第八話「ナギの選択」
---
ナギが一人で来た。
兵を連れていなかった。馬もなかった。徒歩で、渡し場へやってきた。
朝の霧の中だった。
ミナは桟橋でその姿を見た時、最初は誰か分からなかった。鎧を着けていなかった。普通の旅装だった。
近づいてきて、ナギだと分かった。
「一人で来たんですか」とミナは言った。
「一人で来た」とナギは言った。「兵を連れてきたわけではない。話しに来た」
「どうぞ」
ナギは桟橋に立った。川を見た。
「向こう岸を見たことがない」と言った。
「今まで一度も?」とミナは言った。
「軍が来るまで、この川に来たことがなかった」
「そうでしたか」
「遠くから見ていた。向こう岸に何があるか、想像するだけだった」
ミナは川を見た。
「見ますか」とミナは言った。
「向こう岸を?」
「対岸に渡ることを勧めているわけではありません」とミナは言った。「ただ、川の上から見るだけでも、違うものが見えることがある」
ナギは少しの間、考えた。
「乗る」と言った。
---
ハルが舟を出した。
三人で川の真ん中まで進んだ。
真ん中で、舟を止めた。
川の真ん中から、こちら岸と向こう岸が、両方見えた。
こちら岸には、街道があり、人間の村の屋根が見えた。
向こう岸には、木立があり、山が見えた。
「同じだ」とナギは言った。
「何が」とミナは言った。
「川と、木と、山と、空が——同じだ。こちら側と、向こう側が」
「同じです」とミナは言った。
「違うと思っていた」とナギは言った。「向こう側は、違う世界だと思っていた」
「違う部分もある」とミナは言った。「しかし、同じ部分もある」
ナギは川を見た。水が流れていた。こちら側と向こう側の間を、ただ流れていた。
「村が焼かれた夜」とナギは言った。「炎が見えた。家が燃えるのを見た。母が死んだ。その時に、向こう側の者は全て敵だと思った」
「それが全てですか」とミナは言った。
「全てだった。しかし——」
「しかし?」
「この川に来て、お前たちを見て、揺らいだ」とナギは言った。「半鬼が番人をしている。人間と鬼の間の者が、この渡し場を守っている。そういう場所が、五百年続いてきた」
「揺らいだというのは」とミナは言った。
「向こう側の者が全て敵ではないかもしれない、という気持ちが出てきた」とナギは言った。「しかし、母を殺した鬼のことを思うと、消えない」
「消えなくていいと思います」とミナは言った。
ナギはミナを見た。
「消えなくていい?」
「憎しみは、消えなくていいと思います」とミナは言った。「ただ——憎しみを、全ての鬼へ向けることと、一人の鬼への憎しみは、別のことだと思います」
「同じではないか」
「同じではない」とミナは言った。「一人の鬼がしたことを、全ての鬼がしたとすることは——一人の人間がしたことを、全ての人間がしたとするのと、同じことです」
ナギは黙っていた。
川が流れた。
「お前は、俺の村を焼いた鬼のことも、渡すのか」とナギは言った。
「悪意のある者は渡しません」とミナは言った。「人を傷つけるために渡ろうとする者は、どちら側であっても、止めます」
「しかし、渡した後に傷つける者もいるかもしれない」
「います」とミナは言った。「それは、分からない。しかし——全員を疑って渡さないよりも、見誤ることがあっても渡し続ける方を、私は選んでいます」
「なぜ」
「境界は、往来するためにある」とミナは言った。「往来が止まれば、境界は壁になる。壁になれば、両側が互いを知らないまま、互いを恐れ続ける。恐れが、戦を生む」
ナギは向こう岸を見た。
木立が、静かに立っていた。
「討伐を止めろと言うのか」とナギは言った。
「将軍がお決めになることです」とミナは言った。「私が決めることではない」
「しかし、止めてほしいと思っているだろう」
「思っています」とミナは言った。「しかし、それはあなたの選択です。私はただ、見えているものを言っています」
ナギはしばらく川を見ていた。
それから、ハルを見た。
「半鬼の」とナギは言った。
「はい」とハルは答えた。
「お前は、人間と鬼のどちらが好きだ」
ハルは少しの間、考えた。
「どちらも好きで、どちらも嫌いなところがある」とハルは言った。「しかし——」
「しかし?」
「境界の上が、一番好きだ」とハルは言った。「こちらでも向こうでもない、この場所が」
ナギはハルを見た。
何か、考えていた。
「岸に戻れ」とやがてナギは言った。
ハルが舟を漕いだ。
こちら岸に戻った。
ナギは上がった。
「考える」とナギはミナに言った。「答えは出ていない。しかし、考える」
「それで十分です」とミナは言った。
「なぜ十分なんだ」
「考える人間が、すぐに剣を抜くことはないから」とミナは言った。
ナギは少しだけ、目の奥で何かが動いた。
「番人とは、変わった仕事だ」と言った。
「変わっていません」とミナは言った。「ただ、渡すだけです」
ナギは街道へ歩いていった。
振り返らなかった。
しかし、その背中に、来た時とは違うものがあった。
---
「どうなると思うか」とハルは言った。
「分からない」とミナは言った。「しかし、今日のナギさんの目は、最初に来た時と違っていた」
「揺らいでいた」
「揺らいでいた」とミナは言った。「揺らいでいる間は、動かない。動かない間に、私たちは続ける」
「続ける、というのは」
「渡し場を守る」とミナは言った。「渡せる者を渡す。それだけだ」
ハルは川を見た。
「ミナ」と言った。
「何」
「常火へ、今夜行こう」
「今夜?」
「ナギがまた来る前に」とハルは言った。「揺らいでいる間に、一緒に見ておきたい。二人で」
ミナはハルを見た。
「渡し場を空けていいか」
「ムロさんが見ていてくれる」とハルは言った。「向こう岸へ着いたら、ムロさんに頼む。こちら側は、しばらく誰も来ないだろう。ナギが戻るまでは」
ミナは少しの間、川を見た。
「行こう」とやがて言った。
「行くか」
「行く」とミナは言った。「常火を、一緒に見たい」
夕暮れが近かった。
橙と金の空が、川の上に広がっていた。
二人は舟に乗った。
川を、向こう岸へ向かって漕ぎ出した。
---
(第八話 了)




