオアシスのようだとたたえる声があがり、『湖水の玲妃』と呼ばれて親しまれるようになったのは、もう少し後の話だそうな。
これにてすべて終了です。
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