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街を歩いてみよう

駅前のガラスに映った自分を、隆史はもう一度だけ細部まで確かめるように見つめた。

古着屋で買った黒いワンピースは、縫い目も布地も安っぽく、明るい場所で見れば一目で粗が知れる代物だ。 それでも、魔法で極限まで絞り込んだ五十二センチのウエストで一度きつく締まり、そこから脚へと美しく落ちていくドレープの線は、計算通りに完璧な立体を描き出していた。

首元の三百円のフェイクパールも、黒いキャンバスの中で正確な光の点として機能している。

骨格の重心、肩の落ち方、顎の角度。 立ち方と角度さえコントロールすれば、安物の布切れすら高級な芸術品の一部として成立してしまう。

「……行けるな」

小さく呟いた声は、声帯から作り変えたがゆえに鈴を鳴らすように高く透明で、少しの崩れもなかった。

通りへ足を踏み出すと、自らが造り上げた「形」が、物理的な引力を持って周囲の視線を吸い込んでいくのが分かった。

すれ違う瞬間に目を止め、通り過ぎてから首ごと振り返る男。 会話を不自然に途切れさせ、二つの視線を同時にこちらへ吸い寄せる大学生の二人組。 コンビニの前で、スマホを持ったまま石化するサラリーマン。

数人分の反応で、もう十分だった。 これは偶然ではない。自分の造形が、視線を物理的に支配しているのだ。

歩く。 同じことが、何度も繰り返される。

目が止まる。 逸らす。 でも、耐えきれずに戻る。 通り過ぎてから、必ず振り返る。

男たちの視線の流れが、まるで一つの絶対的な法則に従っているかのように揃っていた。

ショーウィンドウの前で足を止める。 ガラスに映る自分の横姿を見る。顎から喉へ落ちる線が、昨日よりさらに自然に繋がっている。

黒い布の中で、腰だけが異常な細さで締まる。 歩くとワンピースの裾が揺れ、中の脚がひどく長く見える。

全部、自分が肉と骨を削って作った「形」だ。 そして、それがそのまま男たちの生々しい欲望として返ってくる。

駅前の広場に出ると、人の数が一気に増えた。 比例して、反応の密度も上がる。

すれ違うたびに、どこかで空気が引っかかる。完全に無視して通り過ぎる男は、ほぼゼロに近い。 全員ではない。 でも、自分の造形が「通用している」と確信するには十分すぎる割合だった。

前から、手をつないだカップルが歩いてくる。 会話の途中らしく、女が笑っていて、男が相槌を打っている。

すれ違う瞬間、男の視線が隆史の顔、そして胸元でピタリと貼り付いた。

一拍だけ、はっきりと。 男の足がわずかに遅れる。 つないでいた手が不自然に引っ張られる。

「ちょっと」

女の声が、少しだけ鋭く尖った。 男は我に返ったように前を見るが、遅い。 そのまま通り過ぎて――やっぱり、抗いきれずに振り返る。

はっきりと、もう一度。 女が強く手を引く。 その場の空気が、ほんの少しだけ硬く冷え込んだ。

その一部始終を、隆史は横目で見届けていた。 足は止めない。何も気づいていない涼しい顔で、そのまま歩き続ける。

すぐあとで、別の若い女の声がかすかに耳に触れた。

「……あれ、服やばくない?」

聞こえないつもりの、絶妙な距離。

「安物でしょ。なんかセンスない」

くすっと笑う、冷ややかな気配。 隆史は振り向かない。ただ、一瞬で見て、思考で切り捨てる。

ほんの少しだけ、針みたいに軽く引っかかる。 でも、その直後に、別の男が足を止めかけているのが見える。 目が離れないまま、半歩遅れる。 通り過ぎてから、振り返る。

(……そういうことか)

隆史の口元が、少しだけ優越感に緩んだ。 分かりやすい。

女は「記号」を見る。服のブランド、値段、流行。 男は「立体」を見る。骨格、肉の付き方、全体の線。

評価の基準が違うのだ。 服がどれほど安物であろうと、中身の「造形」が勝っていれば、針で刺すような女たちの嫉妬すらも至高のスパイスに変わる。

その絶対的な優越感に浸っていたとき、ポケットの中でスマホが震えた。 取り出して見ると、親友の松岡からだった。

『今駅前にさ』 『めちゃくちゃやばい女いるんだけど』

隆史が視線を上げると、数メートル先の広場に、松岡が立っていた。 人混みの中で、少し背を伸ばしてキョロキョロと「誰か」を探している。 当然、目の前にいる女が小野隆史だとは、一ミリも気づいていない。

『黒い服でさ』 『なんか映画みたいなやつ』

笑いが込み上げてくる。 隆史は腹筋に力を入れ、ぎりぎりでそれを抑え込んだ。 顔の表情筋は一切動かさない。 そのままの歩幅で、自然に松岡との距離を詰めていく。

横を、すれ違う。

松岡の視線が、隆史の顔にぶつかる。 そこから、細い首へ、そして黒いワンピースの胸元へ落ちる。

そこで、一拍止まる。 息を呑む気配すら伝わってくる。

それで終わりだ。 疑いの欠片もない。 完全に「見知らぬ絶世の美女」として消費されている。

通り過ぎる。 数歩進む。 背中に、松岡の強烈な視線の気配がべったりと張り付いている。 そして案の定、松岡は振り返った。

手元のスマホが、また震える。

『今すれ違ったわ』 『近くで見たらもっとやばい』

隆史は思わず口元を押さえた。 笑いがこぼれそうになるのを、歩幅を少し早めることでごまかす。

歩きながら、静かに息を吐く。 胸の奥に、真っ黒で甘い熱がゆっくりと広がっていく。

ただ見られるだけじゃない。 男たちは足を止め、 通り過ぎてから振り返り、 その価値を測るようにじろじろと見てくる。 それでも、この「作品」は決して崩れない。

男の欲望を貫き、女の嫉妬に傷つかず、カップルの空気を壊し、親友の松岡すらも完全に騙し切る。

(……全部、いけるな)

自然にそう思えた。 駅前のガラスに、もう一度だけ自分が映る。 黒い服の女が、人の流れの中を気高く歩いている。

目を引いて、記憶に残り、誰かの脳裏に深く突き刺さる。 ただそれだけのことが――自分が造り上げた「嘘」が世界を翻弄しているという事実が、隆史にはどうしようもなく、背徳的に気持ちよかった。

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