彼女が来る日に、美少年になってしまった
火曜日の朝。 今日はバイトが入っていない。夕方十九時には、翔子が「お野菜たっぷりメニュー」を振る舞いにこの部屋へやってくる。
ふと、鏡を見る。 今この瞬間から「宝塚隆史」に変身して、彼女を迎えに行くまでの時間を優雅に過ごすこともできた。だが、今日はどうしてもそんな気になれなかった。
(……今はまだ、この顔のままでいい)
大学へ向かう道すがら、松岡たちの賑やかな声が遠くに聞こえた。いつもならあそこに混じって馬鹿な話をするところだが、今の隆史にはその「日常」すら少しだけ重い。 午前の講義。隆史はあえて松岡たちのいる中央列を避け、窓際の目立たない席に座った。 昨日までの、泥を煮詰めたような気分は少しだけ晴れている。 複雑に絡まり合った人間関係――翔子への罪悪感、麻衣との「夜の共犯」、そしてキャバクラでの「貴子」としての生活。それらが消えたわけではないが、自分の中で少しずつ整理がつき始めていた。
(麻衣さんとは、たぶん……これからも折り合いをつけていけるはずだ)
彼女は大人だ。互いの利害が一致し、適度な距離感を保てるなら、深刻な泥沼に沈む前に軽い関係として付き合っていけるだろう。隆史は自分にそう言い聞かせた。
一度下宿に戻り、昼食の準備をする。 鍋に湯を沸かし、安売りのインスタントラーメンを放り込む。具材は、申し訳程度の野菜不足への抵抗として入れた「もやし」だけだ。 化学調味料の味が、ひどく「普通の大学生・小野隆史」の舌に馴染んだ。
「……あ、そういえば」
食器を片付けようとして、キャバクラ『バビロン』のルミのLINEを登録していなかったことを思い出した。 先週の木曜日、体入の終わりに半ば強引に交換させられたID
。今の自分には「貴子」として稼ぐ金が必要だ。これ以上放置して、店との縁が切れるのはまずい。
スマホを取り出し、ようやく「お友達申請」のボタンを押す。
食器を洗い桶に置いた直後、ポケットの中でスマホが激しく震えた。 承認、そして食い気味の連投。
『やっと登録してくれた! 貴子ちゃん、遅いよー!』 『ずっと待ってたんだからね? もしかして私、嫌われちゃったかと思ったじゃん!』
画面越しでも伝わってくる、ルミの圧倒的なエネルギー。
『ねえ、今から会おうよ! ほら、貴子ちゃんのあの「おじさんスマホケース」、買い替えに行こうって約束したでしょ?』
「……それは無理だ」
隆史は苦笑しながら、指を動かす。 今日は十九時に翔子が来る。明日の水曜日は、お好み焼き屋のシフトが夜まで入っている。 どう考えても、動けるのは木曜日しかない。
『今日は予定があるんだ。明日はバイトだし。……会うなら木曜日かな』
少しの間。既読がつき、すぐに返信が跳ねる。
『了解! だったら木曜日、お昼ごはん食べよ? 私が「初指名のお祝い」におごってあげるからさ!』
おごり、という言葉に、隆史の胃袋がわずかに疼いた。 先週、初めての接客で客から指名を取れたのは、ルミのサポートがあったからこそだ。彼女はそれを「お祝い」という口実にして、お気に入りの「貴子」を連れ出したいのだろう。
『わかった。楽しみにしてる』
短いやり取りを終え、スマホを置く。 窓の外から差し込む午後の光が、机の上の魔王フィギュアをぼんやりと照らしていた。
十九時時までのカウントダウン。 鏡の前で、彼は「普通の大学生」という唯一の安息を、自らの指で丁寧に削ぎ落とし始めた。
十九時。その時刻が近づくにつれ、隆史の心臓は逃げ場のない鼓動を刻んでいた。 先週、この部屋で翔子に見られた「貴子」のワンピース。そしてイタリアンレストランで遭遇した麻衣の存在。翔子の疑念はすでに沸点に近い。「姉の服だ」という苦しい言い訳は、美術科である彼女の観察眼の前ではもはや無力だった。
(……絶対、詰められる。浮気者と思われるくらいなら……いっそ、俺の趣味(女装)だと言い張る方がマシだ。変態だと思われて嫌われるなら、それまでだ)
隆史は洗面所の鏡の前に立ち、自らの顔に指先を沈めた。今回のテーマは「圧倒的な保護欲」だ。 鼻筋は鋭く通しながらも、目元の骨の圧を絶妙に逃がし、湿り気を帯びた長い睫毛の影を強調していく。顎のラインはいつもよりさらに鋭く削り、首筋の線を細く、長く引き伸ばした。
さらに「体」の造形に踏み込む。身長を少し低めに、そして肩幅を内側に寄せ、胸板の厚みを削ぎ落とした。五十二センチのウエストが「自分のもの」であると主張するための、命がけの偽装。鏡の中に現れたのは、宝塚隆史の面影を残しつつも、どこか幼く、壊れそうなほどに華奢な「美少年」だった。
その時、スマホが震えた。 『今スーパーを出ました。お野菜たっぷり食べてもらいますからね』
隆史は変身完了と同時に襲ってきた猛烈な肉飢餓を抑え込むため、冷蔵庫のサラダチキンを喉の奥へ押し込んだ。野菜を食べるために、肉を食らう。この矛盾した儀式を終えた直後、インターホンが鳴った。
◇
((翔子視点)
ガチャリ、とドアが開いた瞬間、私の心臓は別の意味で跳ね上がった。
「お待たせ、翔子さん。入って……」
そこに立っていたのは、いつもの華やかな「王子様」ではなかった。
鼻筋や目元に彼の面影はある。けれど、顔は一回り小さく、体は折れそうなほどに細い。まるで成長を止めた中学生のような、痛々しいまでの美しさを纏った「何か」がそこにいた。
「翔子さん、こんばんは」
(……え、誰? なんでこの子が私の名前を?)
私は一瞬、思考が停止した。けれど、すぐに得心がいった。
浮気を問い詰められるのを恐れた隆史くんが、よく似た弟を身代わりに立てて、自分はどこかへ逃げ出したのだ。
「……ねえ、君だれ」
「えっ、宝塚隆史だけど」
その言葉を聞いて、私は内心で失笑した。
「隆史」と名乗れと言い含められているのね。声までそっくりな子を用意するなんて、彼も相当に手が込んでいる。
でも、流石に無理があるわよ。どう見ても十四、五歳の「子供」じゃない。
(いいわ、そのおままごとに付き合ってあげる。……この子、隆史くん本人より「素材」として上だわ)
「入って、翔子さん」
促されるまま、中学生男子の部屋に足を踏み入れるような罪悪感と高揚感に浸る。
逃げた隆史くん(本人)への怒りよりも、目の前のこの「弟くん」があまりに可憐で、私の美術家としての本能を激しく刺激した。
「き、今日は、お野菜のリベンジだから! ポトフと、鮭のムニエル作るね!」
逃げ込むようにキッチンへ入り、キャベツを刻む。背後に感じる気配は、大人の男のそれではなく、ひどく幼く、毒が強すぎる。
「隆史くん……今日、なんか雰囲気違う? 弟くんかと思っちゃった」
「……先週末から体調が悪くて。寝込んでたら、痩せちゃったんだよね」
(ふふ、難しい言い訳。でも、可愛いから許しちゃう)
◇
小さなテーブルに向かい合い、食事が始まった。
「どうぞ、お野菜不足さん」
「ありがと」
弟くんはポトフを口に運ぶ。その食べ方は、兄から言い渡された「隆史」という役を懸命にこなしているようにも見えた。
「……おいしくない?」
「そんなわけないよ。おいしいよ、翔子ちゃん」
彼は私を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。その瞬間、私は悟った。
この子は、自分の美しさがどれほどの武器になるかを分かっている。本物の隆史くん以上に、残酷なほど計算ずくで微笑みを振り回しているのだと。
食事が終わり、食器を洗っている間も、私の頭にはクローゼットの「あの服」があった。隆史くん(兄)が隠しているあのワンピース。
「……実はさ、この前、嘘をついたんだ」
背後からの声に、肩が跳ねる。
「嘘って?」
「前、クローゼットのワンピースを『姉の服だ』って言っただろう。……実はあれ、俺のなんだ。少し、女性の服に興味があって……」
彼の声は微かに震えていた。
その震えが、たまらなく私の母性を、そしてどす黒い独占欲をくすぐる。
(そう。隆史くん(兄)は、この子に自分の趣味を代弁させているのね)
あのワンピースを着ている今の「この子」を想像してみる。普通なら変態だと切り捨てるような告白。けれど、今の私には、とっておきのご褒美に思えた。彼だけの秘密を、この「美少年」を通して共有されたような高揚感。
私の中にあった隆史(兄)への疑念は、いつの間にか「この美少年を自分色に染め上げたい」という独占欲へと変貌していた。
私は我慢できず、食器を放り出して背後から彼に抱きついた。
「えっ……!?」
私の腕の中で、弟くんの細い体がびくんと震える。
先週はあの女に隆史くん(兄)を奪われてしまったけれど、今度は私が、この「代わりの美少年」を愛でる番だわ。
「隆史くん、そのワンピース……本当はあなたのなのね?」
「……っ、あ……」
「隠さなくていいの。あなたのその『理想の形』、私がプロデュースしてあげる。……ねえ、もっと私に甘えて?」
あなたなら、私の服だって着こなせそうだもの。
私はショタコンじゃない。究極の「美」を造形しようとしている求道者なのだ。
隆史は、翔子の豹変ぶりと、「年上の愛好家」のような熱量に驚愕していた。
(……よし。浮気の件は、完全にどこかへ飛んだな)
魔法の代償である肉飢餓が、彼女の抱擁によってさらに激しさを増す。けれど、目の前の「修羅場」を回避できた安堵感は、どんなローストビーフよりも隆史の心を軽くしていた。
たとえ、彼女の中で自分が「身代わりの弟」という別人にすり替わっていたとしても。




