第76話:二重の代償、あるいはホテルマンの苦難
昨夜、ルミがホテルで得たであろう「未知の快感」がリンクするという、尊厳破壊の極致のような地獄の夜を乗り越え、土曜日の朝が来た。
俺はベッドから這い出し、重い頭を抱えた。
「……生きてるか、俺」
下腹部には、昨日の講義中に魔法を使った松岡と、夕方に魔法を使ったルミからの「尿意のリンク」が、まだ重く居座っている。昨夜の快感の波は過ぎ去ったようだが、生理現象のリンクはきっちり二十四時間続くのだ。
今日は土曜日。駅前のシティホテルでのバイトの日だ。
つまり、「宝塚隆史」の顔で出勤しなければならない。
だが、部屋で変身していくわけにはいかなかった。アパートのドアの向こうや、駅への道すがらに、あの地味なカーディガン姿の翔子が待ち伏せしている危険があるからだ。
もし「宝塚」の姿でアパートから出てくるところを見られれば、すべての言い訳が崩壊する。
俺は「普通の小野隆史」の姿のまま、息を潜めてドアを開け、周囲を異常なほど警戒しながらアパートを出た。
幸い翔子の姿はなく、俺は足早に電車に乗り込んだ。
◇
ホテルに到着しても油断はできない。
以前、駅裏のレストランで麻衣と鉢合わせた際、俺がこのホテルで働いていることは翔子にバレている。「宝塚の勤務先」として、ホテルの前で翔子が見張っている可能性すらあるのだ。
俺はホテルの従業員通用口からこっそりと中に入り、誰にも見られないようにスタッフ用のトイレの個室へ駆け込んだ。
鍵をかけ、鏡の前に立つ。
「……よし」
鼻筋を通し、目元を締め、顎のラインを整える。
数分後、鏡の中にはホテルの制服が似合う、洗練された「宝塚隆史」の顔が完成していた。
だが、変身が完了した瞬間、ドスンッ! と胃の奥を強烈な衝撃が襲った。
「……っ! 来たか」
自らの人体を造形した代償、「肉飢餓」だ。
顔と首の骨格を組み替えたエネルギーを補うため、細胞が肉を求めて悲鳴を上げる。
俺はカバンから「生命維持装置」である自家製サラダチキンを取り出し、トイレの個室で音を立てないように貪り食った。
なんとか肉飢餓を最低限のラインまで抑え込んだが、問題はそれだけではない。
下腹部には、他人の顔をいじった代償である松岡とルミの「尿意のリンク」がダブルで押し寄せているのだ。
(肉が食いたい……いや、その前にトイレに行きたい……!)
自分の膀胱は空っぽなのに強烈な尿意を感じ、同時に猛烈な空腹感に襲われる。脳の信号が完全にバグを起こしていた。
「……最悪の一日になりそうだ」
俺はげっそりとした顔で制服に着替え、厨房へと向かった。
◇
「おはようございます」
厨房に入ると、白衣姿の麻衣がいた。俺の顔を見るなり、麻衣の手が少しだけ止まる。
あの夜、彼女の部屋で関係を持って逃げるように帰って以来だ。気まずさで俺の視線が少し泳ぐ。
だが、麻衣は大人だった。
「おはよう、隆史くん。今日もばっちりキメてるわね」
周囲のスタッフの手前もあるのか、彼女はあの夜のことなど何もなかったかのように、余裕のある無難な態度で返してきた。
「あ、はい……。今日もよろしくお願いします」
俺も無難な会話で返すのが精一杯だった。
麻衣が俺の「肉泥棒」の秘密を握っているという圧倒的な力関係は変わっていない。彼女の余裕のある視線を感じるたび、俺は首筋が冷たくなるのを感じた。
やがて披露宴が始まり、俺はフロアへ出て配膳の業務に就いた。
「こちら、ローストビーフでございます」
客のテーブルに皿を置くたび、肉とグレービーソースの香りが鼻腔を直撃し、抑え込んだはずの肉飢餓が再び暴れ出しそうになる。
食べたい。今すぐその皿の肉を口に放り込みたい。
それに加えて、遠く離れた場所で、ルミが二日酔い覚ましの水分でも大量に摂っているのか、波のようにズシン、ズシンと尿意のリンクが押し寄せてくる。
(頼むからルミさん、早くトイレに行ってくれ……!)
肉の匂いで理性を削られ、他人の尿意で股間を締め付けられながら、俺は「宝塚隆史」としての完璧で優雅な微笑みを顔に貼り付けて、広大な披露宴会場を歩き回らなければならなかった。
まさに針の筵を歩くような地獄の労働だ。
やがて、時計の針が昼過ぎを回った頃。
ふっと、下腹部を圧迫していた重圧の「半分」が、嘘のように消え去った。
「……あ」
松岡のリンクが切れたのだ。
昨日、大学で松岡の耳をいじってテストをしてから、ちょうど二十四時間が経過した。
累積されていた代償の半分が消え、猛烈だった尿意が、なんとか我慢できるレベルにまでスッと落ち着いた。
「……助かった」
俺はバックヤードの陰で、思わず安堵の息を長く吐き出した。
だが、油断はできない。昨日、キャバクラの控室でルミのまぶたを造形したのは夕方のことだ。
つまり、ルミのリンクが解けるのは、今日の夕方。
それまでは、肉飢餓とルミの残された生理現象に耐えながら、このホテル業務をこなさなければならない。
(……マジで、もう二度と他人の顔なんていじるもんか。絶対にだ)
俺は心の中で血の涙を流しながら誓い、再び銀のトレイを手に取って、戦場であるフロアへと戻っていった。




