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彼女?

レストランの会計時、背後からかかった声は、隆史の心臓を直接掴むような落ち着きと、確かな色気を含んでいた。

「……あら、隆史くん? こんなところで奇遇ね。デートかしら」

振り返ると、そこにはホテルの厨房で見せる白衣ではなく、夜の街に溶け込むような艶やかな私服に身を包んだ麻衣が立っていた。彼女は履歴書で知っている彼の本名を、まるで日常の挨拶のように、ごく自然に、そして親しげに口にする。

その瞬間、隆史の隣にいた翔子の肩が、目に見えて強張った。

「……隆史くん? 誰ですか、その呼び方……」

翔子が隆史を見上げる。その瞳には、困惑と鋭い拒絶が混ざっていた。彼女にとって、目の前の王子様は出会ったあの日からずっと「宝塚さん」であり、ようやく名前で呼べるようになった特別な、かけがえのない存在だったからだ。

麻衣は翔子の硬い反応を面白がるように、いたずらっぽく目を細めた。

「えっ、あなた彼をなんて呼んでるの? 彼はうちのホテルの期待の新星、隆史くんよ。ねえ?」

「……違う、彼は宝塚くんです」

翔子の声が震える。麻衣はその言葉を聞いた瞬間、少しだけ意外そうに目を見開き、それからくすりと、指先で口元を抑えて上品に笑った。

「タカラヅカ……? ふふ、隆史くん、あなたそんな素敵なステージネームで呼ばせてるの? たしかにあなたにぴったり。少し気取ってるけれど、とっても似合ってるわよ」

麻衣の隣にいた友人の女も、面白そうに二人を見比べる。「まあ、本当にオスカル様みたいなお顔ですものね。麻衣、このお兄さん、自分の見せ方をよく分かってるわ」

逃げ場のない沈黙が隆史を包んだ。翔子の指先が、隆史のジャケットの袖を、白くなるほどに掴む。彼女の中で、「宝塚」という気高き名が、麻衣という「彼をよく知る女性」の余裕ある言葉によって、単なる「演出された名前」へと塗り替えられていく感覚に、翔子は耐えられなかった。

「……宝塚くん……って、誰……? ねえ、隆史くん」

翔子がわざと、麻衣と同じ呼び方で彼を呼んだ。その響きは、もはや敬愛ではなく、裏切りを問い詰める冷徹な刃だった。

「あ、いや……それは……」

隆史の言葉は喉に張り付いて出てこない。仕事上の「隆史」を知る麻衣と、理想の「宝塚」を愛する翔子。

「職場の先輩、かな。ねえ、隆史くん? 今日はもう、お肉は足りてるのかしら?」

麻衣は追い打ちをかけるように、翔子の知らない「内緒の共通言語」を混ぜながら、余裕たっぷりに微笑んでみせた。

「行きましょう、宝塚くん」

翔子の声から温度が完全に消えた。彼女は隆史の手首を掴むと、会計を済ませるのも待たずに強引に店の出口へと引きずっていく。

「待てって……まだ支払いが――」

「払ってきますから! ……外で、じっくり聞きます。あなたが隠している『本当のこと』を」

レジ前で伝票を握りしめたまま固まる翔子の耳は、羞恥と怒りで真っ赤に染まっていた。背後では、麻衣たちの「お熱いわね」「隆史くん、あとでゆっくり聞かせてね」という楽しげな声が、夜のレストランに静かに響いていた。

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