ウイスキーの罠、あるいは膝の上の迷宮
「貴子ちゃん、藤井さんに新しいのつくって」
左側のルミに促され、俺は「はい」と短く答えて対面席の藤井さんのグラスを手に取った。
アイスペールから氷を掴み、カチャカチャと小気味よく響く音を聞きながら、俺は教わったばかりの作法で丁寧に水割りを作り始めた。初めての接客を完璧にこなそうと、俺の意識は手元のグラスに集中していた。
その背後――奥の上座では、ルミが気を利かせすぎたのか、「部長、一番いい席に座りましょう!」と水黒部長を強引に誘導し、俺と自分の間に座らせていた。
結果として、水黒部長は『貴子とルミという二人の美女に両脇を固められる』という、接待の究極系を味わうことになった。
部長とルミが何やら視線を交わした気配がしたが、それが自分への悪戯の合図だとは、その時の俺は気づかなかった。
「どうぞ、お待たせしました」
俺は出来上がった水割りを藤井さんに手渡した。一仕事を終えて喉が渇いた俺は、テーブルに置いてあった自分のグラス――烏龍茶のソーダ割りが入っているはずのそれを、何の疑いもなく手に取った。
(……あれ?)
一口飲んだ瞬間、鼻に抜ける芳醇な香りに、俺は思わず首を傾げた。
お酒の味がする。けれどそれは不快な刺激ではなく、烏龍茶の渋みと混ざり合って、驚くほどまろやかで甘い口当たりになっていた。
左側のルミを見ると、彼女はどこか満足そうな笑みを浮かべていた。間に挟まれた水黒部長が、肩を揺らしてクスクスと笑っている。
「ちょっと、ルミちゃん……これ、お酒……」
「えー? 貴子ちゃん、お酒飲めるって言ってたじゃーん。せっかくのデビューなんだから、少しは飲まないと!」
中身の小野隆史は酒に強い。だから、味覚的にも「美味しい」と感じてしまった。しかし、この「小野貴子」の体はアルコールに対する耐性が未知数だ。
カアッと胃の奥から熱が広がり、視界がふんわりと白く滲み始めた。
普通ならここで気分を悪くするところだろう。だが、急速に回ったアルコールは、俺の「緊張感」というストッパーを見事に溶かしてしまった。
なんだかホワッとして、ひどく気分がいい。気が大きくなってきた。
「……ふふっ。ルミちゃんこそ、さっきはよくもやってくれましたねぇ……」
俺はとろんとした目でルミを見つめると、ソファに手をつき、ぐいっと左側へ身を乗り出した。
俺の細い腕が水黒部長の胸板の前を横切り、身を乗り出した反動で、ロイヤルブルーのドレスに包まれた柔らかな胸元が部長の肩や腕にむぎゅっと押し付けられた。
「おおおっ!?」
突然の美少女からの物理的プレッシャーに、部長が素っ頓狂な歓喜の声を上げる。
「ルミちゃんばっかり、私を触ってズルいです……ルミちゃんも、すっごくいい匂いするぅ……」
俺は水黒部長の肩越しに、ルミの首元に顔を埋めた。
「ちょ、きゃーっ! 貴子ちゃん!? 酔ってる、絶対酔ってる!!」
ルミはすぐに「やばい、貴子ちゃんから来てくれた! 超可愛い!!」と限界オタクの顔に戻り、部長を挟んで俺の腰を抱き寄せてきた。
「がっははは! なんだなんだ、俺は透明人間か! 最高だなオイ!」
水黒部長は、自分の目の前を橋にしてキャッキャといちゃつき合う二人の姿に、顔を真っ赤にして昇天しかけている。
普段なら絶対にしそうもない大胆なスキンシップに、俺自身も驚いていた。だが、アルコールが脳のブレーキを完全に焼き切っている。
「部長、見ててくださいね……ルミちゃん、私、もっと甘えたいですぅ……」
俺は水黒部長の太ももに片足を乗せ、ルミと密着した。
「うおおおお! お前ら最高だ! もっとやれ!」
理性を失いかけた部長が、俺の腰とルミの背中を両手で支えるようにして、さらに二人を密着させようとする。
一番奥の上座で繰り広げられるこのカオスな百合営業を、手前下座の対面席にいる藤井さんは、呆れを通り越して感心したように眺めていた。
こうして、水黒部長を「百合の架け橋」にしたまま、俺たちの宴は深夜まで続くことになった。俺の中の隆史は、すでに恥じらいという概念をアルコールとともに蒸発させていた。




