飢餓の「あぁん」営業、あるいは雛鳥の唐揚げ
俺は、からあげが来るのを今か今かと待ちわびていた。
目の前の大田さん――アリサと同伴してきた村田さんという男の取引相手らしい――のグラスにビールを注ぎながら、俺の意識の九割は店の厨房へと向いていた。
(いつになったら持ってくるんだ。黒服おそいぞ……)
猛烈な肉飢餓のせいで、完璧に作られたはずの「貴子」の接客スマイルが引きつりそうになる。限界だ。これ以上待たされたら、客のグラスをかじりかねない。
「……からあげ、遅いですよね。困っちゃうな。ちょっと厨房に急がせましょうか」
耐えきれず、俺はボックス席から立ち上がりかけた。
「あ、大丈夫だよ。俺、そんなに腹減ってるわけじゃないし。ゆっくりでいいよ」
大田さんが、人の気も知らずに大人の余裕を見せて俺を止める。
(違う、あんたじゃない! 俺が減ってんだよ!)
心の中で全力のツッコミを入れた、その時だった。
「お待たせいたしました、からあげとビールです」
黒服が、湯気を立てるからあげの皿をテーブルに置いた。
香ばしい醤油と揚げたての油の匂いが、鼻腔を直撃する。
(……食いたい!)
理性が吹き飛びそうになるのを、俺は必死に抑え込んだ。これは客が頼んだものだ。キャバ嬢がいきなり手掴みで食らいついたら一発でクビになる。
ならば、合法的に、かつ怪しまれずに食う方法を使うしかない。
俺は爪楊枝にからあげを一つ刺し、色っぽい上目遣いで大田さんを見つめた。
「大田さん、はい。あぁんしてあげます」
「おっ、いや、嬉しいな。ありがとう」
大田さんは鼻の下を伸ばし、大きく口を開けてからあげを一口で食べた。
「うん、美味い」
「ふふっ、よかった。……じゃあ、今度は」
俺は身を乗り出し、大田さんの腕にそっと自分の腕を絡ませた。
「大田さん、わたしにも『あぁん』してくれませんか? 実は今日、忙しくてお腹ペコペコなの……」
甘えた声でねだると、大田さんは「お安い御用だよ」とすっかりデレデレになりながら、新しいからあげを爪楊枝に刺して俺の口元へ運んできた。
「はい、あぁん」
「……はむっ」
熱い。美味い。肉の脂が舌の上に広がった瞬間、俺の細胞が「これだ!」と歓喜の声を上げた。
「おいしい……もっと」
俺は無意識に、餌を待つ雛鳥のように口を大きく開けて待機した。
大田さんも、娘に食事を与える父親のように、次々とからあげを俺の口へと放り込んでいく。
「あぁん」
「はむっ。……もっと」
「お、おう。よく食べるね」
「んっ……」
恐ろしいスピードだった。キャバ嬢と客の甘い「あぁん」営業のはずが、俺の肉飢餓のせいで完全に「わんこそば」状態になっていた。
あっという間に、皿の上のからあげが消滅する。
最後の一つを飲み込んだ後、俺は空になった皿を見つめ、心底悲しそうな顔をした。
「……もう、なくなっちゃった」
潤んだ瞳で大田さんを見上げる。魔法で造り替えたこの顔の破壊力は、自分でも恐ろしいほど知っている。
大田さんは俺の悲しそうな顔を見るなり、慌てて黒服を呼び止めた。
「す、すいません! からあげもっと頼もう。ええと、三人前で!」
よし、勝った。
俺は心の中でガッツポーズを決めながら、「大田さん、大好き!」と、さらにあざとく彼にすり寄った。
隣からアリサの視線が冷たく刺さっている気がしたが、今の俺には肉が最優先だった。




