鉄板の匂いと、深夜のドレス
深夜のファミレス。ドリンクバーの薄いコーヒーを啜りながら、隆史は限界を迎えていた。
月水金の「お好み焼き屋」での重労働。その合間を縫っての「貴子」としてのキャバクラ出勤。魔王の力で肉体を再構築しても、削られた精神までは回復しきれない。
「隆史くん、大丈夫……? 顔色、すごく悪いよ」
心配そうに覗き込んでくる翔子の声が、遠くに聞こえる。
「ああ、ごめん。ちょっと、バイトが立て込んでて……」
嘘ではない。だが、そのバイトの中身が「美女に変身して男をたぶらかすこと」だとは死んでも言えない。
「私の部屋、すぐそこだから。少し休んでいって?」
その優しさに甘えたのが運の尽きだった。
翔子の部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ瞬間に意識が途絶えた。
……そして、深夜。
ふと目が覚めた隆史を支配したのは、休息ではなく「造形師」としての業だった。
隣で眠る翔子の寝顔。
(この子の頬、もう少しだけ上げたら、もっと可愛くなるのに……)
無意識に手が伸びる。指先で彼女の頬を少し引っ張り、目を吊り目にしてみる。まるで粘土細工でもいじるかのように、彼は「魔王の力」が馴染んだ指の感触を楽しんでいた。スマホを取り出し、変形させた彼女の顔の隣で、無表情な自分の顔を並べてツーショットを撮る。
パシャリ、とスマホの音が静かな部屋に響いたが、彼女は起きない。
(ここが、女の子の部屋なんだよな……)
前回は「初めて」の熱に浮かされて観察どころではなかった。隆史は吸い寄せられるようにベッドを下り、ドレッサーへ向かう。そこには、翔子が明日着るつもりなのだろう、一着のワンピースが吊るされていた。
(これ……『貴子』ならどう着こなす?)
下着姿のまま、彼はその服を自分の体に当てた。
肩幅をこのくらい削って、ウエストをここに絞れば……。
鏡の中の自分。いや、自分の中にいる「貴子」が、その服を求めて疼き始める。
隆史は翔子のことすら忘れ、ドレッサーの化粧品や服の質感に没頭していった。
その時、背後に熱い気配を感じて、心臓が跳ねた。
振り返ると、翔子がベッドの上で身を起こし、呆然とこちらを見ていた。
「えっ……?」
翔子の短い声が、鋭いナイフのように夜の空気を切り裂く。
隆史の腕には、彼女のワンピース。
翔子の頭の中では、猛烈な勢いで「答え」が探されていた。
(え……? どういうこと? 隆史くん、私の服を見て……あんな顔をしてる。もしかして、隆史くんは……BLなの? 私は、ただのカモフラージュ……?)
彼女はBLが大好きだった。だが、目の前の最愛の彼氏が「そっち側」だという可能性に、心臓が激しく波打つ。
やばい。
隆史は直感した。このままでは取り返しのつかない誤解をされる。
「あ、いや、これ……姉ちゃんに……」
出かかった嘘は、あまりに稚拙だった。彼は言葉を飲み込み、野生的な本能のままに動いた。
一歩で距離を詰め、困惑に震える翔子を力任せに引き寄せる。
「……んっ」
問答無用の、深い、深いキス。
ごまかされている。彼女の脳内の一部がそう警鐘を鳴らしたが、重なる唇の熱がそれを麻痺させていく。
隆史はむさぼるように彼女を求め、そのままベッドへ押し倒した。
翔子もまた、彼を拒むことができない。混乱と不安をかき消すように、彼にしがみつき、その唇を、その体温を、必死にむさぼり返した。
(あ……)
絡み合う吐息の中に、ふわりと漂う匂いがあった。
高級な香水の香りでも、都会的な洗練された匂いでもない。
それは、昼間にお好み焼き屋で浴びたであろう、ソースと油の、ひどく泥臭い、生活の匂い。
(悪い人じゃないはず。……BLかもしれないけど、でも……)
その匂いに、なぜか翔子は安堵してしまう。
たとえ彼がどんな秘密を抱えていようとも、今、自分を抱きしめるこの腕の熱さだけは、嘘ではないと信じたかった。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光が、床に落ちたままのワンピースを照らしていた。
隆史はベッドを下り、窓際で服を着ながら振り返った。
「今日は9時からホテルの仕事がある。夕方には終わるから、その後……また会えないか。昨日、あんまりゆっくり話せなかったし、一緒にいたいから」
「……いいの?」
翔子が顔を輝かせると、隆句は少しだけ照れたように視線を外した。
「ああ。夕飯、一緒に食べよう。店、予約しておくから」
数時間後、隆史はホテルの披露宴会場で、完璧な立ち振る舞いでテーブルを整えていた。
黒いベストに身を包んだ「スタッフ」としての彼は、ゲストから見れば溜息が出るほど絵になる。それが、翔子の隣に立つための唯一の「武装」だと思っているからだ。
だが、厨房の主・麻衣だけは、その仮面の裏を見透かしている。
「今日も完璧ねぇ、肉泥棒くん。その格好なら、どんな嘘も本物に見えちゃうわよ」
隆史は無視して作業を続けた。彼はこの場所で、洗練されたマナーを体に叩き込んでいる。翔子を驚かせ、昨夜の自分を忘れさせるために。
夕方、仕事終わりの隆史は、麻衣に聞き出した駅裏のイタリアンへ向かった。
駅の改札。昨日貸したカーディガンを羽織った翔子を見つけた瞬間、隆史の心臓が少しだけ強く跳ねた。
「お待たせ」
「ううん。宝塚くん、今日もお仕事お疲れさま。ホテルのスタッフの時のあなたも、すごく素敵なんだろうな」
隆史は短く答えて歩き出した。店、このへん? と翔子が聞くと、前を見たままうなずく。
「駅の裏のほう。そんな遠くない」
駅裏の細い道。黄色い灯りがぽつぽつと落ちる中、隆史が一軒の店の前で足を止めた。ガラス張りの扉の向こう、やわらかい照明。ここなら、昨夜の自分を書き換えられるはずだ。
案内された席で、二人は向かい合った。
「こういうお店、よく来るんですか」
「いや、そんなでもない」
隆史は曖昧にし、麻衣の助言を思い出して「グラスワイン、赤二つ」と言った。運ばれてきたワインで軽く乾杯する。
「……小野くんは?」
翔子がメニューから目を上げて聞いた。
「俺は、変な小道具だけ残ることがある。灰皿とか、置き時計とか」
「そこ、すごく小野くんっぽいです。立体から入る感じ」
パスタを口に運びながら、翔子が少し首をかしげる。
「でも今日、意外でした。こういうお店に来るの。似合うけど、少し意外、です」
「ホテルの人に聞いたんだ。外しにくいところを。……最初から詳しいわけじゃない」
白状すると、翔子はやわらかく笑った。
「それ聞いて、ちょっと安心しました。私だけ場違いな気がしてたので」
食事の終わり、隆史は「払ってくる」とレジに向かった。そこで、入口の扉が開いた。
入ってきたのは、麻衣だった。
「……あ」
向こうも同じ顔をした。麻衣はすぐに口元だけで笑い、隆史の肩越しに店内を探る。席に立つ翔子を見つけ、その目が細くなった。値踏みするように、上から下まで一度見る。服、髪、立ち方、顔。
「へえ」
その一言が妙に長く響く。麻衣は少しだけ首をかしげた。
「……彼女?」
声は大きくない。
でも、静まりかえった店内の空気の中で、翔子にも届く距離だった。




