天使の拘束、あるいは甘すぎる飼育部屋
目が覚めたら、知らない天井だった。
いや、一度だけ見たことがある。
翔子の部屋の天井だ。
体を動かそうとして、絶望的な事実に気づいた。
手足がベッドの四隅に、色の違う柔らかいスカーフのようなもので縛り付けられている。
口には柔らかい紫色の布を噛まされ、頭の後ろで固く結ばれていた。
いわゆる、猿ぐつわだ。
「……んーっ!?」
「あ、起きたのね、秀ちゃん」
声のする方へ首だけを回す。
翔子はベッドの横にイーゼルを立て、画板に留めた画用紙に向かって鉛筆を走らせていた。
さらさらと芯の擦れる音が、静かな部屋に響く。
やがて彼女は手を止め、画用紙をこちらに向けた。
「どう? 『天使の拘束』よ。きれいでしょ」
(こいつ、完全にイッちゃってる……!)
俺は心の中で絶叫した。
猿ぐつわを解いて大声を出し、強引に逃げ出すことはできるかもしれない。
だが、逃げてどうする?
警察に保護されたとしても、この「山本秀」という中学生には戸籍がない。
しかも、二十四時間が経過して変身が解ければ、元の小野隆史に戻ってしまう。
そんな怪奇現象を見せれば、警察沙汰どころか研究施設送りだ。
つまり、自力で逃げるか、言葉でこいつを説得するしかない。
「うー! うーうー!」
必死に訴えると、翔子が優しい笑みを浮かべて近づいてきた。
「外してあげるけど、大声は出さないでね。ここ、ピアノ科の友人が退去したあとに入った部屋だから防音は完璧で、外には漏れないんだけど……私、うるさいのは嫌いなの」
(防音物件!? 監禁部屋!)
俺はコクコクと激しく頷いた。
翔子が優しく、慈しむような手つきで猿ぐつわを解いてくれる。
「ぷはっ……! 翔子さん、これって犯罪ですよ!」
「わかっているわ」
翔子はふんわりと微笑んだまま、俺の髪を撫でた。
「でも、自分を止められないの。あなたがモデルになってくれれば、私、今度の絵画展で絶対に賞をもらえる気がするの」
「それ、いつですか……」
「来月末よ」
「来月末まで、僕はこの状態なんですか!?」
血の気が引いた。
翔子は「そうねぇ」と楽しげに首を傾げる。
「ご飯は食べさせてあげるわ、『あーん』で。トイレは自分で行ってもらうけど」
「でも、兄さんが気づきますよ! 僕が家に帰らなかったら……」
「そう? でも、お兄さんから渡されたっていう携帯、ここにあるでしょ」
翔子は机の上から、俺のスマホ(小野隆史のメイン機)をつまみ上げた。
「さっき、お兄さんのLINEに『弟くん、どうしてる?』って聞いてみたんだけど、全然連絡ないの。秀ちゃんにお古の携帯を渡してるなら、お兄さんはiPadか何かで見てるはずでしょ?」
翔子は心底呆れたようにため息をついた。
「通知も来ないし、既読もつかない。自分の弟が帰ってきてないのに、保護者としてどうなっているのかしらね」
(おまえが誘拐してるからだろ!! っていうか俺のスマホがお前の手元にあるんだから、既読がつくわけねーだろ!!)
極上のすれ違いに、俺の脳血管がぶち切れそうになる。
「それにね、秀ちゃんにとってもいいこと、あるのよ」
翔子がベッドに膝を乗り上げ、顔を近づけてきた。
「え……?」
「中学生って、そういうの……一番『したい』時期でしょ?」
底知れぬほど甘く、とろけるような声。
「お姉さんが、いろいろ教・え・て・あ・げ・る」
(いや、教えてほしいとも思うけど! ここでそんなことになったら、一生逆らえない奴隷にされる……!)
理性が全力で警鐘を鳴らす。
だが、それ以上に限界を迎えていたのは「胃袋」だった。
昨夜から続く異常なエネルギー消費。
内臓を直接鷲掴みにされるような「肉飢餓」が、とうとう理性を凌駕し始めていた。
「いろいろは分かりませんが……と、とりあえず、肉をください」
情けない声で懇願する。
「そうだったわね。お腹すいたよね、食べさせてあげる」
翔子は『優しいお姉さん』の顔になり、買ってきたばかりのフライドチキンをつまみ上げた。
香ばしい油とスパイスの匂い。
「あ、ああっ……」
俺がたまらず食いつこうと首を伸ばすと、翔子はスッとチキンを引っ込めた。
(俺は犬か!)
「いじわるですね……!」
「だって、ご飯の前に言うこと、あるでしょ?」
「……いただきます」
「それだけじゃないわ。……『翔子さん、お肉ください』でしょ?」
(こいつ、マジでぶん殴ってやりたい……!)
だが、抗えなかった。
全身の細胞がチキンを求めて悲鳴を上げている。
「……っ、翔子さん。お、お肉……ください」
「ふふ、えらいね」
その直後だった。
翔子は自分でチキンを一口咥え、そのまま俺の顔に近づいてきた。
「えっ……んんっ!?」
重なる唇。
翔子の口から、熱いチキンの欠片が押し込まれてくる。
肉欲しさに、俺は翔子の口から直接肉を吸い出すように、必死に貪り食ってしまった。
ようやく、一切れの肉が胃に落ちる。
「……んっ、ぷはぁ」
翔子が唇を離し、恍惚とした表情で熱い吐息を漏らした。
「情熱的なキスだったわ。……はい、次」
肉がなくなるまで、その底なしに甘い口移しの飼育は続いた。
霞む意識の中で、俺は肉の味と彼女の甘い体温に溺れながら、絶望的な確信を抱いていた。




