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潮風とコンソメ、あるいは朝の仮面

アラームが鳴った瞬間、隆史は跳ね起きた。 指がスマホの画面を叩き、二つ目のアラームも即座に封殺する。心臓の鼓動をなだめながら、恐る恐る隣を確認した。

翔子は、まだ夢の中にいた。 隆史のTシャツを借り、毛布を胸元まで引き上げた彼女は、静かな呼吸を刻みながら背を向けている。

「……よし」

作戦開始だ。 昨夜、宝塚隆史に変身したのは午前六時。つまり、そろそろ「期限切れ」が来る。ここで翔子に起きられたら、目の前で骨格が歪み、顔が溶けるように変わっていく怪奇現象を見せることになる。それは流石に、クローゼットの女物の服以上に説明がつかない。

いつもなら洗面所でやるが、今日は無理だ。洗面所はベッドに近く、水の音で翔子を起こすリスクは冒せない。 隆史は忍び足でベッドを抜け、持ち込んだ手鏡を片手にトイレへと逃げ込んだ。ドアが「カチ」と鳴る音にさえ、背筋が凍る。

便座に座り、膝の上に手鏡を立てた。 あと少し。指先で顔を確かめる。鼻筋、目元、顎のライン。昨夜から持続している「宝塚隆史」の顔だ。

「……めんどくさ」

小さく漏らした瞬間、時間が来た。 顔の奥がひやっと冷たくなり、次の瞬間、内側からほどけ始める。骨のパズルが崩れ、目元の圧が霧散し、顎の線がいつもの小野隆史へと緩んでいく。誰かに内側から顔を押し返されているようなこの不快感には、何度やっても慣れない。

鏡の中には、見慣れた、どこか冴えない「自分」がいた。 だが、今日はこれで終わりではない。九時にはホテルのバイトが始まる。ここからもう一度、仕事着としての「宝塚隆史」を作り直さなければならない。

隆史は軽く息を吐き、再び顔に触れた。 目元を引き、鼻筋を立て、輪郭を絞り込む。手慣れた手順のはずなのに、今日はどうにも収まりが悪い。

(……なんか、指先が迷うな)

昨夜の光景が頭の隅でノイズを立てる。クローゼットの扉、パンプス、そして翔子のあの冷えた目。うまく誤魔化したつもりだが、手元にその動揺が残っている。 それでもやるしかない。ホテルをこの顔で行くわけにはいかないし、行ったところで制服に顔が負ける。

鼻筋、目元、首筋。 ようやく鏡の中に、いつもの「王子様」が完成した。昨日と同じ顔なのに、自分の中だけがひどく落ち着かない。

トイレを出ると、部屋はまだ静寂に包まれていた。 隆史はそのまま冷蔵庫を開け、ラップに包まれた自家製サラダチキンを掴んで口に運ぶ。 一つ、二つ。三つ目を胃に流し込んだあたりで、ようやく空腹という名の焦燥が静まった。造形にはエネルギーが要る。途中で腹が減って顔が崩れるなど、洒落にならないのだ。

鍋に水を張り、キャベツと玉ねぎを刻む。ベーコンの脂が跳ねる音とともに、コンソメの香りが狭い部屋に広がり始めた。 トントン、とまな板を叩く音が目覚まし代わりになったのか、背後で毛布が擦れる音がした。

「……ん」

「起きたか。スープできてるぞ」

振り返った隆史は、すでに完璧な「宝塚隆史」だった。 翔子は目をこすりながら体を起こし、ぼんやりと隆史を見上げる。自分より大きなTシャツに包まれた彼女は、昨日の険しさが嘘のように幼く見えた。

短い朝食を終え、隆史は出勤の準備を急いだ。 リュックを肩にかけ、玄関で靴を履きながら、隆史はポケットから鍵を取り出した。指先に金属の冷たさを感じた瞬間、脳裏にあのクローゼットが浮かぶ。これを渡すのは、自分がいない間に「自由な検閲」を許すということだ。

(……やばいか? いや、ここで渋ったら、昨日の不信感は決定的なものになる)

隆史は意を決して、翔子の手のひらに鍵を落とした。

「悪い、俺もう行く。戸締まり、頼んでいいか? 出るとき、ポストに入れておいてくれればいいから」

「はい。……信じてくれて、ありがとうございます、宝塚くん」

翔子の純粋な感謝が痛い。隆史は「宝塚」の微笑みを崩さないよう、そのまま背中を向けた。

「次は、明日は会えますか?」

「いや、明日は……バイトが立て込んでて。火曜日なら、少し時間が取れる」

「火曜日! はい、待ってます。その時に、またお野菜の料理、リベンジさせてくださいね」

逃げるようにアパートを飛び出した隆史は、ビル風が運ぶ潮の香りを浴びながら、戦場のようなホテルへと向かった。

一方、一人残された部屋で、翔子は指先についた微かなラメをじっと見つめていた。 隆史くんが使うはずのない、キラキラとした光の粒。

「……お姉さんの。そうだよね、お姉さんのだよね」

自分に言い聞かせるように、小さく呟く。クローゼットの扉を閉める手は、昨日よりも少しだけ重かった。 考え始めれば、いくらでも悪い想像が膨らんでしまう。麻衣さんのこと、お姉さんのこと、そして彼が時折見せる、どこか遠くを見ているような瞳のこと。

けれど、翔子は頭を左右に振って、その思考を無理やり止めた。 彼が今朝作ってくれたスープは温かかった。今はそれだけで十分だと、自分を納得させる。 脱ぎ捨てられた彼のTシャツを丁寧に畳み、そっと鼻を寄せた。彼の匂いが、不安を少しだけ落ち着かせてくれる。

「横浜の大学生にしては、あまりに『宝塚』っていう響きが似合いすぎてるんだよ……」

少しだけ自嘲気味に笑い、翔子はリュックを背負った。 玄関を出て、言われた通りにドアのポストへ鍵を滑り込ませる。「カチャン」という乾いた音が、静かな廊下に響いた。それは、彼の秘密を暴かずに守り通した、自分へのご褒美の音のようにも聞こえた。

アパートを出ると、春の風が港の方から吹き抜けていく。 翔子は少しだけ襟元を合わせ、駅へと向かって歩き出した。

「火曜日……。絶対に宝塚くんが驚くくらい、美味しい野菜料理を作ってやるんだから」

献立を考えることで、胸の奥に残る「ラメの正体」を懸命に追いやる。 疑念がないわけじゃない。不安がないわけでもない。 それでも彼女は、火曜日の再会という小さな光だけを見つめて、横浜の雑踏の中へと消えていった。

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