第六話「鬼の側へ」
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軍が来たのは、五日目の朝だった。
まだ霧が残る時間に、北の街道から馬蹄の音がした。
百人以上の兵が、隊列を組んで渡し場へ向かってきた。
先頭に、将がいた。
ナギだった。
三十代の男だった。体格がよく、鎧を着けていた。顔は整っていたが、目が冷たかった。感情がないわけではない。感情を、仕事のために脇に置いている目だった。
馬を止めて、ミナを見た。
「番人か」とナギは言った。
「番人です」とミナは言った。
「先触れを出した。渡し場を封鎖すると伝えたはずだ」
「伝えていただきました」とミナは言った。「しかし従いません」
ナギは少しの間、ミナを見た。
「なぜだ」
「渡し場は渡す場所だからです」とミナは言った。「封鎖すれば、渡し場ではなくなります」
「向こう岸の鬼を守るというのか」
「向こう岸にも、こちら岸にも、渡りたい者がいます。その者たちを渡すのが仕事です。どちらの者かは関係ない」
ナギは馬から下りた。
ミナの前に立った。近くで見ると、目の奥に何かがあった。冷たさの下に、何か別のものが。
「渡し場を退け」とナギは言った。「退かなければ、力で退かせる」
「退きません」とミナは言った。
「一人の番人が、百の兵に逆らうのか」
「一人ではない」とハルが言った。
いつの間にか、ハルが隣に立っていた。
ナギはハルを見た。
左耳が尖っているのに、気づいた。
「半鬼か」とナギは言った。
「そうです」とハルは言った。
「半鬼が番人をしているのか」
「しています」
ナギは少し考えた。
「退かなければ、二人とも捕らえる」と言った。
「捕らえてもいい」とミナは言った。「しかし、この渡し場を軍に渡すことはしない。渡し場は、誰かのものではない。こちら側の者も向こう側の者も、誰もが使える場所だ。将軍一人が封じることはできない」
ナギは、ミナをしばらく見ていた。
感情を脇に置いていた目が、少しだけ動いた。
「下がれ」と後ろの兵に言った。
兵が数歩退いた。
「話を聞こう」とナギはミナに言った。
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ナギは小屋に入らなかった。
桟橋の端に立って、川を見ながら話した。
「鬼は人を食う」とナギは言った。
「食いません」とミナは言った。
「食う鬼がいる」
「一部の鬼はそうかもしれない」とミナは言った。「しかし一部の人間も、人を傷つける。一部をもって全てとすることはできません」
「お前は鬼と人間の間で何年も働いている。甘いことを言う」
「甘くはない」とミナは言った。「私はこの渡し場で、悪意を持った者を渡さずに返してきた。人間も鬼も、どちらもだ。悪意のある者は渡さない。しかし悪意のない者は渡す。それだけが基準だ」
「悪意を見分けられるのか」
「見分けられます」とミナは言った。「この仕事を十年やれば、誰でも分かるようになる」
ナギは川を見た。
「向こう岸に、軍が渡りたい」と言った。「討伐のために」
「それは渡せません」とミナは言った。
「なぜ」
「討伐は悪意だからです」
ナギは振り返った。
「討伐が悪意だと言うのか」
「向こう岸の者を傷つけるために渡ることは、悪意です」とミナは言った。「それは人間でも鬼でも同じだ。向こう岸の鬼が、こちら岸の人間を傷つけるために渡ろうとしても、私は止める」
「対等に扱うというのか。鬼と人間を」
「渡し場では、対等です」
ナギはミナを見た。
長い間、見ていた。
「変わった番人だ」とやがて言った。
「そうかもしれません」とミナは言った。
「いつからそういう考えを持っている」
「生まれた時から」とミナは言った。「渡し場で生まれたので、こちらでも向こうでもない場所が、最初から当たり前だった」
ナギは川を向いた。
「俺の村を、鬼が焼いた」と言った。
ミナは答えなかった。
「子供の頃だ。村が燃えた。家族が死んだ。だから、鬼を討伐することにした。それが俺の理由だ」
「その鬼は、今も生きていますか」とミナは言った。
「分からない」とナギは言った。
「分からないまま、全ての鬼を討伐しようとしているんですか」
ナギは答えなかった。
川が流れていた。
「今日は退く」とナギはやがて言った。
「退くんですか」とハルは驚いた。
「退く」とナギは言った。「考えることがある」
「いつまた来ますか」とミナは言った。
「分からない」とナギは言った。「しかし、来る」
ナギは馬に乗った。兵を率いて、北へ戻った。
馬蹄の音が遠ざかった。
渡し場に、静けさが戻った。
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「退いた」とハルは言った。
「退いた」とミナは言った。
「なぜだろう」
「分からない」とミナは言った。「しかし、あの人の目に、何かがあった。村が焼かれたと言った時の目に」
「悲しみがあった」
「悲しみと、疑いがあった」とミナは言った。「全ての鬼が悪いと信じたいのに、信じ切れていない、という疑いが」
「その疑いを、突いた」
「突いたわけではない」とミナは言った。「ただ、正直に言った」
ハルはミナを見た。
「ミナ」と言った。
「何」
「お前は怖くなかったのか。百人の兵を前にして」
「怖かった」とミナは言った。「足が震えていた」
「震えていなかったように見えた」
「震えないようにしていた」とミナは言った。「震えても、言うことは言う。震えることと、言うことは別だ」
ハルは少しの間、ミナを見ていた。
「そうか」と言った。「震えても言う」
「そう」とミナは言った。
「覚えておく」とハルは言った。
ミナは川を見た。
軍が去った後の、静かな川だった。
「ハル」とミナは言った。
「何」
「向こう岸へ行ってほしい」
「向こうへ?」
「ムロさんに会いに。そして、常火を見てほしい」とミナは言った。「ナギがまた来る前に。常火が、この渡し場と繋がっているなら、見ておく必要がある気がする」
「お前は来ないのか」
「渡し場を空けるわけにはいかない」とミナは言った。「しかし、あなたは行ける」
「一人で行くのか」
「一人でいい」とミナは言った。「あなたは向こう側の者でもある。向こう岸は、あなたの場所でもある」
ハルは川を見た。
向こう岸の木立が、朝の光の中で緑に輝いていた。
「行ってくる」とハルは言った。
「戻ってくるか」とミナは言った。
「戻ってくる」とハルは言った。「約束だ」
舟を出した。
川を漕いだ。
向こう岸へ向かった。
ミナはその背中を、桟橋から見ていた。
舟が向こう岸に消えるまで、見ていた。
川が流れていた。
渡し場に、ミナ一人が残った。
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(第六話 了)




