賢者タイムと脱出劇、あるいは柱の陰の女
翔子に完全に翻弄され、俺は果ててしまった。
静かな賢者タイム。
猛烈な肉飢餓も、異常な熱も、すべてが一時的に凪いでいる。
なぜか。
翔子が、賢者タイムに入って虚脱している俺の姿を写し取るため、再びイーゼルに向かったからだ。
「……素晴らしいわ。今のあなたのその表情。清楚さにエロティックが加わって、絶対に入賞できる」
キャンバスを睨みつける翔子の目は、凄まじい集中力に満ちていた。
俺と行為に及んだ直後だというのに、彼女の中ではすべてが「至高の芸術作品」を創り上げるための工程にすぎないらしい。
(なんかもう、ヤンデレとか通り越してヤバいやつだな……)
そう思いながらも、その揺るぎない芸術家としての業の深さに、俺の心にほんの少しだけ尊崇の念が芽生えていた。
(ていうか、俺、このままだと何度も賢者タイムにさせられるのか? こいつ、肉を買いに行くこと忘れてないよな……)
そんなことを考えたが、今はもう何も話す気が起きない。
急激な体力と魔力の消費でまぶたが重くなり、俺は不覚にもそのまま眠りに落ちてしまった。
◇
目が覚めたとき、日はすでに少し傾き、窓から見える木の枝が部屋の中に長い影を落としていた。
(……まずい、今何時だ)
壁の時計を見ると、十七時を回るころだった。
部屋に翔子の姿はない。買い出しに行ったのか。
今しかない。
俺は『造形魔法』の力を使い、手足を縛っていたスカーフとリボンの繊維を直接操作して切り裂いた。
縮れたスカーフの切れ端を口に入れ、強引に飲み込む。これでルールは満たしているはずだ。
急いで自分の服を探した。昨日脱ぎ捨てたままのヨレヨレのTシャツとズボンだ。
本来の『小野隆史』の服なので、今の華奢な中学生の体にはダボダボすぎる。
俺はズボンをベルトで強引に締め、長すぎるTシャツの袖をまくり上げた。
早くここを出なければ。
ソファの上に、俺のミニショルダーバッグが放り出されていた。中を確認する。
財布と下宿の鍵はある。
だが、スマホがない。周りを探すが見当たらない。
(まさか、持って出たのか……? いや、待て)
俺はミニショルダーに入っていたワイヤレスイヤホンを取り出し、Bluetoothをオンにした。
『接続しました』
ペアリングの音が鳴る。近くにあるはずだ。
ここ(監禁部屋)にスマホを置いていくわけにはいかない。
俺はイヤホンからのノイズを頼りに部屋を探り――あった。玄関のシューズケースの上だ。
スマホを取り上げ、ドアノブを回して外に出る。
助かった。
俺は周囲を見回し、翔子がいないことを確認してから、アパートの階段を駆け下りた。
とにかく人通りの多い場所へ向かわなければ。走りながら時間を計算する。
下宿には帰れそうにない。翔子が俺の不在に気づけば、必ず探しに来る。
それに、もうすぐ『普通の小野隆史』に戻ってしまう。
昨日の夕方、十九時にこの姿に変身した。魔法の制限時間は二十四時間。
時間を忘れないように、キリのいい時間に変身するというのが俺の決めたルールだ。
スマホの時計は十七時四十分。
あと二十分。
今まで、元の冴えない自分に戻ることをこれほど切望したことはなかった。
だが、その二十分がひどくもどかしい。
どこか目立たない個室で戻らなければ。
俺は駅前のファッションビルに飛び込んだ。
個室トイレが多い場所がいい。女性用ブランドが並ぶ階なら、男トイレは空いているはずだ。
エスカレーターで四階に上がる。
フロアに降りた直後、少し大きなマネキンディスプレイの前で、立ち止まっている後ろ姿があった。
俺は息を呑んだ。
「……げっ」
声を出すつもりはなかった。だが、漏れてしまった。
その女が、ゆっくりと振り向く。
メガネの奥の目が、驚愕に見開かれた。翔子だ。
(なんで買い出しに出たはずのこいつが、こんなところでマネキンの服を観察してんだよ!)
俺は脱兎のごとくエスカレーターを駆け上がり、五階の紳士服フロアへ逃げた。
後ろは振り向かない。とにかくトイレを探す。
あった。
飛び込むように個室に入り、鍵をかける。
便座に座り込んでスマホを見ると、十七時四十九分。
あと十一分だ。
ここで粘れば問題ない。トイレに入るところは見られただろうか。
息が整うのを待ちながら、必死に深呼吸を繰り返す。
(トイレで深呼吸すんな、俺……)
やがて――。
顔の骨格が内側から緩み、元の小野隆史の顔へと組み替わっていく感覚が訪れた。
無事に変身終了。少し落ち着こう。
個室から出て、洗面台の鏡の前に立つ。
そこには、見慣れた冴えない大学生がいた。
服を着替えるわけにはいかないが、このミニショルダーは先ほど翔子に見られているかもしれない。
俺はカバンからエコバッグを取り出し、ミニショルダーごと押し込んだ。
ファッションビルでヨレヨレのTシャツ姿はかなり浮くが、仕方ない。
俺は思い切ってトイレを出た。
翔子の姿はない。
やり過ごせたか。
そう安堵して歩き出そうとした瞬間、俺の視界の端が「異常」を捉えた。
紳士服フロアの少し離れた柱の陰。
そこから、メガネの女が、じっと男子トイレの出口を見張っていた。
(こえぇよ……!!)
逃げた「美少年」が男子トイレから出てくるのを、微動だにせず待ち構えているのだ。
俺は、彼女の視界を素知らぬ顔で通り過ぎた。
今の俺はただの「小野隆史」だ。
彼女は俺を一瞥もせず、ただひたすらに「山本秀」が出てくるのを待ち続けている。
エスカレーターを降りながら、どっと疲労が押し寄せてきた。
昨日から色々ありすぎた。正直、今すぐ自分のベッドで泥のように眠りたい。
だが、家には帰れそうにない。逃げた美少年を探して、あのヤンデレが下宿に突撃してくる可能性が極めて高い。
(まじで引越ししなくては……)
今日は、お好み焼き屋のバイトの日だ。
限界すぎて休もうかとも思ったが、今は一人の部屋にいるより、誰かまともな人間のそばにいてほしい気分だった。
(……香織さんに、癒されに行こう)
俺は重い足を引きずりながら、バイト先へと向かった。
書きためていたものがなくなりました。
少しお休みいたします。
申し訳ありません。




