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観測者たちの沈黙、あるいは五十二センチの福音

授業終了のチャイムが鳴った。

だが、誰一人として席を立とうとしない。百人以上を収容した大教室の空気は、一人の「女」を中心に、完全に凍りついていた。


「いつも、この講義受けてるの……?」

隣に座る松岡が、焼き付くような喉から絞り出した声。

「受けてるわよ。でも、あなたと目が合ったのは初めてね」


隆史(貴子)は、穏やかに微笑んで答えた。その姿は、かつて銀幕で世界を魅了したオードリー・ヘップバーンの面影を宿している。


その刹那、松岡の手からシャーペンが滑り落ち、床に転がった。

「あ、待って。取ってあげるわ」


隆史は通路に膝をつき、しなやかな動作でペンを拾い上げる。その際、はだけた髪の間から覗いた白いうなじの艶かしさに、松岡の顔は沸騰したように赤くなった。

至近距離で見る彼女の造形は、もはや暴力的なまでの完成度だった。光を透過させる陶器のような肌、意志の強さを物語る睫毛の角度。そして何より、五十二センチのウエストが描く、魔法的なまでに細い曲線。


周囲の男子学生たちの視線が、物理的な圧力となって松岡に突き刺さる。地味なオタクだと思っていた松岡に対する、猛烈な嫉妬と困惑、そしてどす黒い熱を帯びた視線。


(……松岡、ごめんな。後で埋め合わせはするから)


隆史は心の中で、親友に詫びた。

このラインを維持するために、昨夜もサラダチキンを五本詰め込み、胃袋の膨らみを腹筋の緊張だけでねじ伏せてきた。魔法の下にある肉体は、今も悲鳴に近い空腹を訴えている。


「……ふふ、そんなにキョロキョロして。何か、探し物?」


必死にスマホを操作し、助けを呼ぶように周囲を見渡す松岡を、隆史は悪戯っぽく覗き込んだ。


「あ、いや……その、親友が……。造形のことになると自分を忘れて没頭するバカが一人いて。そいつに、君を見せたかったっていうか……」

「ふふ、お上手ですね。でも、そのお友達もおもしろそう。……では」


隆史は立ち上がった。かつての映画のワンシーンを彷彿とさせる、気品あるワンピースが、動きに合わせてしなやかに揺れる。教室中の男たちが、彼女の通り道を空けるために、まるでモーセの十戒のごとく左右へ割れていく。


「あの!……っ」


隆史は出口の扉に手をかけ、振り返らずに言った。

「木曜日に、また。……たしか、あなたと同じ講義を受けていたはず。またね」


言い残し、彼女は喧騒の残る教室を去った。松岡は呆然と立ち尽くし、ただ「木曜日……?」と呟くことしかできなかった。


講義室の外、廊下に出た隆史は、壁に背を預けて深く息を吐いた。

変身すれば楽しい。自分自身が「完成された芸術」になったかのような万能感が全身を駆け巡る。だが同時に、胃の辺りがズキリと痛んだ。


(……腹減った。でも、今食ったらこのウエストが消える。……クソ、金もねぇしな)


魔法で手に入れた外見に、現実の肉体と財布が追いついていない。

持っているのは、古着の黒いワンピースと、今着ているヘップバーン風の二着きり。この姿でいるための「維持費」を稼ぐ場所が、今の隆史にはどうしても必要だった。


その上、親友である松岡は、自分の「作品(貴子)」に本気で恋をしてしまった。

本当のことは言えず、かといって放っておくこともできない。友情と恋心がぐちゃぐちゃに絡まり、隆史の首を絞め始めていた。


木曜日。大学のラウンジは、「経済学部の女神」の噂で爆発していた。

「……だから、嘘じゃねぇって! 空間の解像度がそこだけ違ったんだよ!」


松岡が、死んだ魚のような目をしている隆史の肩を激しく揺さぶる。

「いや、松岡。お前の妄想力は評価するけどさ……」

松永と山本が冷たくあしらう中、隆史は冷めた缶コーヒーをすすった。


(嘘じゃない。……でも、教えられるわけねぇだろ)


「で、松岡。その女神様は今日また来るんだろ? 俺たちも見てやるよ」

「本当か! 助かる、一人じゃ正気を保てる自信がなかったんだ」


隆史は空の缶をゴミ箱へ叩き込んだ。

今日の講義は欠席だ。代わりに向かうのは、大学から二駅離れた、欲望が札束で動く夜の街。


「悪い、俺はパスだ。……ちょっと、大事な用事がある」

「用事? また粘土か?」

「ああ、まあな。……今日は、少し『仕上げ』が特殊なんだ」


ラウンジを後にする隆史の背中を見送りながら、三人は首を傾げた。

彼らはまだ知らない。

数時間後、高級キャバクラ『バビロン』の扉を、大学中の噂をさらう「ヘップバーン」が叩くことになるのを。


そして、もつれきった人間関係の糸が、金と欲望が渦巻く夜の世界で、取り返しのつかない結び目を作ろうとしていることを。

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