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第71話:観測者の接近、あるいは逃げられない六畳一間

月曜日の昼休み。

俺は学食の隅の席で、松岡と一緒にカツカレーをかき込んでいた。


土曜の朝、アパートの前で待ち伏せしていた翔子と遭遇し、咄嗟に「俺は宝塚の友人ルームメイトだ」と嘘をついてファミレスでやり過ごし、なんとかホテルバイトへ駆け込んでから数日が経っていた。


(……なんとか誤魔化せたはずだ。あいつは俺をただの小野隆史だと認識していた)


「おい小野、お前最近ずっと顔色悪いぞ。寝不足か?」


「……まあ、色々あってな」


松岡の言葉を適当に濁し、水を飲もうとしたその時だった。


「小野くん」


背後から、静かで、ひどく聞き覚えのある声がした。

心臓が嫌な音を立てて跳ねる。


振り返ると、そこには地味なカーディガンを羽織った高田翔子が立っていた。


「……えっ、高田さん?」


「ごめんなさい、お食事中に。……少しだけ、いいですか」


松岡が「えっ、小野の知り合い?」と目を丸くしている。

俺は冷や汗を必死に抑え込みながら、立ち上がって少し離れた廊下へと翔子を促した。


「どうしたの、こんなところで……」


「小野くんにお願いがあって」


翔子の眼鏡の奥の瞳は、静かで、けれど逃げ場のない深さを持っていた。

彼女はカバンの中から、丁寧に包装された小さな紙袋を取り出し、俺に差し出した。


「これ……宝塚くんに、渡してもらえませんか」


「えっ」


「最近、彼に連絡しても全然つかなくて。小野くん、彼と同じ部屋に住んでるルームメイトなんですよね? だったら、帰ってきた時に渡してほしいんです」


俺の背筋に、氷のような悪寒が走った。


ただのプレゼントの受け渡しではない。

翔子は俺の嘘(ルームメイト設定)を逆手に取り、普通の小野隆史を「宝塚(と弟)に繋がる唯一の窓口」として利用し、監視網に組み込もうとしているのだ。


「あ、ああ……分かった。でも、あいつも最近忙しいみたいで、あんまりアパートに帰ってこないんだよね」


「そうなんですか?」


翔子が、ふっと首を傾げる。

その動作は、以前俺の部屋のクローゼットで女物の服(貴子のワンピース)を見つけた時と同じ、静かな「検閲」の気配を帯びていた。


「小野くんは、宝塚くんが今どこにいるか、知っているんですか?」


「いやっ、俺も全然……! あいつフラフラしてるからさ」


「そうですか。……じゃあ、もし帰ってきたら、必ず渡してくださいね。よろしくお願いします」


翔子は深々と頭を下げ、去っていった。

手の中に残された紙袋が、爆弾のように重かった。



木曜日の夜。

大学の講義を終えた俺は、自分のアパートに帰る道のりで、周囲を異常なほど警戒していた。


電柱の陰、曲がり角、アパートの階段の下。

どこかにあの地味なカーディガン姿の女が立っていないか、心臓をバクバクさせながら確認する。


(……いない。大丈夫だ)


階段を駆け上がり、六畳一間の自分の部屋に転がり込む。

ドアを閉め、チェーンをかけ、鍵を二重に回して、ようやく床にへたり込んだ。


「……はぁっ、はぁっ……」


安全なはずの自分の部屋が、今は恐怖の密室にしか思えなかった。

翔子には、このアパートの場所が完全にバレている。合鍵こそ取り返したが、早朝に待ち伏せされていた実績もある。


(引っ越したい……。今すぐこんな部屋、引き払って逃げたい!)


だが、絶望的な現実が俺を縛り付けていた。


俺は財布を開く。

中に入っているのは、先週末のキャバクラとホテルで稼いだ数千円と小銭だけだ。


敷金、礼金、前家賃、引っ越し費用。

そんな大金、どこをどう叩いても出てこない。

金がないから、監視されていると分かっているこの部屋に住み続けるしかないのだ。


「……クソっ。金さえあれば、こんな時限爆弾みたいなアパート、すぐにでも……」


俺は泥のようにベッドに倒れ込んだ。


肉飢餓との戦い、ヤンデレ美大生による外堀の埋め立て、 shadow(影)のように迫る視線、そしてキャバクラでの限界営業。

精神も体力も、すでに限界を迎えていた。


「……まじで、死ぬかと思った」


天井に向かって深く息を吐き出した。


――その時だった。


『――随分と、造形の魔を楽しんでいるようだな、小僧』


鼓膜を通さず、脳の奥底に直接響くような低く重い声が、暗い部屋の中に響き渡った。

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