第78話:庇護者との朝、あるいはイケメンのジレンマ
日曜の朝。
俺はホテルの従業員用トイレの個室にこもり、鏡を見つめていた。
時刻は午前九時少し前。
昨日、ここで「宝塚隆史」に変身してから、ちょうど二十四時間が経過しようとしている。
顔の奥がヒヤッと冷たくなり、内側から骨格がほどけ始める。
数秒後、鏡の中には見慣れた冴えない「普通の小野隆史」が戻ってきていた。
「……ふぅ」
麻衣さんの部屋で朝を迎え、変身が解ける前に「準備があるから」と慌ててホテルへ向かったのは正解だった。
もし彼女のベッドの上でこの顔に戻っていたら、すべてが終わっていた。
俺は急いで再び顔に指を当てた。
鼻筋を通し、目元を締め、顎のラインを整える。
再び「宝塚隆史」を構築する。
顔を作るたびに襲ってくる肉飢餓のうねりは、今日もしっかりとやってきたが、なんとか気力で押さえ込んだ。
制服に着替え、厨房へ向かうと、仕込みをしている麻衣さんがいた。
「おはようございます」
声をかけると、彼女は振り返り、周囲のスタッフに気づかれない程度の、大人びた艶やかな微笑みを向けた。
「おはよう、隆史くん。今日は早いね」
昨夜、あの部屋で匿ってもらい、美味しい肉と極上の甘やかしを与えられた記憶が蘇る。
麻衣さんという強力な「庇護者」が現れたことで、俺の心には確かな安心感が生まれていた。
今朝、ホテルに来る道のりでも周囲を警戒したが、さすがに日曜の朝から、翔子も裏口で待ち伏せはしていなかった。
安全地帯を確保できたことは、精神的にものすごく大きい。
だが、披露宴の配膳をしながら、俺の頭の中はぐるぐると堂々巡りを繰り返していた。
(……ずっと、このまま麻衣さんに甘え続けるわけにはいかないよな)
いっそ、麻衣さんに本当のことを話してしまおうか。
自分は魔法で顔を変えているただの大学生で、その代償で肉飢餓に苦しんでいて、だからホテルの余り肉を持ち帰ろうとしたのだと。
真実を打ち明ければ、この二重生活の重圧から少しは楽になるかもしれない。
だが、すぐにその考えを打ち消す。
『私、イケメン好きなのよね。今まで付き合った人、だいたいそう』
以前、彼女の部屋でパスタを食べた時に言われた言葉が、呪いのように耳に残っている。
彼女が俺を匿ってくれているのは、この「宝塚隆史」という洗練された顔があってこそだ。
さっき鏡に映った「普通の小野隆史」を見せれば、大人の余裕を持った彼女の態度も一変し、一瞬で見捨てられるに違いない。
じゃあ、いっそのこと、一生この「宝塚」の顔で生きていくか?
翔子の狂気から逃れ、麻衣さんに囲われてヒモとして生きる。正直、少し魅力的な提案ではある。
「……いや、無理だろ」
配膳のトレイを持ったまま、俺は小さく呟いた。
もしこの顔で完全に生きていくとしたら、広島にいる本当の家族(親や姉)との繋がりはどうなる?
盆や正月に帰省した時、ある日突然、別人のような超絶イケメンの顔で実家のドアを開けるのか?
「ちょっと奮発して整形しました」とでも言うつもりか。いくらなんでも骨格レベルで変わりすぎている。
誤魔化しきれるわけがない。親を悲しませるし、確実に大騒ぎになる。
本当のことを話せば、麻衣さんを失う。
このままの顔で生きれば、家族を失う。
結局、どこへ進んでも行き止まりだった。
魔法で作った「完璧な形」と、中身の「普通の大学生」。
その狭間で、俺は麻衣さんという心地よい泥沼に首まで浸かりながら、答えの出ない問いを抱えて重い銀のトレイを運び続けるしかなかった。




