ショタコンの目覚め、あるいは造形師の敗北
ポトフと鮭のムニエル。 野菜たっぷりの献立は、栄養学的には満点だった。
だが、隆史の体内に巣食う「魔法の代償」は、そんな柔和な滋養では決して黙らなかった。
中学生の華奢な骨格を維持するエネルギー消費は、凄まじい。
細胞の一つ一つが獣のように、タンパク質を求めて叫んでいる。
「……ごめん、ちょっと足りなくて」
隆史はたまらず席を立った。
冷蔵庫から手慣れた様子で、ストックのサラダチキンを取り出す。
そのままパウチを歯で引き裂き、無造作にかぶりつく。
その、餓えた獣のような。
あるいは作業中の職人が無造作に燃料を補給するような食べ方を見て、翔子は息を呑んだ。
(……えっ。この食べ方、隆史くん(兄)と全く同じ……)
指の添え方から、咀嚼のテンポまでが生き写しだ。
翔子の胸に、浮気の疑念とは別の、もっと家庭的な「闇」への予感がよぎる。
この美しすぎる兄弟を育んだ家庭環境は、よほど歪んだ食生活を強いているのではないか。
「隆史くん、実家ではいつもなに食べてたの?」
翔子の声は探るようでありながら、どこか同情を含んでいた。
「普通だけど。……サラダチキンとか」
不意の問いかけに、隆史はいつも自分が翔子の前で食べているものを、ついそのまま「実家の日常」として口に出してしまった。
「普通って……サラダチキンが?」
えっ、と翔子の顔が引きつる。
パックから出しただけの冷たい肉が「普通」とはどういうことか。
「母さんの得意料理なんだ。これ」
「とっ、得意料理なんだ……」
翔子は絶句した。
鶏胸肉を蒸しただけのものを「得意料理」と呼ぶ母親。
それはもはや、育児放棄に近いのではないか。
隆史は彼女の困惑を察し、空腹で回らない頭で慌てて付け加える。
「いや、姉さんのダイエットに付き合ってね。家じゅうがチキンばっかりだった時期があって、その名残っていうか……」
「……そういうこと」
隆史はうまくはぐらかしたつもりだった。
だが、翔子は追及の手を緩めなかった。
(隆史くん本人は自分のことを語りたがらないけれど、この『弟くん』なら、警戒せずに色々と話してくれるかもしれないわね)
「お姉さんは、今どこにいるの?」
「実家だよ。実家から近くの大学に通ってる。ひとつ上で……」
「そうなんだ。お父さんお母さん大変だね。大学生が二人もいて、さらにもう一人……あなたの分の学費までかかるなんて、相当大変そう」
労うような言葉。
だが、隆史は肉飢餓の熱に浮かされ、罠に気づかずに致命的な失言をしてしまう。
「えっ……。うち、二人姉弟だよ?」
翔子は持っていたスプーンを置き、ゆっくりと首をかしげた。
『おとうとだよね……?』
あくまで、本人だと言い張るのね。
心の中で冷たく呟く。
実家には、ひとつ上の「姉」がいるのは本当みたいだ。
そして目の前には、中学生くらいの「あなた」がいる。
少しずつ、家族構成は見えてきた。
「……ねえ、隆史くん。実家ってどこだったっけ? わたし、まだ聞いてなかった気がして」
色々と聞き出そうとする翔子の空気に注意を払いながら、隆史は頭を巡らせた。
遠い実家であれば、翔子もすぐに確認することはできないだろう。
そう踏んで、彼はあえて本当のことを話すことにする。
「広島だよ。市内」
「へぇ! それでお好み焼き屋でバイトしてるんだ」
翔子が納得したようにぽんと手を打つ。
「……それ短絡的。うちの店、関西風だし」
隆史がムッとしたように即答する。
広島出身者にとって、お好み焼きの流派を混同されるのは看過できないことだった。
「あら、ごめんなさい」
翔子はふんわりと微笑んだ。
広島出身というのは嘘じゃないみたい。
お姉さんのことも本当だろう。
(まあ、面倒な修羅場から逃げるために弟を身代わりに立てるなんて、相当なゲス男じゃない?)
「まあいいわ。今日はこの美少年をたっぷりとからかってから、帰ろう」
翔子は、隆史が食べ終わってちゃぶ台に残していたラップをつまみ、ゴミ箱へ捨ててからシンクで丁寧に手を洗った。
そして水気を拭き取ると、油断しきっていた隆史の背後から、細い首筋にすがりつくようにハグをした。
「えっ」
隆史は心底驚いたように肩を強張らせた。
今まで翔子は、こんなに自分から積極的に身体を密着させてくるようなタイプではなかったからだ。
「弟くん、そろそろ白状しなさい。お姉さんには、全部わかっているんだから」
耳元で囁かれたその言葉に、隆史の思考が急速に回転する。
(……そうか。翔子は、俺が自分の弟を身代わりに立てて逃げたと思ってるんだ。それにしても結構積極的だな……ショタコン入ってんじゃないのか? ならば、やりようがある)
ここであっさりと正体を明かすより、彼女の歪んだ妄想に乗っかって『追い詰められた無垢な少年』を演じ切る方が、この場を凌げるはずだ。
「いいえ、ぼ、僕……隆史です。弟なんかいませんし……」
隆史は意図的に声を上ずらせ、おどおどした口調で弁明してみせた。
けれど、背後の翔子の反応は、彼の計算をはるかに超えていた。
翔子は、自らの下唇を上唇でゆっくりと舐め上げた。
普段の大人しい彼女からは想像もつかない、獲物を狙う肉食獣のような恐ろしい目。
耳元にかかる彼女の息が、不自然なほどに荒い。
「そうなの……?」
少しの間が落ちる。
「だったら、私とキスできるよね?」
(……は?)
隆史の脳がフリーズした。
そりゃあ物理的にはできる。
できるが、翔子は今、俺を『隆史の弟』だと思い込んでいるはずだ。
それでキスをするって、浮気じゃないのか?
いや、俺は俺だから浮気ではないのか?
倫理観のメビウスの輪に囚われ、隆史は本気でビクビクした態度をとってしまった。
「それは……ぁ……」
「隆史くん、よね?」
「……はい」
妥協するように答えた瞬間だった。
後ろから隆史の左頬に添えられていた翔子の手に、有無を言わさぬ力がこもった。
魔法で華奢に造り変えられた細い首は抗うこともできず、強引に振り向かされ、視界が反転する。
「隆史くん。……大好きよ」
甘く、けれど絶対的な支配欲に満ちた声とともに、強引なキスが唇を塞いだ。
驚愕で身を固くする隆史の体は、そのまま床へと押し倒される。
(こいつ……こんな気も、あったのか……!)
ショタコンの扉を開け放ち、美術家としての「作品」への愛欲を暴走させた翔子の熱量は、すさまじかった。
造形師として『保護欲をそそる美少年』を完璧に作り上げた己の計算が、完全に裏目に出ている。
演技で彼女をコントロールするはずが、その圧倒的な重圧と湿り気に流されるようにして、夜の十二時が過ぎていく。
魔法で削り出された五十二センチの肉体が、翔子の歪なプロデュースによって完全に組み敷かれ、隆史は為す術もなく『二度目の喪失』の底へと沈んでいった。




