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パスタの味と、夜の共犯

ホテルについてからも、隆史は生きた心地がしなかった。

 なるべく麻衣の視線に入らないよう、影を潜めるように動く。夕方までなんとかかわしきった――そう思った瞬間だった。


「手、止まってる」


背中から届く、低くて落ち着いた声。振り向くまでもない。

「すみません」

「すみませんじゃなくて」


麻衣が隣に立つ。距離が近い。制服越しに彼女の体温が伝わってくるようで、隆史は肩を強張らせた。

「今日、来る?」


唐突だった。でも、意味は分かる。隆史は一瞬だけ黙って、それから首を振った。

「今日は……やめときます」


その返事に、麻衣は少しだけ目を細めた。

「へえ」

 軽い声。でも、彼女は引かない。

「昨日、泊まったでしょ」


隆史の動きがぴたりと止まる。何も言えない。言わないのを見て、麻衣が少しだけ愉快そうに笑う。

「顔で分かる」

「……そんなにですか」

「そんなに」


麻衣が一歩、踏み込んでくる。

「で、いい子にして帰るの?」


その言い方が、少しだけ意地悪だった。隆史は答えないまま、視線を外す。その沈黙を「YES」と受け取ったのか、麻衣は小さく肩をすくめた。

「じゃあさ。肉泥棒の件、覚えてる?」


隆史の背中に冷たい汗が流れる。

「……それ、今出します?」

「出すよ。別に言いふらす気はないけど、このまま帰らせるほど、私も優しくない」


逃げ道が、完全に塞がれた。隆史は小さく息を吐いた。

「……ずるいですよ」

「うん、知ってる」


麻衣は即答し、そのまま背を向けた。

「来なよ。ごはんくらい作るから」


それだけ言って、彼女は先に出口へと向かった。隆史は数秒だけ立ち尽くした。

(……やばいな)

 分かっている。でも、重力に引かれるように、足は彼女の後を追っていた。


麻衣の部屋は、前より少しだけ整って見えた。

「適当に座ってて」

 キッチンに立つ彼女の手際は、驚くほど良かった。にんにくの香りが立ち、オリーブオイルの弾ける音が響く。


「……料理するんですね」

「するよ。男の人にやらせるの好きじゃないし」


振り向かないまま答えるその声には、妙な余裕がある。やがてテーブルに置かれたのは、見た目も洒落た二皿のパスタだった。


「どうぞ。イケメンに出すなら、これくらいはね」

「その理屈なんなんですか」

「私、イケメン好きなのよね。今まで付き合った人、だいたいそう」


麻衣はパスタを一口食べ、さらりと言った。

「だからさ、周りの女の子に結構恨まれてる。みんな体目当てってわけじゃなかったけど、自信あるタイプばっかりでさ。気づいたら他にも女作ってて、終わる」


隆史は黙ってフォークを動かした。彼女の過去は、思ったより軽くない。

「でも、あなたは違うと思ってた。自信満々には見えないし、要領よく立ち回る感じでもない。なのにさ……昨日、彼女っぽい子見て。反対に、奪いたくなっちゃった」


空気が、一瞬で重質ソリッドなものに変わる。隆史は何も言えない。パスタの味は確かだった。でも、砂を噛んでいるような心地だった。


食べ終わって、皿を下げた麻衣が戻ってくる。足音は正面ではなく、背後から。

 肩に手が置かれ、背中に柔らかい重みが押し付けられた。


「ほんと、不思議。昨日あれ見たら、普通引くでしょ。なのに、逆」


腕が回る。耳元で囁かれる声。首に手がかかり、ゆっくりと顔を横に向けられる。

「こういうの、嫌いじゃないの」


距離が消える。強引に、逃げ場を奪うような唇が重なる。

(やばい)

 そう思ったときには、もう遅かった。


すべては麻衣の主導だった。

 隆史は途中で何度も何かを言おうとしたが、そのたびにタイミングをずらされ、流されていく。抗う力は、彼女の熱に溶かされてしまったようだった。


気づいたときには、天井を見ていた。

 息が荒く、体が鉛のように重い。

「優しいね。止めないとこ」


麻衣の満足げな声が聞こえる。

「……止められなかっただけです」

「同じでしょ」


隆史は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、朝のスープの香りと、翔子の声。

(……どうすんだよ、これ)


現実に引き戻された瞬間、底なしの沼に足を踏み入れた実感が襲ってきた。

「……帰ります」

 隆史は服を整え、逃げるように玄関へ向かった。麻衣は「またね」と、何もなかったような軽い声で送り出した。


夜の横浜の空気は冷たかった。だが、体の芯に残る熱と、消えない罪悪感が、隆史の歩みをひどく重くさせていた。

 もう、誤魔化せる段階ではない。そのことだけが、冷酷なまでに明確だった。

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