第五話「境界の夜」
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軍は翌日には来なかった。
その翌日も来なかった。
三日が過ぎた。
「焦らせているのかもしれない」とハルは言った。
「あるいは、別の場所を先に片付けているのかもしれない」とミナは言った。
「この間に、できることをする」
「できることをしよう」とミナは言った。
渡し場の板を補強した。舟の底を確かめた。小屋の隙間を塞いだ。食料を蓄えた。できる限りのことをした。
しかし夜になると、手が止まった。
できることが、なくなった。
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三日目の夜、ミナとハルは小屋の外に出て、川の傍に座った。
星が出ていた。
「ミナ」とハルは言った。
「何」
「この渡し場を守ることが、本当に正しいのかどうか、考えることがある」
「正しいかどうか」
「軍に従って、渡し場を閉じれば、お前も俺も安全かもしれない」とハルは言った。「しかし、向こう岸の里は滅ぼされる。薬を買いに来た鬼も、老婆の娘の家族も、みんな終わる」
「だから守ると決めた」
「そうだ。しかし」とハルは言った。「守ることで、もっと大きな戦になるかもしれない。軍を止めれば、軍はもっと強い力で来る。結局、守り続けることはできない」
ミナは川を見た。
「それでも守る、ということか」
「そうではなく」とハルは言った。「守ることの意味が、分からなくなってきた。守って、最後に負けるなら、守る意味は何だ、という気がして」
ミナはしばらく黙っていた。
星の光が、川に映っていた。
「ムロさんが言っていた」とミナはやがて言った。「渡し場を作った二人は、選んでここへ来た、と。選んだから、去ることもできる。しかし、また選ぶこともできると」
「覚えている」
「守ることの意味は、守ることが正しいかどうかとは別だと思う」とミナは言った。「正しいかどうかは、後から決まることが多い。しかし、選ぶことは今できる。今、守ることを選ぶ。それが、守る意味だと思う」
ハルはミナを見た。
「今、選ぶことが意味になる」
「うん」とミナは言った。「正しかったかどうかは、後で分かる。でも、今選んだことは、変わらない」
「負けても変わらないか」
「負けても変わらない」とミナは言った。「私たちが今夜ここにいて、守ることを選んだことは、ずっとそうであり続ける。誰かに消されることはない」
ハルは星を見た。
「強い言葉だ」と言った。
「強くない」とミナは言った。「ただ、そう思う」
「そう思える理由は何だ」
「分からない」とミナは言った。「でも——」
「でも?」
「こういうことを、前にも考えたことがある気がする」とミナは言った。「前にも、誰かと川の傍に座って、同じことを話した気がする」
「前に、というのは」
「いつかの、別の時に」とミナは言った。「うまく言えないけど。今夜が初めてではない気がする。あなたと、こうして川の傍に座って、守ることの意味を話したことが、前にもあった気がする」
ハルは川を見た。
「俺も」とハルは言った。静かに。
「あなたも?」
「今夜が初めてではない気がする。この場所が。この川が。お前が隣にいることが。全部、前にもあった気がする」
二人はしばらく、川を見ていた。
星の光が揺れていた。川が流れていた。
「何度も来た、ということかもしれない」とミナは言った。「この場所に。別の形で、別の名前で。しかし同じ場所に、何度も」
「ムロさんが言っていた。五百年間、必ず二人が来た、と」
「私たちが今夜いることは」とミナは言った。「その続きかもしれない」
「続き」とハルは繰り返した。
「うん」とミナは言った。「前に誰かがここに座って、同じことを考えた。その続きを、私たちがしている。そしていつか、また誰かが続きをする」
「終わらない」
「終わらない」とミナは言った。「渡し場は、終わらない。人間と鬼が存在する限り、境界は必要で、渡し場は必要で、番人は必ず現れる」
ハルはミナを見た。
「それを信じているのか」
「信じている」とミナは言った。「理由は分からない。でも信じている」
ハルは少しの間、ミナを見ていた。
「俺も」とハルは言った。「信じる」
「信じられるか?」
「今夜から、信じる」とハルは言った。「お前が信じているなら、俺も信じられる気がする」
「私一人では心もとないか」
「心もとなくはない」とハルは言った。「ただ、一緒に信じる方がいい」
ミナは川を向いた。
「一緒に信じよう」と言った。
川が流れていた。
星が川を渡っていった。
夜の渡し場に、二人が座っていた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
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夜が明ける前、ハルが言った。
「ミナ」
「何」
「渡し場が終わっても」とハルは言った。「お前の隣にいたいと思う」
ミナは川を見たまま、少しだけ間を置いた。
「渡し場は終わらない」と言った。
「そうだとしても」
「そうだとしても」とミナは言った。「私も、あなたの隣にいたい」
夜明けの光が、川の東から差し込んできた。
橙と金の光が、川面を渡った。
常火の色だ、と二人は同時に思った。
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(第五話 了)




