授乳室の肉食獣
第32話 授乳室の肉食獣
共用トイレの鏡の前で、隆史は息を呑んだ。
黒いワンピース、細いベルトで絞り上げられた五十二センチのウエスト。どこからどう見ても、完璧な「女」がそこにいた。
だが、完成と同時に「それ」はやってきた。
「……っ、ぐ」
胃の奥に、真っ赤に熱した鉄を流し込まれたような衝撃。
人体造形、それも自分自身を別人レベルまで作り変える代償。細胞が激しくタンパク質を求め、脳が「肉を喰え」と警報を鳴らし始めた。
このままでは、大学に行くどころか、駅のホームで倒れかねない。
隆史はフラフラとした足取りで、駅ビル直結のスーパーへと飛び込んだ。
「……これ、全部。あと、レジ袋」
惣菜コーナー。美少女がカゴも持たず、両手いっぱいにサラダチキンを抱えてレジに現れる。
プレーン、スモーク、ハーブ。合わせて五本。
隆史は震える手で千円札を差し出した。
人目に触れず、かつ今の姿で入っても怪しまれない場所――。
隆史が駆け込んだのは、スーパーの奥にある「赤ちゃん休憩室」、そのさらに奥の授乳室だった。
カーテンを引く。
ベビーパウダーと石鹸の匂いが漂う、清潔で穏やかな空間。
その対極にある、無機質なビニール包装を指先で引きちぎった。
(……肉、肉、肉ッ!)
一本目のサラダチキンを、口いっぱいに放り込む。
咀嚼もそこそこに、塊を喉の奥へ押し込む。喉を通る重みが、細胞一つひとつに染み渡っていく。
二本目、三本目。
黒いワンピースの胸元にチキンの汁が飛びそうになるのも構わず、隆史は貪り食った。
その時だった。
「……あら?」
薄いカーテン一枚隔てた隣の仕切りから、戸惑ったような声がした。
赤ん坊を抱いた若い母親が、隙間からこちらを覗いていた。
彼女が見たのは、清楚で可憐な美少女が、鬼のような形相で肉の塊を素手で掴み、獣のように食らいついている凄惨な光景だった。
「…………」
隆史の動きが止まる。
口の端にはスモークチキンの破片。
手には引きちぎられた四本目の残骸。
母親は、腕の中で静かに乳を飲む赤ん坊と、目の前の「肉を喰らう美女」を交互に見て、恐怖で言葉を失っていた。そこにあるのは慈しみの空間ではなく、飢えた肉食獣の檻だった。
「……栄養補給、です」
隆史は、魔法で造り上げた最高に柔らかい声で、短く告げた。
最後の五本目を一気に口に押し込むと、ゴミをまとめ、何事もなかったかのように立ち上がる。
胃はパンパンだが、脳の霧は完全に晴れた。
カーテンを開け、呆然とする母親の横を通り抜ける。
ワンピースの裾を翻し、再び「完成された美少女」の顔を作って。
「ごちそうさまでした」
ひと言残して、隆史は授乳室を後にした。
腹の中に五本のチキンを納めた「怪物」は、今度こそ戦場である大学へと、その優雅なヒールを鳴らし始めた。




