お好み焼きの匂いと高級マンション、あるいはロングヘアの悲劇
家の近くのネットカフェ。
午前十一時を回ると、店内は静かなものだった。 二階のダーツやカラオケルームから漏れてくる音も、今の俺には全く気にならない。 疲れ切っていた俺は、個室の鍵を閉めた途端、泥のように眠りに落ちた。
パッと目が覚める。ここはどこだ。
知らない天井を見て、一瞬ここが翔子の部屋ではないかと身構えたが、すぐに狭いネカフェの個室だと理解して安堵した。
変な時間に目が覚めてしまった。 スマホの時計を見ると、午前三時。
そういえば、今日の昼十一時に、キャバクラ『バビロン』のルミちゃんと会う約束があったのを思い出した。 先週、初指名のお祝いとしてランチを奢ってくれるという話だった。
だが、今の俺は着の身着のまま、お好み焼き屋のヨレヨレのTシャツ姿だ。 服を取りに帰らなければならない。 今の時間なら、流石に翔子もアパートの前で待ち伏せはしていないだろう。
俺はフロントに向かい、スタッフに「一時外出」を告げて伝票を預けた。 早足で下宿へ帰る。
翔子に見つからないよう、部屋の電灯はつけず、スマホの明かりだけを頼りにクローゼットを探った。
古着屋で買った白いブラウスと、青いフレアスカート。 それから、黒いショーツを一枚。
ブラジャーは要らない。俺の魔法の造形は重力を無視するからだ。 それらをエコバッグに詰め込み、足早にネカフェへと戻った。
結局、その後はなんか眠れなかった。
朝五時に起き出し、九時間パックが終わる八時まで店にいた。 無料のパンを齧り、コーヒーを何杯飲んだか分からない。
午前中、一コマ目の授業だけは気合で出た。
その後、俺は人目のない公衆トイレの個室に駆け込み、「小野貴子」の姿へと変身した。 持ってきた白いブラウスと青いスカートに着替える。
そして、待ち合わせのカフェへと向かった。
◇
カフェの席でコーヒーを頼み、待っていると――。
「おっはよー!」
不意に、背後からルミが勢いよく抱きついてきた。
「えっ!?」 「えって何よ。……あれ?」
ルミは俺の首筋に顔を埋めたまま、ピタリと動きを止めた。 そして、くんくんと匂いを嗅いでくる。
「貴子ちゃん、なんか臭いよ。……お好み焼きの匂いがする」
ギクッとした。
そういえばそうだ。昨日はバイトで疲れ切って、シャワーも浴びずにネカフェで寝てしまった。 そして今朝も、シャワーを浴びるのをまるっきり忘れていたのだ。
いくら魔法で絶世の美女に変身しても、元の身体の汚れや匂いまではリセットされないらしい。
「き、今日……この格好でバビロンに行くつもりじゃないよね?」 「……はい」 「とりあえず、一度家に帰ってシャワー浴びてきなよ。私、貴子ちゃんの部屋も見てみたいし!」
そんなこと、できるわけがない。 あそこは小野隆史の、むさ苦しい男の六畳一間だ。
「そ、それが……ルームメイトが彼氏を連れ込んじゃってて。私、昨日ネカフェに泊まったんです」 「えーーっ!? 貴子ちゃん、ネカフェで襲われなかった!?」 「ちっとも」 「警戒心なさすぎ! ……でも、部屋に帰れないならさ。うちに来てシャワー浴びなよ!」 「た、助かります……」
断る理由も、ほかにシャワーを浴びる場所もなかった。
◇
「近くでよかったねー」
連れて行かれたのは、繁華街からほど近い、エントランスに大理石が敷き詰められたタワーマンションだった。
「すごいマンションですね……家賃いくらくらいなんですか?」 「二十万! 親が半分払ってくれてて、あとは自腹かな。貴子ちゃんのところは?」 「三万、です」 「えっ!? 私、さっきから驚きっぱなしなんだけど! 三万ってオートロックなんてついてないでしょ? 大丈夫なの!?」
本気で心配してくるルミに、俺は曖昧な愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「とりあえず、シャワー浴びなよ! Tシャツ、私の置いておくからね」 「ありがとうございます」
ルミにバスタオルと着替えを渡され、俺は広々としたバスルームへと入った。
鏡の前で、服を脱ぐ。 そこでふと、重大な事実に気がついた。
(……そういえば、貴子の姿で風呂に入るの、初めてだ)
魔法で造り上げた、洋画の女優のように整った骨格と、しなやかな身体のライン。 そして、肩まで伸びた、絹のように細く美しい黒髪。
(髪の洗い方……わからん)
まあ、普通でいいだろ。 髪が多いから、いつもよりシャンプーを多めに出せばいいはずだ。
俺はボトルのポンプを勢いよく数回押し、手のひらにドバッとシャンプーを出した。 それを頭頂部へ容赦なくぶち当て、いつもの小野隆史の感覚のまま、両手の指を大きく開いて「ガシガシガシッ!」と力任せに掻きむしるように洗い始めた。
――その刹那。
「痛っ……! 痛てててっ!」
指が、動かない。
男の短髪ならどれだけ乱暴に指を動かしても四方に抜けるが、貴子の繊細なロングヘアはそうはいかなかった。 最初の「ガシッ」の一振りで、無数の毛束が指の根元にがっちりと絡みつき、ロックされてしまったのだ。
無理に動かそうとすれば、薄い頭皮が引っ張られて激痛が走る。
さらに、男の短髪基準で大量に出したシャンプーは、ロングヘアの圧倒的な表面積によって爆発的な泡立ちを見せた。
一瞬にして、頭の上がホイップクリームの山のようになる。 鏡に映る俺の姿は、まるで巨大なアフロパーマをかぶったような、絶望的な状態だった。
おまけに、水分を限界まで吸い込んだ長い黒髪が、数キログラムの「濡れた鉄の塊」と化して、細い首にのしかかってくる。
手が髪に完全に絡まって、身動きが取れない。 泡が顔に垂れてきて、目が開けられない。
(やばい……!)
造形師としての最高の「作品」が、俺の雑な手癖によって物理的に破綻していく。
「ルミちゃんっ……助けて!!」
俺の情けない悲鳴が、高級マンションのバスルームに虚しく響き渡った。




