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第80話:アトリエの修羅場、あるいは証明不可能なアリバイ

鼻を刺激するテレピン油の匂いの中、俺は覚悟を決めて、粘土に向かっている翔子の背中に声をかけた。


「……翔子」


「えっ」


翔子が驚いて振り返る。

俺の姿を認めた瞬間、彼女の瞳が揺れた。


アトリエの隅で作業していた数人の学生が、俺の顔を見て「えっ、誰あのイケメン」「宝塚さんじゃない?」とヒソヒソとささやき始めるのがわかった。


「宝塚くん……どうしたの、急に」


翔子は少し戸惑いながらも、どこか嬉しそうな、期待を含んだような上目遣いで俺を見つめた。

その視線を冷たく切り捨てるように、俺は用意していた「完璧なセリフ」を無慈悲に突きつけた。


「翔子。もう、お前とは付き合えない。別れよう」


「……え?」


「とぼけるな。お前、俺の弟の秀を自分の部屋に連れ込んで、監禁みたいなことをしたらしいな。弟から全部聞いてるぞ。……まさか、俺の弟に手を出すようなショタコンだとは思わなかった。もうお前とはやっていけない」


一気にまくし立てた。

弟に手を出したという決定的な非。これで翔子もぐうの音も出ず、罪悪感から身を引くはずだ。


完璧な計画だった。


――だが、次の瞬間。

翔子の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「っ……う、ああっ……」


翔子は顔を覆い、その場にへたり込んで声を上げて泣き崩れた。

俺はギョッとした。


ヤンデレの本性を現して「秀ちゃんは私のものよ!」とキレるかと思いきや、まるで悲劇のヒロインのように可憐に泣き出したのだ。


「ちょっと! なに翔子を泣かせてるのよ!」


その泣き声を聞きつけ、アトリエの奥から翔子の友人たちが一斉に集まってきた。


先頭に立って俺に詰め寄ってきたのは、以前、翔子が俺(宝塚)と会うためのデート服を一緒に選んでくれたという、一番仲のいい友人だった。

彼女はエプロン姿のまま、怒り心頭で俺を睨みつける。


「宝塚さんだか何だか知らないけど、わざわざアトリエまで来て別れ話とか、最低じゃない!? 翔子がどれだけあなたのこと好きだったと思ってんの!」


「い、いや、ちょっと待ってくれ! 翔子が俺の弟を監禁して、変なことを……」


俺が慌てて弁明しようとすると、友人は鼻で笑い、ピシャリと言い放った。


「はあ? 何を馬鹿なこと言ってるの。翔子がそんなことするわけないじゃない! 弟を監禁? 意味わかんないし、信じられないわ。浮気の言い訳にしても雑すぎるでしょ!」


「本当なんだって! 翔子の防音の部屋で、手足を縛られて……!」


「だったら証拠出しなさいよ!」


友人は腕を組み、アトリエに集まった十人近い学生たちを見回してから、俺に向かって勝利の宣告のように告げた。


「じゃあ、その弟さんをここに連れてきなさいよ! その弟さんから直接『翔子さんに監禁されました』って聞けば、信じてあげるわ。ねえ、みんなもそう思わない!?」


「そうよそうよ!」「証拠もないのに酷い!」「翔子がそんなことするわけない!」


周囲のギャラリーたちが、一斉に友人に同調し、俺に対する非難の声を上げ始めた。

アトリエの空気は、完全に「無実の翔子を、トンデモない嘘をついて捨てようとしている最低のイケメン」という構図で固まってしまった。


「弟を……連れてこいって?」


「そうよ! 連れてこられないなら、ただの言いがかりでしょ!」


俺は、周囲の冷たい視線を浴びながら、絶望のあまり頭を抱えた。


(……連れてこられるわけないだろ!)


当然だ。俺の弟「山本秀」なんて人間は、この世に存在しないのだから。

秀の中身は、俺だ。


もし秀の姿をここに連れてくるなら、今この場にいる「宝塚隆史」の変身を解き、再び魔法を使って「秀」の姿を造形しなければならない。

つまり、「宝塚隆史」と「山本秀」が、同じ時間に、同じ場所に並んで立つことなど物理的に絶対に不可能なのだ。


「どうしたの? 早く連れてきなさいよ!」


友人が勝ち誇ったように詰め寄る。


足元では、翔子が「うぅっ……ひぐっ……」と、肩を震わせて泣き続けている。

だが、その顔が床に向けられているため、彼女が本当に悲しくて泣いているのか、それともこの状況を利用してほくそ笑んでいるのか、俺には判断がつかなかった。


「それは……今すぐは、無理で……」


「ほら、やっぱり嘘じゃない! 最低!!」


俺の完璧だったはずの別れ話は、翔子の涙と友人の「連れてこい」という絶対の正論によって完膚なきまでに論破され、俺はアトリエのど真ん中で「弁明不可能な最低のクズ男」として処刑されるのを待つしかなかった。

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