表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/53

鉄板の匂いと、深夜のドレス

深夜のファミレス。ドリンクバーの薄いコーヒーを啜りながら、隆史は限界を迎えていた。

 月水金の「お好み焼き屋」での重労働。その合間を縫っての「貴子」としてのキャバクラ出勤。魔王の力で肉体を再構築しても、削られた精神までは回復しきれない。

「隆史くん、大丈夫……? 顔色、すごく悪いよ」

 心配そうに覗き込んでくる翔子の声が、遠くに聞こえる。

「ああ、ごめん。ちょっと、バイトが立て込んでて……」

 嘘ではない。だが、そのバイトの中身が「美女に変身して男をたぶらかすこと」だとは死んでも言えない。

「私の部屋、すぐそこだから。少し休んでいって?」

 その優しさに甘えたのが運の尽きだった。


翔子の部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ瞬間に意識が途絶えた。

 ……そして、深夜。

 ふと目が覚めた隆史を支配したのは、休息ではなく「造形師」としての業だった。

 隣で眠る翔子の寝顔。

(この子の頬、もう少しだけ上げたら、もっと可愛くなるのに……)

 無意識に手が伸びる。指先で彼女の頬を少し引っ張り、目を吊り目にしてみる。まるで粘土細工でもいじるかのように、彼は「魔王の力」が馴染んだ指の感触を楽しんでいた。スマホを取り出し、変形させた彼女の顔の隣で、無表情な自分の顔を並べてツーショットを撮る。


パシャリ、とスマホの音が静かな部屋に響いたが、彼女は起きない。

(ここが、女の子の部屋なんだよな……)

 前回は「初めて」の熱に浮かされて観察どころではなかった。隆史は吸い寄せられるようにベッドを下り、ドレッサーへ向かう。そこには、翔子が明日着るつもりなのだろう、一着のワンピースが吊るされていた。

(これ……『貴子』ならどう着こなす?)

 下着姿のまま、彼はその服を自分の体に当てた。

 肩幅をこのくらい削って、ウエストをここに絞れば……。

 鏡の中の自分。いや、自分の中にいる「貴子」が、その服を求めて疼き始める。

 隆史は翔子のことすら忘れ、ドレッサーの化粧品や服の質感に没頭していった。


その時、背後に熱い気配を感じて、心臓が跳ねた。

 振り返ると、翔子がベッドの上で身を起こし、呆然とこちらを見ていた。

「えっ……?」

 翔子の短い声が、鋭いナイフのように夜の空気を切り裂く。

 隆史の腕には、彼女のワンピース。

 翔子の頭の中では、猛烈な勢いで「答え」が探されていた。

(え……? どういうこと? 隆史くん、私の服を見て……あんな顔をしてる。もしかして、隆史くんは……BLなの? 私は、ただのカモフラージュ……?)

 彼女はBLが大好きだった。だが、目の前の最愛の彼氏が「そっち側」だという可能性に、心臓が激しく波打つ。


やばい。

 隆史は直感した。このままでは取り返しのつかない誤解をされる。

「あ、いや、これ……姉ちゃんに……」

 出かかった嘘は、あまりに稚拙だった。彼は言葉を飲み込み、野生的な本能のままに動いた。

 一歩で距離を詰め、困惑に震える翔子を力任せに引き寄せる。


「……んっ」

 問答無用の、深い、深いキス。

 ごまかされている。彼女の脳内の一部がそう警鐘を鳴らしたが、重なる唇の熱がそれを麻痺させていく。

 隆史はむさぼるように彼女を求め、そのままベッドへ押し倒した。

 翔子もまた、彼を拒むことができない。混乱と不安をかき消すように、彼にしがみつき、その唇を、その体温を、必死にむさぼり返した。


(あ……)

 絡み合う吐息の中に、ふわりと漂う匂いがあった。

 高級な香水の香りでも、都会的な洗練された匂いでもない。

 それは、昼間にお好み焼き屋で浴びたであろう、ソースと油の、ひどく泥臭い、生活の匂い。

(悪い人じゃないはず。……BLかもしれないけど、でも……)

 その匂いに、なぜか翔子は安堵してしまう。

 たとえ彼がどんな秘密を抱えていようとも、今、自分を抱きしめるこの腕の熱さだけは、嘘ではないと信じたかった。


翌朝、カーテンの隙間から差し込む光が、床に落ちたままのワンピースを照らしていた。

 隆史はベッドを下り、窓際で服を着ながら振り返った。

「今日は9時からホテルの仕事がある。夕方には終わるから、その後……また会えないか。昨日、あんまりゆっくり話せなかったし、一緒にいたいから」

「……いいの?」

 翔子が顔を輝かせると、隆句は少しだけ照れたように視線を外した。

「ああ。夕飯、一緒に食べよう。店、予約しておくから」


数時間後、隆史はホテルの披露宴会場で、完璧な立ち振る舞いでテーブルを整えていた。

 黒いベストに身を包んだ「スタッフ」としての彼は、ゲストから見れば溜息が出るほど絵になる。それが、翔子の隣に立つための唯一の「武装」だと思っているからだ。

 だが、厨房の主・麻衣だけは、その仮面の裏を見透かしている。

「今日も完璧ねぇ、肉泥棒くん。その格好なら、どんな嘘も本物に見えちゃうわよ」

 隆史は無視して作業を続けた。彼はこの場所で、洗練されたマナーを体に叩き込んでいる。翔子を驚かせ、昨夜の自分を忘れさせるために。


夕方、仕事終わりの隆史は、麻衣に聞き出した駅裏のイタリアンへ向かった。

 駅の改札。昨日貸したカーディガンを羽織った翔子を見つけた瞬間、隆史の心臓が少しだけ強く跳ねた。

「お待たせ」

「ううん。宝塚くん、今日もお仕事お疲れさま。ホテルのスタッフの時のあなたも、すごく素敵なんだろうな」


隆史は短く答えて歩き出した。店、このへん? と翔子が聞くと、前を見たままうなずく。

「駅の裏のほう。そんな遠くない」

 駅裏の細い道。黄色い灯りがぽつぽつと落ちる中、隆史が一軒の店の前で足を止めた。ガラス張りの扉の向こう、やわらかい照明。ここなら、昨夜の自分を書き換えられるはずだ。


案内された席で、二人は向かい合った。

「こういうお店、よく来るんですか」

「いや、そんなでもない」

 隆史は曖昧にし、麻衣の助言を思い出して「グラスワイン、赤二つ」と言った。運ばれてきたワインで軽く乾杯する。


「……小野くんは?」

 翔子がメニューから目を上げて聞いた。

「俺は、変な小道具だけ残ることがある。灰皿とか、置き時計とか」

「そこ、すごく小野くんっぽいです。立体から入る感じ」

 パスタを口に運びながら、翔子が少し首をかしげる。

「でも今日、意外でした。こういうお店に来るの。似合うけど、少し意外、です」

「ホテルの人に聞いたんだ。外しにくいところを。……最初から詳しいわけじゃない」

 白状すると、翔子はやわらかく笑った。

「それ聞いて、ちょっと安心しました。私だけ場違いな気がしてたので」


食事の終わり、隆史は「払ってくる」とレジに向かった。そこで、入口の扉が開いた。

 入ってきたのは、麻衣だった。


「……あ」

 向こうも同じ顔をした。麻衣はすぐに口元だけで笑い、隆史の肩越しに店内を探る。席に立つ翔子を見つけ、その目が細くなった。値踏みするように、上から下まで一度見る。服、髪、立ち方、顔。


「へえ」

 その一言が妙に長く響く。麻衣は少しだけ首をかしげた。

「……彼女?」


声は大きくない。

 でも、静まりかえった店内の空気の中で、翔子にも届く距離だった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ