ワインレッドの洗礼、あるいは飢えた女神の初陣
水黒さんたちを無事に見送ったあと、心地よい酔いの中にいた俺は、黒服の無機質な呼び出しによってルミと引き離されることになった。
「ルミちゃん、見送り終わった? じゃあそのまま3番テーブルのヘルプ入って」
「はーい! 貴子ちゃん、いま席空いてないから、とりあえず待機室戻っててー」
「えっ、もっと一緒にいたいのに……」
思わず本音が漏れた。アルコールのせいで、ルミの柔らかさに依存したくなっていたのかもしれない。
「ま、貴子ちゃんも疲れたでしょ。ちょっと休んでて」
ルミに背中を押され、俺は一人で控室へと戻った。
パイプ椅子に深く腰掛け、スマホでニュースを眺めて時間を潰す。だが、静寂が訪れると同時に、酔いとは別の「熱」が胃の奥でじわじわと鎌首をもたげ始めた。
その時だ。控室のドアが開き、一人の美女が入ってきた。
ウォーターフォール――滝を思わせる繊細な編み込みを施した、見事なロングヘア。その圧倒的なオーラに、俺は思わず見とれてしまった。
「あなた、例の新人ね。あいさつは?」
「あ……申し訳ありません。貴子です。よろしくおねがいします」
「わたしアリサ。よろしくね」
アリサは俺の前に立ち、足元から顔までを値踏みするようにじろじろと眺めた。その視線は、美術品の真贋を確かめる鑑定士のように鋭い。
「噂通り、本当にお人形さんみたい。……でも、服のセンスがわるいわね。それ自前なの?」
「いいえ、ここの借り物で……」
ルミが「貴子ちゃんに似合う」と自信満々に選んでくれたロイヤルブルーのドレスだとは、口が裂けても言えなかった。
アリサは鼻で笑うと、自分のロッカーから一着のドレスを取り出し、流れるような動作で着替え始めた。
「今日、同伴で来たんだけど。お客さんの合流があったから、一人ヘルプをつけたいの。あなた、つける?」
「は……はい」
「じゃあ、そのドレス脱いでこっちに着替えて。ドレス代はわたしがもつから」
強引に手渡されたのは、清楚系のロングドレス。深いワインレッドの色合いだ。
着替えてみると、店にある貸衣装なのでそれほど高級な生地ではないが、さっきの肉感的な青いドレスとは随分と印象が違って見える。
「ついてきて」
アリサに促され、俺は彼女の後ろをついてフロアへと戻った。
まだ少し酔いが回っているが、なんとかヒールを鳴らしてついていく。
「なにしてるの、はやく!」
急かされながらたどり着いたボックス席。
そこには、仕立ての良いイタリアンスーツを着こなした、いかにも羽振りの良そうな若手実業家風の男が二人座っていた。
アリサはにっこりと営業用の笑みを浮かべると、二人の男の間に、滑り込むようにして腰を下ろした。
「何になさいます?」
「ビールを。ハイネケンあったよね」
二人ともビールのようだ。
アリサは、ひげをジョージ・マイケル風に整えた方の男と同伴だったらしく、身を乗り出して楽しそうに話し始めた。
俺はもう一方の男の相手をしながら、慣れない手つきでビールを注ぐ。
だが、その間も胃の奥を焼くような、あの猛烈な「肉飢餓」が容赦なく俺を襲っていた。
(……っ、肉、肉が食いたい……!)
カバンの中には、さっき買ってきた自家製のサラダチキンが入っている。
控室にいたあのタイミングで食べておけばよかった。だが、アリサの登場でそんな余裕は一瞬で消え去っていた。
ビールの冷たさでは、この細胞の乾きを癒やすことはできない。
すると、客の一人がメニューを指差しながら言った。
「貴子ちゃん、からあげ頼んでくれる? あとビールもう一本」
(……からあげ?)
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中は香ばしい醤油と油の匂いで埋め尽くされた。
この店、そんなものまであるのか。
完璧な「貴子」の仮面の下で、俺の理性は今、からあげの一片を求めて、音を立てて崩れようとしていた。




