第七話「里の火」
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向こう岸の山は、思ったより深かった。
ハルは舟を桟橋に着け、ムロの家を目指した。
前回来た時に、大まかな道を教えてもらっていた。川沿いを東へ歩き、杉の木立に入り、坂を登る。里は、山の中腹にあった。
里は、静かだった。
しかし、静かさの質が違った。前回来た時より、張り詰めていた。子供の声がなかった。老いた鬼が、家の前で空を見上げていた。若い鬼たちが、何かを運んでいた。
軍が来ることを、知っているのだと分かった。
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ムロは里の外れにいた。
古い木の下に座って、何かを彫っていた。木片に、細い刃で何かを刻んでいた。
「来たか」とムロは言った。振り返らずに。
「来ました」とハルは言った。
「一人か」
「ミナは渡し場にいます」
ムロは彫り続けながら言った。「軍はどうした」
「一度退きました。しかし、また来ます」
「そうか」
「常火を見に来ました」とハルは言った。「ミナが、見ておく必要があると言って」
ムロは手を止めた。
「なぜミナはそう言ったのか」
「渡し場と常火が繋がっている気がする、と言っていました」とハルは言った。「直感のようなものだと思います」
「直感ではない」とムロは言った。「繋がっている。ただ、長い間、誰もそれを言わなかった」
「繋がっているんですか」
「渡し場を最初に作った者が、常火を灯した」とムロは言った。「人間と鬼が初めて川の真ん中で会った夜、二人は火を灯した。その火が、今も燃えている」
「五百年前から」
「もっと前かもしれない」とムロは言った。「私が知っている限りでは、五百年だ」
「なぜ消えないんですか」
ムロはしばらく黙っていた。
「消えないのではない」とやがて言った。「消えないように、守られてきた」
「誰が守ってきたんですか」
「渡し場の番人が」とムロは言った。「代々の番人が、知らないまま、守ってきた。番人がいる間は、火は消えない。番人が渡し場を守ることで、常火も守られる。繋がっている」
ハルは、ムロを見た。
「知らないまま、というのは」
「番人は常火のことを知らなかった」とムロは言った。「ただ渡し場を守ることで、常火を守っていた。番人が渡し場を捨てれば、常火も消える」
「だから、渡し場を守ることが大事なんですか」
「それだけではない」とムロは言った。「しかし、それも一つだ」
ムロは立ち上がった。
「案内しよう」と言った。
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常火は、山の奥にあった。
里から更に三十分ほど登った場所に、小さな祠があった。石積みの、古い祠だった。屋根に苔が生えていた。扉が一枚、風化しながらも立っていた。
扉の隙間から、光が漏れていた。
橙と金の光だった。
ハルはその光を見た瞬間、全身が静かになる感覚を覚えた。
怖くはなかった。
ただ、静かになった。
「入れますか」とハルは言った。
「入れる」とムロは言った。
扉を押した。
中に入った。
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小さな空間だった。
三人が入ればいっぱいになるほどの広さだった。中央に、炎があった。台座もなく、ただ虚空に浮かぶように、橙と金の炎が揺れていた。
熱はなかった。
煙も出ていなかった。
ただ、光だけがあった。
ハルはその炎の前に立った。
炎が、揺れた。
まるでハルを認識したように。
「何だ、これは」とハルは言った。
「常火だ」とムロは言った。「人間と鬼が、初めて共に灯した火だ。どちらかだけでは灯せなかった。二人が一緒だったから、灯せた」
「一人では灯せなかった」
「そうだ。そして今も、一人では消せない。両方の者が揃わなければ、この火は変わらない」
ハルは炎を見た。
橙と金が揺れていた。
「ミナに見せたい」とハルは言った。
「連れてくるか」
「連れてくる」とハルは言った。「ミナと一緒に、ここへ来る」
ムロは炎を見た。老鬼の金色の目に、炎が映った。
「この火の意味を、あなたたちが知ることが、今必要だと思っている」とムロは言った。「軍が来て、渡し場が壊されそうになっている。その時に、この火を知る必要がある」
「なぜ今なんですか」
「危機の時に、人間は忘れる」とムロは言った。「守るべきものを忘れる。しかし、この火を知っていれば、忘れない」
「何を守るべきか、ということを」
「境界を守ることの意味を」とムロは言った。「人間と鬼が共存してきた理由を。この火がその証だ」
ハルは炎を見続けた。
炎が揺れた。
揺れながら、何かを語りかけてくるような気がした。言葉ではなかった。しかし、伝わってくるものがあった。
「前に」とハルは言った。「前に、ここへ来たことがありますか」
「あなたが、ということか」とムロは言った。
「私が。あるいは——私に似た者が」
ムロはハルを見た。
「何度も来た」と言った。「形は違う。名前も違う。しかし、この火の前に来た者が、あなたに似ていたことは、何度もある」
「人間と鬼の間の者が」
「そうだ。半分ずつ持つ者が、この火に近づける。片方だけでは、近づきにくい。両方を持つ者が、この火と最もよく響く」
「なぜ」
「この火自体が、両方でできているからだ」とムロは言った。「人間の火と鬼の火が一つになったものだから。両方を持つ者が来た時、火は最もよく燃える」
ハルは炎を見た。
炎が、確かに少し大きくなっていた気がした。
「ミナを連れてくる」とハルは言った。「ミナはこちらでも向こうでもない者だ。渡し場で生まれた者だ。そういう者が来た時、この火はどうなりますか」
ムロは少しの間、考えた。
「見てみよう」とやがて言った。「この火の前に、そういう者が来たことは、知っている限りでは一度しかない」
「一度しかない。その時は」
「一度だけ、番人が二人でここへ来た」とムロは言った。「その時に、この火が最も大きく燃えた。私が見た中で、最も大きく」
「その番人二人は」
「離れた」とムロは言った。「最後には、離れた。番人が離れると、火は小さくなった。しかし消えなかった。次の番人を待ちながら、今日まで燃え続けてきた」
ハルは炎を見た。
小さな、しかし確かな炎だった。
待っている、という感じがした。
「行ってきます」とハルは言った。「ミナを連れて、戻ってくる」
ムロは頷いた。
「急いで」と言った。「軍が来る前に」
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ハルは山を下りた。
里を抜けて、川へ向かった。
舟に乗り、川を漕いだ。
こちら側の桟橋に、ミナが立っていた。
待っていた。
「見たか」とミナは言った。
「見た」とハルは言った。
「常火は、あったか」
「あった」とハルは言った。「橙と金の、炎だった」
ミナは目を細めた。
「知っている色だ」と言った。
「知っている色だ」とハルも言った。
「一緒に見に行きたい」
「連れていく」とハルは言った。「渡し場を離れられる時に」
「渡し場を離れられる時が、来るかどうか分からないけど」
「来る」とハルは言った。「必ず来る」
「根拠は?」
「この巡りで、お前を向こう岸へ連れていく気でいるから」とハルは言った。
ミナはハルを見た。
「この巡り」とミナは言った。「その言葉、どこかで聞いた気がする」
「俺も言っていて、そう思った」とハルは言った。「どこから来た言葉か分からない。でも、言いたかった」
「この巡りで、ということは」とミナは言った。「次の巡りもある、ということか」
「ある気がする」とハルは言った。「この渡し場が五百年続いているように。この常火が消えないように。次の巡りも、続く気がする」
ミナは川を見た。
橙と金の夕暮れが、川を染めていた。
「続けよう」とミナは言った。
「続ける」とハルは言った。
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(第七話 了)




