第81話:美少年の証言、あるいは一人二役のジレンマ
鼻を刺激するテレピン油の匂いの中、俺はアトリエのど真ん中で完全に公開処刑されていた。
「どうしたの? 早く弟さんを連れてきなさいよ!」
「そうよ! 翔子にひどい嘘をついて別れようとするなんて、最低!」
エプロン姿の友人を筆頭に、アトリエに集まったギャラリーたちの非難の矢が、俺の全身に突き刺さる。
床にへたり込んでいる翔子は、顔を覆って「うぅっ……ひぐっ……」と泣き続けている。だが、その肩の震えが本当に悲しみのものなのか、俺が追い詰められているのを見てほくそ笑んでいるのかは分からない。
「連れてこられないなら、ただの言いがかりでしょ!」
友人の勝ち誇った声に、俺の中で何かがプツンと切れた。
ここで「連れてこられない」と引けば、俺は翔子を泣かせた最低のクズ男として確定し、別れるどころか一生このヤンデレのペースに巻き込まれることになる。
それだけは絶対に避けたかった。
「……わかったよ」
俺は低い声で言い放ち、ギャラリーたちを睨み返した。
「連れてくればいいんだろ! 今週の金曜の夕方、講義が終わった後で弟の『秀』をここに連れてくる。あいつの口から直接『翔子さんに監禁された』って聞けば、信じるんだな!」
「えっ……」
俺の堂々とした宣言に、エプロン姿の友人が怯んだ。
床で泣いていた翔子の肩の震えも、ピタリと止まる。
「言ったわね! 本当に連れてきなさいよ! 翔子が無実だってことが証明されるだけなんだから!」
「ああ、絶対連れてくる!」
俺は踵を返し、周囲の学生たちを掻き分けるようにしてアトリエを後にした。
背中を向けて歩き出しながら、俺は完全に勝利を確信していた。
(よし! 乗り切った! 金曜日に俺が「秀」の姿に変身してアトリエに行き、全部ぶちまけてやれば翔子はぐうの音も出ない。これで完全に縁が切れる!)
◇
だが。
アトリエの棟を抜け、誰もいない中庭のベンチに座った瞬間、俺の足からスッと力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになった。
「……やってしまった」
アドレナリンが引いた脳内に、とんでもない「物理的な矛盾」が突きつけられたのだ。
俺は金曜日、「山本秀(弟)」に変身してアトリエに行き、証言をする。そこまではいい。
だが、秀は「中学生」だ。
中学生の弟が、兄の彼女とトラブルになったからといって、平日の夕方に一人で勝手に大学のキャンパスまで乗り込んでくるなんて、どう考えても不自然すぎる。
「普通、こういう修羅場には……兄である『俺(宝塚)』が同伴するよな……?」
当然だ。
「こいつが俺の弟の秀です。ほら、秀、みんなの前で本当のことを言ってやれ」と、宝塚が秀の肩を抱いてアトリエに登場するのが一番自然な流れだ。
「でも、無理だろ……っ!」
俺はベンチで頭を抱え、ギリギリと髪を掻きむしった。
秀の中身は俺だ。宝塚の中身も俺だ。
魔法でどちらか一方の姿になることはできても、「宝塚隆史」と「山本秀」が同時に同じ場所に並んで立つことなど、物理的に絶対に不可能なのだ。
もし秀が一人でトボトボとアトリエに現れれば、翔子の友人たちに「お兄さんはどうしたの? なんであなた一人なの?」と怪しまれるに決まっている。
ヤンデレで勘の鋭い翔子なら、そこから「兄と弟が同時に現れない理由(=同一人物)」に勘付く可能性すらある。
「どうする……? 俺が同伴できないなら、せめて……『保護者の代わり』になってくれそうな大人の人と一緒に来ないと、絶対に不自然だ」
親は広島だ。松岡に頼めば「宝塚」の正体がバレる。ルミは派手すぎて大学のアトリエには不釣り合いだ。
秀の保護者(親戚のお姉さん等)として、落ち着いていて、大人で、なおかつ俺の頼みを聞いてくれそうな人物。
そして何より、金曜日までにその人の予定を押さえなければならない。
「……麻衣さん、しかいないのか……?」
昨日、ホテルの裏口で俺を拾い、自分の部屋で極限まで甘やかしてくれた大人の女性の顔が脳裏に浮かぶ。
だが、彼女にどうやって頼む?
「実は中学生の弟がいて、ヤンデレに絡まれて困ってるから、保護者のふりをして大学まで付き添ってくれないか」とでも言うのか? 断られるかもしれないし、面倒なことに巻き込まれると呆れられるかもしれない。
俺の完璧だったはずの反撃計画は、開始前から「一人二役のジレンマ」と「保護者役のスケジュール調整」という絶望的な壁にぶち当たり、完全に暗礁に乗り上げてしまった。




