第79話:普通の学校生活、あるいはアトリエの精算計画
月曜の早朝。
俺は、まだ薄暗い麻衣さんのマンションをそっと抜け出した。
「宝塚隆史」の顔で彼女の部屋に留まり続けるのは、時間的に限界だった。
昨日ホテルのトイレで変身してから、もうすぐ二十四時間が経過する。彼女の目の前で顔がド「普通の小野隆史」に戻る怪奇現象だけは、絶対に避けなければならなかった。
大学の最寄り駅に着く九時頃、顔の奥がヒヤッと冷たくなり、内側から骨格がほどける感覚が訪れた。
駅のトイレに駆け込み、鏡を見る。そこには、見慣れた冴えない「普通の小野隆史」が戻ってきていた。
「……ふぅ。やっと、普通に戻れた」
今日は、変身魔法を使わずに「普通の学校生活」を行おう。
そう固く決意して、俺はキャンパスへと向かった。
◇
午前中の経済学の講義。
俺は松岡の隣で、ノートを取りながら大きくあくびをした。
誰からも見られない。女子からの熱い視線もない。ただのモブ学生としての平穏な時間。
だが、頭の中を占めていたのは、講義の内容ではなく、昨夜の麻衣さんの部屋での記憶だった。
美味しい肉。大人の余裕。そして、すべてを包み込んでくれるような甘い時間。
(……できるだけ、麻衣さんとの時間を作りたい)
それは、今の俺にとって最も切実な願いだった。
恐怖と我慢だらけの二重生活の中で、彼女の存在は唯一のオアシスなのだ。
だが、そのためには避けて通れない問題がある。
高田翔子の存在だ。
「宝塚」として付き合っている(ことになっている)あのヤンデレ女子大生との関係を、完全に清算しなければならない。
このままでは麻衣さんにも悪いし、何より、俺の精神が翔子の重すぎる執着に追い詰められて壊れてしまう。
(……どうやって別れるか)
ノートの端に無意味な線を書き殴りながら、俺は必死に考えた。
「好きな人ができた」なんて言えば、浮気相手(麻衣さん)を特定されて刺されかねない。
「価値観が合わない」なんて曖昧な理由も、あの執念深い観察眼の前では論破されるだろう。
――その時、俺の脳内に天才的な閃きが降りてきた。
(……そうだ! あいつが「ショタコン」であることを突けばいいんだ!)
翔子は以前、俺が変身した美少年の弟「山本秀」を自分の防音部屋に連れ込み、ベッドに縛り付けて監禁し、口移しでフライドチキンを食わせるという狂気的な飼育を行っていた。
あの事実を使えばいい。
「宝塚隆史」として翔子に会いに行き、こう告げるのだ。
『お前、俺の弟の秀を部屋に連れ込んで、変なことをしたらしいな。弟から全部聞いてるぞ。……まさか未成年の弟に手を出すようなショタコンだとは思わなかった。もうお前とは付き合えない。別れよう』
これだ!!
これなら「弟に手を出した」という決定的な非が翔子側にあるため、彼女は反論できない。ぐうの音も出ずに、自分の罪悪感からすんなりと身を引くはずだ。
完璧な計画だった。
(……よし。今日、ケリをつける)
◇
昼休みを過ぎた空きコマ。
俺は人けのないトイレの個室に入り、覚悟を決めて自分の顔に指を当てた。
鼻筋を通し、目元を締め、顎のラインを整える。
再び、完璧な「宝塚隆史」を造形する。
ドスンッ! と、細胞を削るような肉飢餓の衝撃が腹の底を殴りつけた。
「っ……! 痛てぇ……」
だが、耐えるしかない。翔子と永遠に縁を切るための、これが最後の代償だ。
俺はカバンに忍ばせていたサラダチキンを急いで胃に流し込み、トイレを出た。
その日、俺は教育学部の芸術科の翔子が在籍する研究室に向かった。
芸術棟に入ると、空気が一変する。
鼻を刺激する、テレピン油や絵の具の強い匂い。石膏の粉っぽさ。
大部屋の中はパーテーションや棚で迷路のように仕切られ、学生たちがそれぞれの「陣地」でカンバスや粘土に向かっていた。
多くの学生がキャンパスの食堂やラウンジへと向かう昼下がりの時間。
薄暗いアトリエの奥、いくつもの彫刻やデッサンが並ぶ一番奥のスペースに――翔子がいた。
地味なカーディガン姿。
髪を後ろで一つにまとめ、手回しろくろの上に乗せた粘土の塊を、真剣な目で削っている。
その背中を見つめながら、俺は小さく息を吸い込んだ。
(これで終わらせる。俺は自由になるんだ)
完璧な別れのセリフを脳内で反芻しながら、俺は油の匂いが充満するアトリエの床を踏みしめ、翔子の背中へとゆっくり近づいていった。




