帰る場所のない夜、あるいは見失った俺の本質
隆史は、逃げるようにバイト先のお好み焼き屋へと転がり込んだ。
「香織さん、お疲れ様です……」
「おっ、隆史くん。今日も頑張って……って、あんたえらく疲れてるけど大丈夫?」
香織が心配そうに覗き込んでくる。
ヨレヨレのTシャツに、血の気のない顔。客観的に見てもひどい有様だろう。
「ええ……今まで監禁されてて、さっき脱出したところです」
「えっ」
「……いや、冗談です」
冗談ではないのだが、そう言うしかなかった。
「変な冗談言わないの。ほら、先にキャベツ切っちゃって」
「はい」
山のようなキャベツが積まれている。
いつもならため息が出そうになる量だが、なぜか今日は全く気にならない。
隆史は包丁を握り、一心にキャベツを刻み始めた。
ザクッ、ザクッ、と一定のリズムが響く。
(……俺、何やってるんだろ)
無心に手を動かしながら、自分のアホさ加減にじわじわと怒りが湧いてきた。
ちょっとした優越感を味わいたいがために。チヤホヤされるのが嬉しいだけで、色々なことを繕い、嘘に嘘を塗り固めてしまった。
結果、自分で自分を縛り、ヤンデレ美大生に文字通り身動きが取れない状態にまで追い込まれた。
今の俺の本当の姿って、なんだ?
普通の大学生? 完璧なイケメン? 絶世の美女? それとも、監禁される美少年?
「隆史くん、ちょっと」
「はい?」
「その山まででいいわ。あとは、なくなってからで」
香織に止められ、隆史はハッと手を止めた。
無意識のうちに、凄まじいスピードで大量のキャベツを刻み終えていた。
「どうしたの今日。まぁ、最近変なことが多いけどさ」
「香織さん……」
隆史は、思わず口を開いていた。
「僕のこと、どう思います?」
「えっ、どうって……隆史くんは隆史くんでしょ?」
「本質の俺って、どういう人間なのか……はっきり言ってほしいんです」
自分でも面倒くさい問いだと思った。
だが、香織が答えようとしたその時――。
「いらっしゃいませー!」
「あ、お客さん。後で聞いてあげるから、とりあえずホールお願い!」
「す、すいません!」
時刻は十八時を回り、店にはだんだんと客が入り始めた。
◇
この店は、客が自分で焼くことも、店員に焼いてもらうことも選べる。
隆史は、客から「焼いてください」と依頼されるのが結構好きだった。
いかに綺麗な円を描き、均等な厚みで焼き上げるか。
最初は形にこだわりすぎて『焼きすぎだ』と怒られたが、最近は自分の思った通りの形状に、美味しく焼けるようになっている。
ソースは垂れるからある程度仕方がないが、その上にマヨネーズで型取る線は、完璧なバランスでなければならない。
これも隆史にとっては一種の『造形』だ。
もちろん、客の誰もそんなこと気にしていないのだが、彼の中では譲れない芸術だった。
◇
二十二時前。
店がそろそろ閉まる時間になり、最後の客が帰っていった。
「ありがとうございましたー!」
二人の声が揃う。
「隆史くん、お疲れ」
「はい……疲れました」
鉄板の火を落としながら、香織がふと思い出したように言った。
「そういえばさっき、あんた変なこと言ってたよね。自分の本質がなにか、とか」
「いえ……最近、周りの環境が変わりすぎて」
俺自身が変わりすぎているせいなんだが。
「いわゆる、自分を見失っちゃったのかな……なんて。大げさですけど」
「ふーん……。隆史くん、君の趣味ってなんだっけ?」
「まあ。フィギュアの収集と、作成……でしょうか」
「フィギュアスケートの?」
「ボケないでくださいよ。ガンダムとか、アニメキャラの人形みたいなやつです」
香織は「ああ、それでね」と納得したように頷き、鉄板を磨きながら言った。
「わたしね、こう思うの。世界一のお金持ちに、ものすごいお金を積まれて『あなたの周りの物をすべてください』って言われたら、色々渡しちゃうでしょ?」
「はあ。まあ、そうですね」
「でも、最後に残るもの。おそらくそれは『命』だけど……その前に、『これだけは渡せない』っていうのが、誰にでもあるんじゃないかな」
「……」
「家族も、友人もなにもかもいなくて、あなただけだとしたら。命以外で手放せないものは、何なのかしら」
香織の言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
命以外で、最後まで手放せないもの。俺の本質。
「ちょっと哲学的ですね……。考えてみます」
そう答えた直後だった。
隆史の脳裏に、重大な事実がフラッシュバックした。
「あっ」
「どうしたの?」
「俺……今日、帰るところがない」
そうだ。監禁部屋から美少年の弟が逃げ出したとなれば、翔子は間違いなく「兄である小野隆史」のところへ探しに来る。
今頃、下宿先のアパートの前で、あの女が待ち伏せしている可能性が極めて高い。
「……どういうこと?」
香織が目を丸くする。
「いや、その……ちょっとアパートにやばい人が押しかけてきそうで」
「借金取り!?」
「違います! ちょっと……人間関係の、トラブルというか」
香織は呆れたように大きなため息をついた。
「はぁー……。あんた、ほんと最近どうしちゃったのよ」
「すいません……」
「仕方ないわね。店で寝泊まりさせるわけにはいかないし」
香織はエプロンを外し、自分のバッグから財布を取り出した。
「うち来る?」
「えっ」
「って言いたいところだけど、彼氏いるし無理だから。ほら」
香織が差し出したのは、数枚の千円札と、駅前にあるインターネットカフェの割引券だった。
「シャワーも浴びれるし、鍵付きの個室もあるから、とりあえず今日はそこでやり過ごしなさい。朝になったら頭も冷えるでしょ」
「香織さん……ありがとうございます。マジで女神に見えます」
「ハイハイ。宿泊代は出世払いね。あと、今私をからかった罰金として、お好み焼き一枚分、給料から引いとくからね」
香織のカラッとした優しさに、隆史は心底救われる思いだった。
ネットカフェに向かう夜道。
隆史は、さっきの香織の言葉を反芻していた。
『命以外で手放せないものは、何なのかしら』
俺が最後まで手放せないもの。
チヤホヤされる顔か。それとも、形を造り変えるこの魔法か。
それとも――。
答えは出ないまま、隆史はネオンが光るネットカフェの看板を見上げた。




