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賢者タイムと脱出劇、あるいは柱の陰の女

翔子に完全に翻弄され、俺は果ててしまった。


静かな賢者タイム。

 猛烈な肉飢餓も、異常な熱も、すべてが一時的に凪いでいる。


なぜか。

 翔子が、賢者タイムに入って虚脱している俺の姿を写し取るため、再びイーゼルに向かったからだ。


「……素晴らしいわ。今のあなたのその表情。清楚さにエロティックが加わって、絶対に入賞できる」


キャンバスを睨みつける翔子の目は、凄まじい集中力に満ちていた。

 俺と行為に及んだ直後だというのに、彼女の中ではすべてが「至高の芸術作品」を創り上げるための工程にすぎないらしい。


(なんかもう、ヤンデレとか通り越してヤバいやつだな……)


そう思いながらも、その揺るぎない芸術家としての業の深さに、俺の心にほんの少しだけ尊崇の念が芽生えていた。


(ていうか、俺、このままだと何度も賢者タイムにさせられるのか? こいつ、肉を買いに行くこと忘れてないよな……)


そんなことを考えたが、今はもう何も話す気が起きない。

 急激な体力と魔力の消費でまぶたが重くなり、俺は不覚にもそのまま眠りに落ちてしまった。



目が覚めたとき、日はすでに少し傾き、窓から見える木の枝が部屋の中に長い影を落としていた。


(……まずい、今何時だ)


壁の時計を見ると、十七時を回るころだった。

 部屋に翔子の姿はない。買い出しに行ったのか。


今しかない。

 俺は『造形魔法』の力を使い、手足を縛っていたスカーフとリボンの繊維を直接操作して切り裂いた。


縮れたスカーフの切れ端を口に入れ、強引に飲み込む。これでルールは満たしているはずだ。


急いで自分の服を探した。昨日脱ぎ捨てたままのヨレヨレのTシャツとズボンだ。

 本来の『小野隆史』の服なので、今の華奢な中学生の体にはダボダボすぎる。


俺はズボンをベルトで強引に締め、長すぎるTシャツの袖をまくり上げた。

 早くここを出なければ。


ソファの上に、俺のミニショルダーバッグが放り出されていた。中を確認する。

 財布と下宿の鍵はある。


だが、スマホがない。周りを探すが見当たらない。


(まさか、持って出たのか……? いや、待て)


俺はミニショルダーに入っていたワイヤレスイヤホンを取り出し、Bluetoothをオンにした。


『接続しました』


ペアリングの音が鳴る。近くにあるはずだ。

 ここ(監禁部屋)にスマホを置いていくわけにはいかない。


俺はイヤホンからのノイズを頼りに部屋を探り――あった。玄関のシューズケースの上だ。

 スマホを取り上げ、ドアノブを回して外に出る。


助かった。


俺は周囲を見回し、翔子がいないことを確認してから、アパートの階段を駆け下りた。

 とにかく人通りの多い場所へ向かわなければ。走りながら時間を計算する。


下宿には帰れそうにない。翔子が俺の不在に気づけば、必ず探しに来る。

 それに、もうすぐ『普通の小野隆史』に戻ってしまう。


昨日の夕方、十九時にこの姿に変身した。魔法の制限時間は二十四時間。

 時間を忘れないように、キリのいい時間に変身するというのが俺の決めたルールだ。


スマホの時計は十七時四十分。

 あと二十分。


今まで、元の冴えない自分に戻ることをこれほど切望したことはなかった。

 だが、その二十分がひどくもどかしい。


どこか目立たない個室で戻らなければ。

 俺は駅前のファッションビルに飛び込んだ。


個室トイレが多い場所がいい。女性用ブランドが並ぶ階なら、男トイレは空いているはずだ。


エスカレーターで四階に上がる。

 フロアに降りた直後、少し大きなマネキンディスプレイの前で、立ち止まっている後ろ姿があった。


俺は息を呑んだ。


「……げっ」


声を出すつもりはなかった。だが、漏れてしまった。

 その女が、ゆっくりと振り向く。


メガネの奥の目が、驚愕に見開かれた。翔子だ。


(なんで買い出しに出たはずのこいつが、こんなところでマネキンの服を観察してんだよ!)


俺は脱兎のごとくエスカレーターを駆け上がり、五階の紳士服フロアへ逃げた。

 後ろは振り向かない。とにかくトイレを探す。


あった。

 飛び込むように個室に入り、鍵をかける。


便座に座り込んでスマホを見ると、十七時四十九分。

 あと十一分だ。


ここで粘れば問題ない。トイレに入るところは見られただろうか。

 息が整うのを待ちながら、必死に深呼吸を繰り返す。


(トイレで深呼吸すんな、俺……)


やがて――。

 顔の骨格が内側から緩み、元の小野隆史の顔へと組み替わっていく感覚が訪れた。


無事に変身終了。少し落ち着こう。


個室から出て、洗面台の鏡の前に立つ。

 そこには、見慣れた冴えない大学生がいた。


服を着替えるわけにはいかないが、このミニショルダーは先ほど翔子に見られているかもしれない。

 俺はカバンからエコバッグを取り出し、ミニショルダーごと押し込んだ。


ファッションビルでヨレヨレのTシャツ姿はかなり浮くが、仕方ない。

 俺は思い切ってトイレを出た。


翔子の姿はない。

 やり過ごせたか。


そう安堵して歩き出そうとした瞬間、俺の視界の端が「異常」を捉えた。


紳士服フロアの少し離れた柱の陰。

 そこから、メガネの女が、じっと男子トイレの出口を見張っていた。


(こえぇよ……!!)


逃げた「美少年」が男子トイレから出てくるのを、微動だにせず待ち構えているのだ。


俺は、彼女の視界を素知らぬ顔で通り過ぎた。

 今の俺はただの「小野隆史」だ。


彼女は俺を一瞥もせず、ただひたすらに「山本秀」が出てくるのを待ち続けている。


エスカレーターを降りながら、どっと疲労が押し寄せてきた。

 昨日から色々ありすぎた。正直、今すぐ自分のベッドで泥のように眠りたい。


だが、家には帰れそうにない。逃げた美少年を探して、あのヤンデレが下宿に突撃してくる可能性が極めて高い。


(まじで引越ししなくては……)


今日は、お好み焼き屋のバイトの日だ。


限界すぎて休もうかとも思ったが、今は一人の部屋にいるより、誰かまともな人間のそばにいてほしい気分だった。


(……香織さんに、癒されに行こう)


俺は重い足を引きずりながら、バイト先へと向かった。

書きためていたものがなくなりました。

少しお休みいたします。

申し訳ありません。

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