表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
55/80

お好み焼きの匂いと高級マンション、あるいはロングヘアの悲劇

 家の近くのネットカフェ。

 午前十一時を回ると、店内は静かなものだった。  二階のダーツやカラオケルームから漏れてくる音も、今の俺には全く気にならない。  疲れ切っていた俺は、個室の鍵を閉めた途端、泥のように眠りに落ちた。

 パッと目が覚める。ここはどこだ。

 知らない天井を見て、一瞬ここが翔子の部屋ではないかと身構えたが、すぐに狭いネカフェの個室だと理解して安堵した。

 変な時間に目が覚めてしまった。  スマホの時計を見ると、午前三時。

 そういえば、今日の昼十一時に、キャバクラ『バビロン』のルミちゃんと会う約束があったのを思い出した。  先週、初指名のお祝いとしてランチを奢ってくれるという話だった。

 だが、今の俺は着の身着のまま、お好み焼き屋のヨレヨレのTシャツ姿だ。  服を取りに帰らなければならない。  今の時間なら、流石に翔子もアパートの前で待ち伏せはしていないだろう。

 俺はフロントに向かい、スタッフに「一時外出」を告げて伝票を預けた。  早足で下宿へ帰る。

 翔子に見つからないよう、部屋の電灯はつけず、スマホの明かりだけを頼りにクローゼットを探った。

 古着屋で買った白いブラウスと、青いフレアスカート。  それから、黒いショーツを一枚。

 ブラジャーは要らない。俺の魔法の造形は重力を無視するからだ。  それらをエコバッグに詰め込み、足早にネカフェへと戻った。

 結局、その後はなんか眠れなかった。

 朝五時に起き出し、九時間パックが終わる八時まで店にいた。  無料のパンを齧り、コーヒーを何杯飲んだか分からない。

 午前中、一コマ目の授業だけは気合で出た。

 その後、俺は人目のない公衆トイレの個室に駆け込み、「小野貴子」の姿へと変身した。  持ってきた白いブラウスと青いスカートに着替える。

 そして、待ち合わせのカフェへと向かった。

 カフェの席でコーヒーを頼み、待っていると――。

「おっはよー!」

 不意に、背後からルミが勢いよく抱きついてきた。

「えっ!?」 「えって何よ。……あれ?」

 ルミは俺の首筋に顔を埋めたまま、ピタリと動きを止めた。  そして、くんくんと匂いを嗅いでくる。

「貴子ちゃん、なんか臭いよ。……お好み焼きの匂いがする」

 ギクッとした。

 そういえばそうだ。昨日はバイトで疲れ切って、シャワーも浴びずにネカフェで寝てしまった。  そして今朝も、シャワーを浴びるのをまるっきり忘れていたのだ。

 いくら魔法で絶世の美女に変身しても、元の身体の汚れや匂いまではリセットされないらしい。

「き、今日……この格好でバビロンに行くつもりじゃないよね?」 「……はい」 「とりあえず、一度家に帰ってシャワー浴びてきなよ。私、貴子ちゃんの部屋も見てみたいし!」

 そんなこと、できるわけがない。  あそこは小野隆史の、むさ苦しい男の六畳一間だ。

「そ、それが……ルームメイトが彼氏を連れ込んじゃってて。私、昨日ネカフェに泊まったんです」 「えーーっ!? 貴子ちゃん、ネカフェで襲われなかった!?」 「ちっとも」 「警戒心なさすぎ! ……でも、部屋に帰れないならさ。うちに来てシャワー浴びなよ!」 「た、助かります……」

 断る理由も、ほかにシャワーを浴びる場所もなかった。

「近くでよかったねー」

 連れて行かれたのは、繁華街からほど近い、エントランスに大理石が敷き詰められたタワーマンションだった。

「すごいマンションですね……家賃いくらくらいなんですか?」 「二十万! 親が半分払ってくれてて、あとは自腹かな。貴子ちゃんのところは?」 「三万、です」 「えっ!? 私、さっきから驚きっぱなしなんだけど! 三万ってオートロックなんてついてないでしょ? 大丈夫なの!?」

 本気で心配してくるルミに、俺は曖昧な愛想笑いを浮かべるしかなかった。

「とりあえず、シャワー浴びなよ! Tシャツ、私の置いておくからね」 「ありがとうございます」

 ルミにバスタオルと着替えを渡され、俺は広々としたバスルームへと入った。

 鏡の前で、服を脱ぐ。  そこでふと、重大な事実に気がついた。

(……そういえば、貴子の姿で風呂に入るの、初めてだ)

 魔法で造り上げた、洋画の女優のように整った骨格と、しなやかな身体のライン。  そして、肩まで伸びた、絹のように細く美しい黒髪。

(髪の洗い方……わからん)

 まあ、普通でいいだろ。  髪が多いから、いつもよりシャンプーを多めに出せばいいはずだ。

 俺はボトルのポンプを勢いよく数回押し、手のひらにドバッとシャンプーを出した。  それを頭頂部へ容赦なくぶち当て、いつもの小野隆史の感覚のまま、両手の指を大きく開いて「ガシガシガシッ!」と力任せに掻きむしるように洗い始めた。

 ――その刹那。

「痛っ……! 痛てててっ!」

 指が、動かない。

 男の短髪ならどれだけ乱暴に指を動かしても四方に抜けるが、貴子の繊細なロングヘアはそうはいかなかった。  最初の「ガシッ」の一振りで、無数の毛束が指の根元にがっちりと絡みつき、ロックされてしまったのだ。

 無理に動かそうとすれば、薄い頭皮が引っ張られて激痛が走る。

 さらに、男の短髪基準で大量に出したシャンプーは、ロングヘアの圧倒的な表面積によって爆発的な泡立ちを見せた。

 一瞬にして、頭の上がホイップクリームの山のようになる。  鏡に映る俺の姿は、まるで巨大なアフロパーマをかぶったような、絶望的な状態だった。

 おまけに、水分を限界まで吸い込んだ長い黒髪が、数キログラムの「濡れた鉄の塊」と化して、細い首にのしかかってくる。

 手が髪に完全に絡まって、身動きが取れない。  泡が顔に垂れてきて、目が開けられない。

(やばい……!)

 造形師としての最高の「作品」が、俺の雑な手癖によって物理的に破綻していく。

「ルミちゃんっ……助けて!!」

 俺の情けない悲鳴が、高級マンションのバスルームに虚しく響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ