騎士たちの祝杯、あるいはキャベツの鎮魂歌
月曜の朝。
二十四時間が過ぎ、魔法はきれいに解けていた。
鏡の中にいた「王子様」や「女神」の気配は跡形もなく、そこにいるのは、目の下にうっすら影を落とした、いつもの小野隆史だ。
昨夜のことを思い出せば、気分は単純ではない。
麻衣の体温や、あの距離の近さを思えば、正直に言って嬉しかった。 男として求められた実感は、鈍い優越感としてまだ体の奥に残っている。
だが、その余韻をそのまま味わうには、今の状況はあまりに複雑だった。
(……俺、そんなに器用じゃないだろ)
普通の隆史。ホテルの宝塚。そしてキャバクラの貴子。
三つの顔を切り替えながら、それぞれに別の関係を持っているという状況は、冷静に考えれば破綻していて当然だった。
頭では分かっているのに、どれも捨てきれないのが一番厄介だ。
もっとも、今この瞬間に体が訴えているのは、そういう問題ですらなかった。
(……野菜、足りてないな)
口の中にわずかな苦味が残り、胃の奥が重い。
ここ数日、「生命維持装置」と化したサラダチキンと砂肝ばかりで乗り切ってきた反動が、ようやく表に出てきたらしい。
肉を求めるときのような切迫感はないが、体が静かにバランスを取り戻そうとしているのは分かる。
つまりこれは、ただの“まともな食生活への欲求”だ。
「……信じられるかよ、あの指先の震え」
隣の席では、松岡がペンを振り回しながら熱弁していた。
山本と松永が前のめりになり、その話に食いついている。
「俺が割って入った瞬間、ゆみちゃんが俺の袖をギュッて掴んだんだ。あれはもう、騎士道への目覚めだな。隆史、お前マジでいなくて正解だったぞ。あんな清楚な子、直視したら心臓持たねえから」
隆史は机の表面の細かな傷を見つめたまま、視線を上げなかった。
(……掴んだんじゃない。あれは普通に限界だっただけだ)
空腹で倒れかけて、たまたまそこに掴まっただけだ。
守られたのでもなければ、恋愛的な意味合いなど一切ない。
だが松岡の中では、すでに“美少女を救った騎士”として話が完成している。
その構図が、妙に気持ち悪かった。
自分が作った「形」に親友が憧れているという状況もそうだが、何より、その場にいた“中身”が自分であることを考えると、胃の奥にじわじわとした違和感が広がる。
(……なんだこれ)
罪悪感とも違うし、嫉妬とも少し違う。
ただ、噛み合っていない歯車を無理やり回しているような不快感だけが残る。
◇
夕方。
隆史はその感覚から逃げるように、お好み焼き屋のバイトへ向かった。
鉄板の上で豚肉が焼け、脂が弾ける。
普段なら食欲を刺激するはずの匂いが、今日はどうにも受け付けない。
むしろ、麻衣との夜の記憶を無理やり引きずり出してくるようで、わずかに吐き気すら覚える。
「小野くん、今日なんか鈍くない?」
香織がヘラを回しながら覗き込んでくる。
「また肉不足?」
「……いや、今日は違います」
自分でもうまく説明できないが、今日は肉じゃない。
隆史はキャベツの山を掴み、そのまま包丁を入れた。
ザク、ザク、と一定のリズムで刻んでいく。
手を動かしている間だけ、頭の中が少し静かになる気がした。
松岡の声も、麻衣の体温も、翔子の顔も、この単純作業の中に押し込めてしまいたかった。
「……今日は、キャベツだけでいいです。思いっきり野菜が食べたいんです」
「お好み焼き屋でそれ言う?」
香織が呆れたように笑う。
「ネギ焼きにしてあげようか?」
「いえ、生で」
「生?」
怪訝そうな顔をされたが、構わなかった。
今の体が欲しているのは、焼かれた何かじゃなく、ただの“そのままの野菜”だった。
休憩に入ったところで、スマホが震えた。
画面を見る。
『明日の献立、決まったよ。宝塚くんの体調を考えた、お野菜たっぷりのリベンジメニューです』
――翔子。
その一文を見た瞬間、指先がわずかに震えた。
彼女の中で俺は、「宝塚くん」という名前の、出来上がった誰かとして存在している。
顔も、声も、立ち方も、全部が整った、都合のいい理想の形だ。
だからこそ、その言葉はまっすぐすぎた。
体調を気遣って、野菜を用意してくれる。
それだけのことが、妙に重い。
(……野菜、食いたいな)
今の俺は、ただそう思っている。
肉じゃなくていい。むしろ避けたい。
体を落ち着かせるような、まともな飯がほしい。
けれど。
翔子の前でそれを食べるには、俺はもう一度「宝塚」にならなければならない。
そして「宝塚」でいる限り、あの感覚は避けられない。
肉を欲する、あのどうしようもない飢えだ。
つまり。
今、体が求めているのは野菜なのに、翔子の前に立った瞬間、俺はまた肉を欲し始める。
同じ体のはずなのに、求めるものが噛み合わない。
どちらも本当で、どちらも嘘みたいだった。
鉄板の熱気が背中にまとわりつく。
ソースの匂いが、やけに濃く感じる。
さっきまで避けたかったその匂いが、少しだけ、別の意味を持ち始めている気がした。
隆史はキャベツの芯をひとつつまみ、軽くかじった。
シャク、と乾いた音がする。
ほんの少し甘くて、少し苦い。
今の自分には、そのくらいがちょうどよかった。
(……明日、どの顔で行く)
答えはまだ出ないまま、隆史はもう一口、キャベツを噛みしめた。




