皇太子殿下の返信は
公爵令嬢のディーネは手紙を書いた。
書いてみたはいいものの、彼女はこれまで返事をろくにもらったことがない。
なので、今度こそねだる、と決心してジークラインと廃墟の空中庭園にやってきた。
しかしいざ本人を目の前にするとディーネはどうしても緊張してしまう。
一度染みついた行動様式や思考パターンはなかなか変えられない。ディーネには、手紙をあげたら喜んでもらえた、という成功体験がこの十数年でほとんどないに等しかったので、先日少し褒められたぐらいではどうにもネガティヴな思考が払拭できないでいた。
渡したらやっぱり読むのが面倒だと思われるのではないか。そういう恐れが行動に影を落としている。
「あの、ジーク様、お手を……」
どうせ周りに誰もいないのだからと、開き直ってとりあえずくっついてみることにした。手をつなぐのは好きだ。触れていると安心感が増して、落ち着いて話せるようになる。
よし、と覚悟を決めてジークラインを見上げると、いつもと変わらない彼の、強くゆるぎない視線があって、ディーネはとたんに恥ずかしくなってきた。せっかく固めた決意も崩れてしまう。
――どうしてこの人はこんなに格好いいの?
神さまからの愛情が十重二十重に注がれたのだとひと目で分かる男らしい顔つきに身体つき。彼から鋭い視線を投げられたらどんな人間だって己を恥じて下を向くことだろう。
ディーネの場合はそこに恋心も加わるから始末に負えない。少し見つめ合っただけで頬が熱くなった。
口ごもるディーネの髪をやさしく撫でて、ジークラインがかすかに笑う。
「どうした。何か用か?」
「は、い……あの、わたくし、今日はお手紙を」
「なんだ、持ってきてたのか。遠慮するこたぁねえ、早く渡しな。俺への貢ぎ物を欠かさないとは感心じゃねえか」
「はっ、はいっ……」
ジークラインのもったいぶった偉そうな喋り方も、こういうときは心強い。
渡すことには成功したものの、その場で開こうとするジークラインにディーネは慌てた。
「ちょっとジーク様、目の前で読まれるのは……」
「音読してやる約束だったろうが。どれどれ、『拝啓』……ハイケイってな何だ?」
「やーめーてー!」
帝国には恋文の作法がない。一般的に手紙を書く場合は『いと高き御座にましますわれらが主よ』などと、神への聖句で始めるのが相場だが、今回はなんとなく時候の挨拶から始めてみたディーネだった。
「もう! おうちに帰ってからお読みくださいまし!」
ディーネが怒ってみせると、ジークラインは素直に手紙を丸めて傍らに置いた。彼いわく女性をいじめて楽しむ趣味はないとのことだが、こういうときは本当にびっくりするほど聞き分けがいい。
怒りが解けたついでに緊張も解けた。
今なら言えそうな気がする。
「お約束いたしました通り、ちゃんと書いてまいりました」
「ああ。褒めてつかわす。よくやったな」
「では、わたくしにご褒美をいただけませんか?」
ディーネが勢い込んで尋ねると、ジークラインはけげんそうな顔をした。
「お前がねだりごととは珍しいな。ほしいもんはてめぇで手に入れる主義に変更したんじゃなかったのか」
「いえ、あの、高価なものがほしいわけではありませんのよ……ただ、どうしても、ジーク様からいただきたいものがあって……」
言っているうちにディーネは勇気を使い果たしてしまい、また口ごもった。忙しい彼に手紙を催促するなんてやっぱりいやらしいのではないか。彼はこうして会う時間を頻繁に作ってくれるが、それだってとても大変なはずなのだ。ディーネも忙しい身だからよく分かる。
ジークラインはディーネの様子を見ているうちに何か合点がいったらしく、少し格好つけた動作でディーネの腰を抱いた。
「そうかそうか、そういうことか。ようやくその気になったんだな? 悪いな、気づいてやれなくてよ」
「ひっ……! ジ、ジーク様……? 何を……」
「なんだ、ビビッてんのか? 可愛いじゃねえか。いいぜ? 特別に何でも聞いてやる。言ってみろよ」
――何でこの人ちょっとウキウキしてるの?
嬉しそうに顔を覗き込まれてもディーネは困ってしまう。またその顔が格好いいのでディーネは目が回ってきた。
「さあ、ディーネ、何が欲しい? 何を欲する? ちゃんと言えりゃ俺のすべてはお前のものだ」
――わけが分からないよ。
どうしてジークラインが急に持病を悪化させたのかが分からないが、何しろ有無を言わせぬ迫力だったので、ディーネは追従笑いを浮かべる以外に何もできなかった。
「さあ、懺悔の時間だ、ディーネ。この俺のすべてを見通す能力からは何ひとつ隠し通せやしねえってことを思い出せ」
「え……と……」
「返事ははいだ」
「は、はい」
「それでいい。そんじゃあ手始めに聞いてやるがよ、お前が好きなのは俺だな?」
「あ……は、はい……」
「そうだ。そんでもって、お前は俺のものだ」
「はい……」
「俺の伴侶に選ばれて光栄だろう?」
「は、はい……」
顎を持ち上げられたばかりか、あろうことか唇にジークラインの指が触れた。ぷにっとされたディーネはたまらない。いきなりいやらしい雰囲気を醸し出さないでほしい。
「お前は俺の何を望む? 思い出か? 愛か? それともすべてか?」
「あ……あ」
もう意味のある言葉が出てこない。突然始まった謎の劇場についてゆけないながらも、近い距離でささやかれる密着感に体温が上がってしまう。
「なあ、ディーネ。俺のすべてが欲しいだろう?」
「あ……ほ、ほしい、です……」
すっかり目を回したディーネがわけも分からずそう口にすると、彼は近年まれに見るいい笑顔で「上出来だ」と笑った。そのままキスにもつれ込む。たっぷり三秒は数えたころに、ディーネはようやく悟った。
――これ答えちゃいけないやつだった!
わたわたとむやみやたらにもがいてはみたものの、しばらく解放はしてもらえなかった。
「ち……ちが、ちがいます、ジークさま、あの、おへ、おへんじ、を」
これ以上色々されたらたまらない。ディーネは必死だった。
「お返事をいただきたかったのでございます!」
「そう慌てるな。返事ならしてやんよ、今ここでな」
「そっ……そういう! 返事では! なく! 手紙を!」
「手紙がなんだ」
「ジーク様の、直筆の! お手紙をもらってみとう存じます!」
ジークラインの顔から笑みが消えた。あからさまにガッカリしているように見える。
「……なんだ。そんなことか……」
「いっ、いけませんか!? 手紙なら後に残りますし、取っておいてあとで読み返せるんですのよ!? うれしいですわ! たのしいですわ!」
「わーったよ、何か書きゃいいんだろ」
「どうして投げやりなんですの!?」
「何でもねえよ……ちょっと当てが外れただけだ」
テンションが下がってしまったジークラインからよしよしと頭を撫でられ、ディーネは釈然としない気持ちがこみあげた。
「何かと思えば手紙かよ。まったくしょうがねえなぁ……」
「い、いいでしょう? わたくしずっとほしかったんですもの……」
どうして返事が来ないのだろうと思っていたこと、形に残るものとして手元に置いてみたかったこと。
などなど、ディーネがいかに手紙がほしかったのかをぶちぶちと説明すると、しまいにジークラインも笑顔になった。
「そうかよ。まったくしょうがねえなあ」
若干なまぬるい感じは否めないが、ジークラインの機嫌がいいとディーネもうれしいので、つられて彼女もなんとなくへらっとした。そのうちに何に興奮していたのかも忘れてしまう。
そんなわけで返事の約束を取りつけて以来、ディーネは、落ち着かない日々が続いた。
いったい何を書いてくれるのだろう?
好きだなんて書かれたものをもらった日には、ディーネは天に召されてしまうのではないか。しかしジークラインはそんな甘い手紙を書くだろうか? 彼のことだから、古語や雅語が乱れ飛ぶ、なんかスゴイ厨二感あふれる文章を書いてくるのではないか。それはそれで見てみたい気もするからディーネはもう手遅れだと思った。
返事は手渡しではなく、小姓が屋敷まで届けにやってきたので、そばにいた侍女のシスが食いついた。
「まああ、ディーネ様、何ですの、そのお手紙!」
「何でもないよ。仕事のお手紙」
「ダウトですわぁ! こちらはジーク様のお付きの方! しかもツボに入れて持ってくるなんてただごとではございません! ロマンスの予感がいたしますわね、ディーネ様!」
シスの野生のカンはすごい。手紙を持ってきた小姓も中身については把握しているのか、ちょっと苦笑いした。
「殿下から内密のお手紙だと言付かって参りましたので、どうか公姫さまのみご覧ください」
「だってさ。ほら、出てった出てった」
「あーん、ディーネ様のいけずぅー! わたくしも拝見したいですわぁー!」
「シスさん! お客様の御前でなんてはしたない! ほら、行きますよ!」
侍女頭のジージョの喝が飛び、シスがずるずると引きずられていく。
にこにこ顔の小姓が見つめる中で、ディーネは手紙を前に深呼吸した。
本当に何が書いてあるのだろう? 読めないだけに不安と期待が高まった。
「こちらは本当にジーク様がお書きになったのかしら?」
「ええ、僕は拝読させてはいただけませんでしたが、ウンウンうなっていらっしゃいました」
「うなって」
「さながら歯痛の猛獣のようでございました」
「歯痛の」
頬杖ついてうなり声を発するジークラインならそんな風にも見えるだろうか。ちょっと想像できてしまい、思わず『カワイイ』と言いそうになったが、淑女らしく口元を手で覆うにとどめた。
「古典の詩集をご覧になっていたのもお珍しゅうございました」
「……詩集?」
「ええ、おそらくは、恋愛の。あ、僕がこんなこと告げ口してただなんておっしゃらないでくださいね」
「ええ、もちろんよ……ありがとう」
小姓はにっこにこしながら、ビッ! とバッチリなジェスチャーをしてくれた。
本当に何が書いてあるのだろう? 詩集を参考にして書く手紙は相当アレなのではなかろうか。期待と不安がいやがおうにも高まる。
そろーっと封蝋のところにペーパーナイフを差し込んで、ぺりっとはがす。きれいに取れてディーネはちょっとうれしかった。どうせなら取っておきたいからだ。
”ディーネへ。
手紙どうもな。”
「ふつうだー!!」
いったいどんな厨ワードが飛び交うのかと思っていたのでディーネは一行目にして声に出してツッコまずにはいられなかった。教会の典礼言語でも帝国語の古語でもなく、そのまんまの喋り言葉で書いてある。
「あの……?」
「あら、なんでもありませんのよ、うふふ……」
”お前はいっつも細かく書いてて感心するよ。俺がお前に書いてやりてえことなんざひとつかふたつぐらいしか思いつかねえ。お前はいつ会っても最高にいい女だってことと、俺がベタ惚れだってことぐらいだ。”
ディーネはとっさに手紙で顔を覆い隠した。持つ手がぷるぷる震える。確かにディーネは何か書いてほしいと思っていたが、いくらなんでもこれはそのまんますぎてどうしたらいいのか分からない。
”あとは、また会ったときにでも言ってやるよ。
愛している。再会が待ち遠しい。”
なんてすっぱりと短い手紙なのだろうか。ディーネは読んでいて涙が出てきた。悲しいわけではないが、感極まって涙腺がゆるんでしまった。
「公姫殿下……あの、大丈夫ですか? お気を確かに……どなたかお呼びしましょうか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう。ジーク様にも、わたくしが喜んでいたと伝えていただけるかしら?」
「はい、きっとそのように」
従者を返してしまったあとも、ディーネは手紙を再読した。ジークラインからもらった手紙はとても短くて、あっという間に読み終えてしまう。ちょっと短すぎるような気もするが、美辞麗句で取り繕わずに素直な気持ちを書いてきたのだとしたら、このぶっきらぼうさが何とも愛おしい。
ずっともらってみたいと思っていたものだっただけに、うれしさもひとしおだった。手紙そのものよりも、ディーネのために悩んでこの文章を書いてくれたという事実にニヤケてしまう。
ディーネは何度も目を通して、すっかり満足してから、書き物机に鍵をかけて仕舞い込んだ。
とても短い手紙だったけれども、ディーネにとってはかけがえのない宝物だった。




