検閲の夜
駅から隆史の下宿までは、歩いてすぐだった。 大通りを外れると、街の喧騒が嘘のように遠のく。街灯がまばらな細い道に入ると、二人の靴音だけが重なり、妙に大きく響いた。
「ここ」
隆史が足を止めたのは、年季の入った二階建てのアパートの前だった。 以前、昼間に一度だけ来たことがある。けれど、夜の闇に沈むその建物は、まるで別の表情を湛えているように見えた。
「前より……静かですね」 「ああ。夜だからな」
鉄製の手すりが冷え切った外階段を上がる。二階の廊下、少し暗すぎる照明の下で、隆史が鍵を取り出した。 その時、翔子は小さな違和感を逃さなかった。鍵を持つ彼の指先が、かすかに、けれど硬く強張っている。
(緊張してるだけ……?)
女の子を夜の部屋に上げるのだから、当然かもしれない。でも、それだけではない、何かを「隠し持っている」者の気配がした。あのレストランで麻衣に「ステージネーム」と笑われた、あの瞬間の彼の動揺が、まだこの指先に残っている。
重い音を立ててドアが開く。
「ちょっと散らかってるけど」 「知ってます。……でも、見ておきたいんです。今の私が知らない、あなたのことを」
翔子は努めて冷静に振る舞った。けれど、本当の目的はここからだった。玄関、靴、匂い。そして、彼がこの部屋で名乗っている「本当の名前」の痕跡を「検閲」するために彼女はここへ来たのだ。
六畳一間の室内。生活感はあるが、隆史の挙動だけが、あからさまに不自然だった。 彼の視線が、ときおり吸い寄せられるように部屋の左奥へ泳ぐ。クローゼットだ。
(あそこね)
確信が胸を掠める。でも、いきなり踏み込むような真似はしない。
「ごめん、靴、ちょっと直させて」
翔子はしゃがみ込み、ストラップを直すふりをして、玄関のたたきを凝視した。 汚れたスニーカー、サンダル。そして――。
一足の、黒いパンプス。
細身で、上品なデザイン。明らかに男の一人暮らしには不釣り合いなその靴を見た瞬間、翔子の脳裏に、麻衣が言った「タカラヅカ……ふふ、隆史くん」という余裕たっぷりの声がよみがえった。
「大丈夫?」 「……ええ、なんでもないです。宝塚くん」
あえて、麻衣が偽名だと笑ったその名を呼んでみる。隆史の肩が、びくりと跳ねるのを翔子は見逃さなかった。
「トイレ、借りてもいいですか?」 「あ、ああ。洗面所の横」
廊下を歩く。洗面所に入り、鏡の前に立つ。歯ブラシは一本。コップも一つ。 (……おかしい) 玄関にあれほど主張する靴があるのに、水回りには女の生活臭がまったくない。それよりも気になるのは、ここにも、郵便物の一通すら表に置かれていないことだ。
翔子は少しだけ水を流し、鏡の中の自分を見た。 「あなたは誰……? 私の好きな、宝塚くんは、どこの誰なの……?」 瞳は冷えている。けれど、この不透明な状況を暴きたいという熱が、彼女の検閲の手を止めさせなかった。
◇
部屋に戻ると、隆史はさっきよりも露骨にクローゼットを背にするような位置に立っていた。翔子はベッドの端に静かに腰を下ろし、出されたお茶を一口含んだ。
「麻衣さんって」 隆史の肩が、再び強張る。 「ホテルの人、なんですよね。……彼女は、あなたのことを『隆史くん』って呼ぶんですね」
「……仕事の付き合いが長いから。向こうが勝手に呼んでるだけだ」
「じゃあ……私の呼んでいる『宝塚』って苗字は、そんなにおかしいですか?」
隆史は今度こそ絶句した。翔子の瞳には、深い疑念と、それ以上に「正体不明の誰かを愛してしまった」という怯えの色が混ざっている。
「……おかしくないよ。俺は、君にそう呼んでほしいんだ」
その答えの危うさに、翔子の心臓が嫌な音を立てる。でも、彼女はあえて毒を抜いた声で微笑んだ。
「……そうですか。じゃあ、今は信じます。宝塚くん」
隆史の肩から、目に見えて力が抜ける。翔子はそんな彼を見つめながら、心の中でクローゼットの扉に狙いを定めた。
「……今日、泊まってもいいですか?」
耳の奥が熱くなるのを感じながら、彼女は賭けに出るような心地で告げた。隆史の正体を暴くための、長い検閲の夜が始まろうとしていた。




