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第82話:大人の交渉、あるいは完璧な身代わり布陣

誰もいない中庭のベンチで、俺は藁にもすがる思いでスマホを取り出し、麻衣さんに電話をかけた。


アトリエで翔子たちに詰め寄られた際、俺はとっさに「今週の金曜の夕方に、弟を連れてくる」と見得を切った。明日や明後日では、保護者役を頼みたい麻衣さんの仕事(ホテル勤務)のシフト休みと合うか分からない。確実にスケジュールを調整するための、数日間の猶予が必要だったからだ。


『もしもし、隆史くん? どうしたの、こんな時間に』


「麻衣さん、突然すみません。実は、今週の金曜日の夕方って……お休みだったりしませんか?」


『金曜? うん、遅番明けの休みだけど……何かあった?』


奇跡的に休みだった。俺は必死に事情を説明した。

ストーカー気質の女に、中学生の弟が監禁されたこと。金曜日に弟を大学に連れてきて皆の前で証言させたいが、自分が同席すると相手がヒートアップしてしまうため、親戚の姉のふりをして弟の保護者役として付き添ってほしいこと。


『……なるほどね。ちなみにその相手って、この前のイタリアンレストランで会った子?』


「えっ、わかりますか?」


『そりゃあね。私があなたのこと「隆史くん」って呼んだら、ものすごい目で睨んできたもの。「宝塚くんって誰?」って、すごい剣幕であなたを引っ張って帰っちゃったし。……あの子、ちょっと普通じゃなかったわね』


麻衣さんは電話の向こうで、くすりと面白がるように笑った。


『監禁って穏やかじゃないけど……警察は?』


「弟が怖がってて、なんとか大学内だけで穏便に縁を切りたいんです」


『ふーん……。まあ、隆史くんの頼みだし、いいわよ。それに、隆史くんの可愛い弟くんにも会ってみたいしね』


大人の余裕というか、半分は完全に面白がっている気配を感じたが、背に腹は代えられない。

最大の壁だった「保護者役」を確保した俺は、すぐさま次の手に出た。


『宝塚』と『秀』が同時に存在しているアリバイを作るための、身代わり作戦だ。

俺はメッセージアプリを開き、松岡に送信した。


『松岡、今週金曜の夕方空いてるか? 立ってるだけの簡単なバイト。一万出す』


『一万!? 余裕で空いてる。絶対行く』


金欠の大学生にとって、一万円の威力は絶大だった。

これでパズルはすべて揃った。



そして、決戦の金曜日。夕方。


空き教室に呼び出した松岡を椅子に座らせ、俺は大きめの帽子と伊達メガネを押し付けた。


「いいか松岡。今からお前に、超精巧なシリコンの特殊メイクを施す。絶対に目は開けるな。そして、この後、教育学部の講堂の上の入り口で、ただ黙って立っていてくれ」


「は? 特殊メイク? なんで俺が……」


「一万円。終わったらすぐ払う。頼む!」


正直金欠の俺には、一万円は厳しい。でもそれくらいでないと、理由なしに松岡は動かないだろう。


目を閉じた松岡の顔に、俺は両手を当てた。

骨格を引き伸ばし、鼻筋を通し、目元を鋭くする。松岡の顔を、俺がいつも使っている『宝塚隆史』の顔へと造形していく。


顔が完成した瞬間、腹の底をドリルでえぐられるような強烈な肉飢餓と同時に、下腹部にフワッとした違和感が広がった。松岡と俺の感覚が魔法のパスで繋がった(同調した)証拠だ。


「おい、なんか顔が引っ張られる感じがするんだけど……すげぇな今のメイク」


「喋るな! 筋肉動かすとメイクが崩れる!」


俺は松岡(顔は宝塚)を教室に待機させ、急いでトイレへ駆け込んだ。

タッパーに詰めてきた自家製のサラダチキンを獣のように丸呑みして肉飢餓をねじ伏せ、今度は自分自身の顔と体を中学生の『山本秀』へと造形し直した。



夕方。

教育学部の講堂の入り口に、私服姿の麻衣さんが立っていた。


俺は中学生の「秀」の姿のまま、小走りで彼女に駆け寄った。


「あの、麻衣さん……ですか? 兄の隆史から聞いてきました。弟の秀です」


「あら……!」


俺の顔を見た瞬間、麻衣さんは目を丸くし、それから「うわぁ、可愛い!」と満面の笑みで俺の頭を撫でてきた。


「隆史くんにそっくりね! 初めまして、麻衣お姉さんよ。今日は私がしっかり守ってあげるからね」


「あ、ありがとうございます……」


中身はただの大学生なのに、大人の色気たっぷりの麻衣さんに頭を撫でられ、俺は素で顔を赤くしてしまった。


「麻衣さん。相手(翔子)はあっちから来ます。兄さんは、相手を刺激しないように少し離れたところで見守ってるって言ってました」


俺が指差した先――講堂の上の少し離れた柱の陰には、帽子とメガネで変装した『宝塚隆史(中身は松岡)』が、言われた通りに腕を組んで黙って立っている。


松岡からは「おい、なんか遠くから女子に見られてるんだけど! 俺、メイクで超絶イケメンになってない!?」という浮かれた心拍数が、同調呪いを通して俺(秀)にダイレクトに伝わってきてひどく気持ち悪かった。


「なるほど、お兄ちゃんはあそこね。完璧な作戦じゃない。さあ、来るわよ」


麻衣さんがスッと表情を引き締め、大人の女の顔になった。


俺(秀)の肩を抱く麻衣さん。

少し離れたところで腕を組んで見下ろす宝塚(松岡)。


そして前方からは、エプロン姿の友人たちを引き連れた高田翔子が、血走った目でこちらへ向かって歩いてくる。


一人二役の矛盾を完全にクリアした、完璧な証明(修羅場)の布陣が今、完成した。

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