表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/53

「清楚」の代償、あるいは死角なき視線

ルミの執念に押し切られる形でLINEの交換を済ませ、俺は店長の佐藤から封筒を受け取った。中身は時給2000円、二時間分の「体入タイニュウ」代として4000円。

 ずっしりと重い。物理的な重さではなく、この絶世の美女を維持するために削った精神の磨耗分が含まれている重さだ。


深夜の帰宅。

 自室のドアを閉め、鍵をかけた瞬間に変身を解く。

 途端に、胃袋が裏返るような猛烈な空腹感が襲ってきた。


「……くっ、肉を……」


俺は冷蔵庫からサラダチキンを掴み出し、包装を食いちぎるようにして中身をかきこんだ。一本、二本……三本目でようやく人心地つく。

 一息ついて携帯を手に取ると、通知ランプが明滅していた。


『高田翔子:明日、あえませんか?』


心臓が不規則なビートを刻む。明日の予定を脳内で整理する。夕方までは「貴子」として大学。その後、隆史に戻ってお好み焼き屋のバイト。……そのあとなら。


『隆史:バイト終わってからなら、いけるよ。夜遅くになっちゃうけど』


返信して天井を見上げ、俺は戦慄した。

「……明日、着る服がない」


今持っている「貴子」用の服は、あの黒いワンピースだけだ。

「大学に毎日同じ服で行くわけにはいかない。また古着屋か……?」


今日の稼ぎは、今日食べたサラダチキン代と、明日買うであろう古着代で、確実に消えてなくなる。

「俺の収支、全然合ってなくね……?」


絶世の美女として世界を翻弄しているはずなのに、懐事情はひたすら自転車操業。俺は明日、松岡の嫉妬に満ちた視線と、翔子との約束、そしてカツカツの財布という三重苦を背負うことになる。


翌朝。俺は昨夜の疲れが抜けきらぬまま、早朝の古着屋の軒先に並んでいた。

 目指すは、昨日稼いだばかりの4000円と、手持ちの小銭を合わせた軍資金の全投入だ。


「……これだ」


ラックの奥から引き抜いたのは、『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーンが着ていたような、クラシックなツーピースだった。白のブラウスに、気品のあるフレアスカート。清楚を形にしたようなそのセットが、運良く上下で3000円。さらにワゴンで見つけたパンプスが2000円。


「…………合計5000円」


昨日のバイト代が、一瞬で消えた。いや、むしろ赤字だ。

 だが、今の俺には「戦場(大学)」に挑むための装備が必要だった。昨日の派手なワンピースのままでは、目立ちすぎて別の騒ぎを呼ぶ。


変身を済ませ、大学のキャンパスに足を踏み入れる。

 清楚な「貴子」としての歩みは、周囲の空気を浄化するような、あるいは切り裂くような静寂を連れてくる。すれ違う学生たちが、言葉を失って立ち止まるのがわかる。


(……今日は、絶対に松岡に捕まるわけにはいかない)


あいつは親友だ。だからこそ、一昨日の「木曜日に、また」という貴子の不用意な発言が、あいつをどれだけ混乱させているか容易に想像がつく。からかうのは楽しいが、これ以上は友情にヒビが入る。


俺は大教室に入ると、いつも松岡と一緒に座っている中央の席を避け、後方の端、柱の陰になる位置に滑り込んだ。ここなら松岡の視界からは外れるはずだ。


だが、安堵したのも束の間だった。隣の席に座っていたチャラそうな金髪の男子学生が、教科書を広げるふりをして、露骨にこちらを覗き込んできた。


「……ねえ、君。見ない顔だね。新入生? それとも留学生?」


鼻をつく香水の匂い。

 俺は視線を教科書に落としたまま、声を押し殺した。

 しまった。松岡という防波堤を自ら捨てた結果、より面倒な「捕食者」たちの射程圏内に飛び込んでしまったらしい。


授業が終われば、間違いなくこいつに絡まれる。逃げ道を探そうと教室内を見渡すと、遠く離れた定位置で、松岡が必死に周囲をキョロキョロと見渡しているのが見えた。あいつ、朝からずっと貴子を探しているのか……。


(……収支はマイナス。松岡は不審。隣にはチャラ男。俺の『清楚系女子大生』ライフ、初日から詰みかけてないか?)


隆史(貴子)は、サラダチキンのエネルギーが恐怖で消費されていくのを感じながら、震える指でシャーペンを握りしめた。


講義終了のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は荷物を掴んで講堂を飛び出した。

 だが、案の定だ。背後からあの軽い足音がついてくる。


「ねえ待ってよ! 次の講義何? 俺、ケインズ概論なんだけど。君は?」


……最悪だ。俺もケインズ概論だ。

 無視して歩幅を早めるが、腹の虫が猛烈に抗議の声を上げる。変身を維持するエネルギーが底を突きかけているのだ。


(……いっそ、こいつに肉を奢らせてやろうか?)


一瞬、そんな悪魔の囁きが脳内を掠めたが、すぐに打ち消した。こんなチャラ男に借りを作れば、文字通り骨までしゃぶられるまで付きまとわれる。それに、この清楚な「ヘップバーンスタイル」で、学食のステーキ丼をガツガツ喰らう姿を晒すわけにはいかない。


俺は逃げ込むように女子トイレ、もとい「パウダールーム」に滑り込んだ。

 流石にここは追ってこれまい。


パウダールームには先客の女子学生が二、三人いた。

 俺が入った瞬間、彼女たちの会話が止まり、値踏みするような視線が突き刺さる。そして、クスクスという忍び笑いとひそひそ話が始まった。


「ねえ、あの服……本物?」「気取りすぎじゃない?」「モデル気取り?」


無視だ。無視だ。今の俺には、彼女たちの嫉妬に付き合っている余裕はない。

 俺は鏡の端のスペースを陣取ると、バッグから保冷バッグ――通称「生命維持装置」を取り出した。中には、昨晩仕込んだ自家製サラダチキンが詰まっている。


周囲の視線も構わず、俺はジップロックを剥ぎ取り、肉の塊を口に運んだ。清楚なブラウスを汚さないよう気をつけながらも、その咀嚼速度は野生動物のそれだ。


「……嘘でしょ、あの人。あんな格好して、パウダールームでチキン食べてるんだけど」

「しかも自家製っぽくない? 怖……」


笑い声が聞こえるが、構わない。

 一枚分を完食したところで、ようやく脳に酸素と魔力が回ってきた。歯を磨き、乱れたリップを引き直して、俺はパウダールームを後にした。


だが、外にはまだ「壁」が立っていた。

 チャラ男はさらに二人の友人を引き連れて、勝ち誇ったような顔で待ち構えていた。


「おっ、お帰り。化粧直し長かったね。次の教室まで案内するよ。こいつらも紹介するからさ」


うざい。猛烈にうざい。

 空腹を満たしたことで、逆に攻撃的になっていく俺の理性。だが、ここで「貴子」として暴れるわけにもいかない。


(……悪いが、親友としての役目を果たしてもらうぞ、松岡)


俺は遠くの方で、まだ貴子を必死に探してキョロキョロしている松岡の姿を捉えた。俺は意を決して、チャラ男たちを無視し、大声でその名を呼んだ。


「――松岡くん!!」


鈴を鳴らすような、だが必死な「美少女の悲鳴」。その声に反応して、松岡が弾かれたようにこちらを向いた。


【松岡視点】


心臓の音がうるさくて、ケインズの経済理論なんて一文字も頭に入ってこない。


一昨日、あの大教室で俺を地獄のような嫉妬の渦に叩き落とした、あの絶世の美女。

 別れ際に彼女は言ったはずだ。「木曜日に、また」と。

 だから俺は、昨日一日中、講義もそっちのけで首を長くして待っていた。なのに、彼女は現れなかった。……結局、あれはただの気まぐれだったのか?


そんなことを考えながら、今日も未練がましく廊下を歩いていた、その時だった。


「――松岡くん!!」


鼓膜を震わせたのは、あの、鈴を鳴らすような声。

 弾かれたように顔を上げると、そこには一昨日の派手なワンピースとは打って変わって、まるで往年の映画女優のような、清楚なツーピースに身を包んだ「彼女」がいた。


(……なんで、俺の名前を知ってるんだ?)


一昨日は名乗る隙もなかったはずだ。混乱が脳を焼く。だが、疑問に浸っている余裕はなかった。

 彼女の背後には、いかにも「軽薄」を絵に描いたような男たちが三人。獲物を追い詰めるハイエナのような目をして、彼女に付きまとっている。


(絡まれてる……のか。……よし、ままよ!)


ここで動かなきゃ男じゃない。名前も知らないけれど、助けてやるんだから、この際名前なんて何でもいい!


「……おい! どこに行ってたんだよ、ゆみ! ずっと探してたんだぞ!」


自分でも驚くほど、自然に「彼氏面」した声が出た。

 彼女――「ゆみ(仮)」は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに俺の方へ駆け寄ってきた。その細い肩が震えている(ように見えた)。


チャラ男たちが、不快そうに顔を歪めた。彼らは俺の着古したパーカーから、安物のスニーカーの先まで値踏みするようにジロジロと見て、鼻で笑った。


「は? なんだよお前。ゆみちゃんの連れ? ダサすぎだろ」

「なあ、ゆみちゃん。こんな冴えない男放っておいてさ、俺たちと一緒に講義受けようよ。ケインズなんて退屈だろ? 終わったら美味い店連れてってやるからさ」


チャラ男の一人が、馴れ馴れしく彼女の肩に手を伸ばそうとする。

 俺の視界が、怒りで真っ赤に染まった。

 

(……俺が今、この子の唯一の知り合いなんだ。……この俺が守ってやる!)


俺は一歩踏み出し、彼女を背中に隠すようにして、チャラ男たちの前に立ちはだかった。

 廊下の温度が、物理的に数度上がった気がした。松岡の怒鳴り声を聞きつけ、野次馬たちが一斉に集まってくる。その中心にいるのは、震える肩を抱く(ふりをした)清楚な美女と、彼女を背中で庇い、拳を握りしめる地味な青年。


「なんだ? 喧嘩か?」

「いや、あの男が女の子を助けてるみたいだぞ」


そんな声が飛び交う中、人だかりを割って、さらに二人の男が姿を現した。隆史のオタク仲間であり、松岡とも腐れ縁の山本と松永だ。


「……おい、松岡。何やってんだ、お前」

「どんな構図だよ、これ。……って、その子は?」


山本と松永は、松岡の背後に隠れている「ゆみ(貴子)」の姿を見た瞬間、言葉を失った。この世のものとは思えない透明感を放つ清楚な美女が、自分たちの仲間である松岡の服の裾を掴んでいるのだ。


状況は一瞬で理解した。……いや、理解はしていないが、「守るべき対象」だけは明確に把握したらしい。


「事情は知らねえが、女の子が嫌がってんなら話は別だ」

「松岡、加勢するぞ」


山本と松永が、松岡の左右に並び立った。

 山本は体格が良く、松永は眼光が鋭い。普段はフィギュアの造形や新作アニメの批評に情熱を燃やすだけのオタク三人衆が、今、絶世の美女を守る「鉄壁の騎士団」へと変貌を遂げた。


三人の男に睨まれ、さらには周囲の観衆の「正義の視線」に晒されたチャラ男たちは、流石に顔を引きつらせた。


「……ちっ、シラけたぜ。ゆみちゃん、あんな暑苦しい奴らと仲良くしてなよ。趣味悪すぎ」


捨て台詞を吐き捨てて、チャラ男たちが足早に立ち去っていく。勝利の瞬間だった。


隆史は、松岡の背中からそっと顔を出した。山本の威圧感、松永の連帯、そして何より、自分を信じて立ちはだかった松岡の熱量。


(……やれやれ。こいつら、こんなにかっこよかったっけ?)


造形師として、自分の「作品からだ」が引き起こしたこの騒動に、隆史は少しの罪悪感と、それ以上の、得も言われぬ心地よさを感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ