第70話:早朝の逃亡と、ファミレスの友人面
翌朝。
ルミの部屋の大きなベッドの端で、俺は目を覚ました。
隣では、限界ギャルであるルミが、無防備な格好でスヤスヤと安らかな寝息を立てている。
キャバクラでの限界営業のあと、ホストクラブへの熱い勧誘を適当に躱しているうちに、いつの間にか二人とも寝落ちしてしまったらしい。
壁の時計を見ると、午前六時を回ったところだった。
(……やばい、今日土曜日じゃん。ホテルのバイトがある!)
週末は、駅前のシティホテルでの配膳バイトの日だ。
つまり、今日は「宝塚隆史」の姿で出勤しなければならない。
だが、今の俺は絶世の美女「小野貴子」の姿だ。
一度自分のアパートに戻って着替えとバイトの準備をし、再び「宝塚」の顔を造形してホテルへ向かう必要があった。
俺はそっとベッドを抜け出した。
出勤前にルミが洗濯してくれた俺の私服は乾いていたが、これを着て男に戻ればただの不審者だ。
俺はルミのクローゼットから、ダボダボのグレーのスウェット上下を引っ張り出した。
『スウェット借ります。洗濯して返します。昨日はありがとう 貴子』
テーブルに置き手紙を残し、俺は自分の私服を紙袋に詰めて、そっとルミの部屋を後にした。
近くの公園の公衆トイレの個室に入り、俺は深呼吸をした。
「……よし」
意識を集中し、変身を解く。
顔の骨格が内側から緩み、絶世の美少女の輪郭がほどけ、元の「小野隆史」へと組み替わっていく。
鏡を確認すると、そこには見慣れた冴えない男子大学生の姿があった。
ルミのダボダボのスウェットは、男の俺が着ても少しタイトだが、ギリギリ不審者には見えないレベルだ。
(……これで、アパートに帰って準備ができる)
俺は足早に自分の下宿へと向かった。
だが、アパートの階段を上がり、自分の部屋が近づくにつれて、俺の心臓は嫌な音を立て始めた。
ドアの前に、うずくまっている人影があった。
長い髪。地味な服装。
俺の部屋のドアノブをじっと見つめながら、微動だにしないその女は――間違いなく、高田翔子だった。
(……マジで待ち伏せしてたのかよ!)
俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
翔子は、アトリエから逃げ出した「美少年の弟(山本秀)」を血眼になって探しているはずだ。
あれこれ兄の部屋を張っていれば、いつか現れると踏んだのだろう。
だが、踵を返そうとした俺は、ハッとある事実に気がついた。
(待てよ……。今の俺は『普通の小野隆史』だ。翔子が知っているのは『宝塚隆史』と『弟の秀』だけだ。俺の本当の顔は知らない!)
絶世の美女でも、美少年でも、イケメンの宝塚でもない。
ただの冴えない大学生である今の俺なら、「正体」がバレることはない。
とはいえ、このままでは部屋に入れないし、ホテルのバイトにも間に合わなくなる。
俺は覚悟を決め、「見知らぬ友人」の仮面を被って足音を立てた。
「あの……どうかしましたか?」
ビクッと、翔子の肩が跳ねた。
彼女はゆっくりと振り向く。
その目の下には濃いクマがあり、一晩中ここで待っていたことが窺えた。
だが、俺の顔を見ても、そこに浮かぶのは警戒の目だけだった。
「俺、この部屋の住人の友人なんですけど。宝塚……隆史の」
「……宝塚くんの、お友達?」
「はい。今、次の引っ越し先が決まるまでの間、あいつの部屋に居候させてもらってる小野って言います。あいつ、今留守ですよ。ドアの前で何かあったんですか?」
俺が尋ねると、翔子は露骨に視線を泳がせ、口ごもった。
「えっと、その……少し、探し物をしていて……」
まさか「弟を監禁して逃げられたから出待ちしていた」などと言えるはずがない。
俺はホテルの時間が迫る焦りを隠しつつ、翔子をここから引き離すための決定打を口にした。
「とりあえず、こんな朝早くに女の子が立ち話してるのも危ないですし。もしあいつに用があるなら、駅前の24時間ファミレスで少し話しませんか? あいつのことなら、俺もだいたい知ってますから」
翔子は少し迷ったようだったが、隆史(宝塚)の友人という言葉に惹かれたのか、小さく頷いた。
◇
駅前のファミレス。
早朝の店内はガラガラで、ドリンクバーの機械の音だけが虚しく響いていた。
対面の席に座った翔子は、ウーロン茶の入ったグラスを両手で包み込むように持ちながら、探るような鋭い視線で俺を見つめてきた。
「小野さんは……宝塚くんと、どんな関係なんですか?」
「広島から同じ大学に来た地元の友人です。あいつとは昔からの腐れ縁で。俺が今ちょっと部屋をなくして困ってて、引っ越すまでの間だけ居候させてもらってるんですよ」
翔子の瞳の奥で、何かの点と点が繋がっていくのがわかった。
以前、宝塚の姿で「実家は広島だ」と話した設定が、ここで強烈な説得力を持ったらしい。
「あの、じゃあ……彼のご家族のことも、知っていますか?」
翔子が身を乗り出してくる。
間違いなく「美少年の弟」の行方を探ろうとしているのだ。
「ええ、まあ。でもあいつ、自分のことあんまり話したがらないんで、詳しいことまでは」
俺は、流石に美少年(秀)の件には一切触れないよう、のらりくらりと躱した。
だが、テーブルの下でスマホの時計を見ると、時刻は午前八時を回ろうとしていた。
(やばい! ホテルのシフトは九時からだ! ここからバイト先に向かって、途中で『宝塚』に変身する時間を考えたら、もうギリギリだ!)
これ以上翔子の尋問に付き合っている暇はない。
俺はコーヒーを一気飲みし、わざとらしくスマホを見て立ち上がった。
「あ、すみません! 俺、これからホテルのバイトがあって、もう行かないと……!」
「えっ、あ……」
翔子が何か言いかけたが、俺は構わず言葉を重ねる。
「お代は払っておきますんで! 宝塚に会ったら伝えときます!」
一方的に言葉を切り上げ、伝票をひったくってレジへ向かった。
ファミレスを飛び出した俺は、全力走で駅のトイレへと駆け込んだ。
息を整える暇もなく、鏡の前に立つ。
(クソッ、部屋に帰れなかったからスウェットのままだが、幸いホテルの更室に制服はある!)
指を顔に当て、骨格を組み替える。
ドスンッと猛烈な肉飢餓が腹を抉るが、今はそれに耐えるしかない。
カバンに忍ばせていたサラダチキンを急いで丸呑みする。
鏡の中に「宝塚隆史」の顔が完成したのを確認すると、俺は足がもつれそうになりながら、戦場であるホテルへと全速力で向かった。




