オタサーの姫の憂鬱、あるいは不穏なランチタイム
大教室(ケインズ概論)へと移動する間、俺は猛烈な後悔に苛まれていた。
松岡が右、山本が左、そして松永が背後を固める。この「鉄壁の布陣」は、確かにチャラ男どもの再接近を完全に遮断していた。廊下ですれ違う連中が「なんだあの姫を囲む護衛団は……」とヒソヒソ囁き、スマホのカメラを向けてくるのがわかる。
(……やばい。これ、完全に『オタサーの姫』の地獄絵図じゃないか)
「ゆみ」として松岡に助けを求めたのは、あくまでその場凌ぎの生存戦略だった。だが、蓋を開けてみれば、俺の「清楚系造形」が、あいつらの騎士道精神にガソリンを注ぎすぎてしまったらしい。
このままでは、友情で結ばれた彼らのグループに亀裂を入れる「サークルクラッシャー」になりかねない。中身は隆史なのに、外側が原因で親友たちが仲違いするなんて、冗談にもならない。
九十分の拷問のような講義中、三人の集中力はケインズの有効需要理論ではなく、隣に座る「ゆみ」の挙動に注がれていた。
俺が少しペンを落としそうになれば、反射神経の限界に挑むかのように三人の手が同時に伸び、空中で指が激しく衝突する。
「あ、すまん」「いや、俺が」「どけよお前ら、ゆみさんが困ってるだろ」
……困ってるのはお前らのその殺気だよ。
俺が少しノートを取る手を休めれば、「疲れてないか?」「糖分要るか?」「この範囲のプリント、俺がコピーしてくるから!」というメモが三方向から飛んでくる。
(……集中しろよ、お前ら。単位落とすぞ。あと、そのメモを回してる間に教授に見つかったら俺(貴子)の評価まで下がるんだよ!)
ようやくチャイムが鳴り、昼休みがやってきた。俺は「それじゃ、ここで……」とフェードアウトを試みたが、松岡が食い気味に、まるで告白でもするかのような真剣な面持ちで提案してきた。
「ゆみちゃん、この後、昼休みだろ? よかったら一緒に学食……あ、学食は騒がしいな。近くのカフェとか行かないか?」
「松岡、カフェなんてお前似合わねーだろ、キャラ作んなよ。ゆみさん、あそこのイタリアンはどうです? あそこならテラス席もあります」
「イタリアンなんて気取りすぎだろ、山本。ゆみさんは清楚系なんだから、静かな定食屋の方が……」
早くも火花が散り始める。三人の視線がぶつかり、教室の隅で静かな暴動が起きそうだ。このままでは店が決まる前に殴り合いが始まる。俺は「清楚系」の仮面を維持しつつ、首をかしげて控えめに、かつ慈愛に満ちた微笑みを浮かべて提案した。
「……あの、皆さん。私、皆さんと一緒なら、学食でもどこでも嬉しいです。せっかくですから、四人で……仲良く、食べませんか?」
『四人で』。そして『仲良く』。
聖母の託宣のようなその言葉に、三人は「……女神かよ」と魂が抜けたような顔で沈黙し、一斉に深く、軍隊のような統制で頷いた。
結局、一行は学食へと向かった。
清楚なヘップバーンスタイルの美女を、地味な男子三人がSPさながらにガードしながら歩く姿は、昼休みのキャンパスで異様なまでの注目を集めている。周囲の「あの地味な奴ら、何者だよ」「美女を誘拐してるのか?」という嫉妬と困惑の混じった視線が突き刺さる。
学食の列に並びながら、俺は必死にメニューを吟味した。
本当は、さっきパウダールームで食べたサラダチキンだけでは全然足りない。変身の維持には膨大なタンパク質が必要なのだ。
(……ステーキ重。いや、カツカレーのカツ大盛り。いや、油そばの肉マシ……!)
だが、今の俺は「ゆみ」だ。
松岡たちが「これ、ゆみちゃんに似合いそう」と勝手に選んでトレイに載せていくのは、申し訳程度の春雨サラダ、彩りだけは良い豆乳スープ、そして掌に乗るような小さなライ麦パン。
「ゆみちゃん、それだけで足りる? 俺の唐揚げ、一個あげるよ。レモン絞っといたから」
「松岡、唐揚げは油っこいだろ、デリカシーねーな。ゆみさん、俺のヒジキ煮を食べてください。鉄分は大事ですから」
「お前ら、ゆみさんのカロリー計算を邪魔するなよ! このヨーグルトもつけておきましたから」
始まった。互いの小皿を差し出し合い、誰が一番「姫」の健康と好みを把握しているか選手権。
俺は、彼らの「献身」という名の重圧に耐えながら、心の中で血の涙を流して絶叫した。
(……唐揚げ! 頼むからそのレモンのかかった唐揚げを俺の口に放り込んでくれ松岡! でも『ゆみ』は学食で唐揚げをガツガツ喰らうような女じゃないんだよ! クソ、この『清楚』というブランドの維持費、高すぎるだろ……!)




