美少女、ジャージで古着屋へ
翌朝、鏡の前に立った隆史は、まず服のせいで頭を抱えた。
顔は、もうどう見ても女だった。
昨日より少し落ち着いて見える。目元は柔らかく、鼻筋は細く通っている。首も肩も、男の線ではない。胸も腰も、それなりに形になっている。髪も、寝起きで少し乱れているほうがかえって自然だった。
問題は、その下だった。
着ているのが、紺のジャージだった。
大学で使っている安い上下。膝は少し白くなっているし、袖口もくたびれている。いつもの小野隆史なら何もおかしくない格好だ。だが、今の姿で着るとひどく浮く。
「……だめだろ、これ」
鏡の中の女も、たぶん同じことを思っていた。
顔だけ見れば、かなり目を引く。
体つきも、昨日の五時間でちゃんとつながった。
なのに服だけが、深夜にコンビニへ出る男そのものだった。
フィギュアで言えば、頭部原型だけ異様に仕上がっているのに、胴体へ安い流用パーツを無理やりつないだみたいな違和感だ。これでは作品が死ぬ。
体験入店がフルレンタル無料でも、店まで行く服がない。
面接の行き帰りにジャージ姿の美少女がうろついていたら、それだけで悪目立ちする。
「……また金かよ」
吐き捨てるように言って、すぐに自分の声へ意識が向く。
高い。
昨日の夜と同じだ。喉を細くし、声帯まで短く薄くなったせいで、もう物理的には女の高さになっている。ただ、言い方がまだ雑だ。少し気を抜くと、中身の隆史がそのまま出る。
隆史は財布の中身を確認した。
千円札が四枚。あとは小銭。銀行で下ろせば何とかなるが、今の姿で長く外を歩きたくはない。できれば近場で済ませたい。
駅前の商店街の外れに、古着屋が一軒ある。
学生向けで安い。雑多だが、掘れば使えるものがある店だ。男物しか見たことがなかったが、たしか奥に女物もあった。
そこへ行くしかない。
深呼吸して、パーカーを羽織る。
ジャージの上着の上からさらに薄いパーカーを重ねると、少しだけ輪郭がごまかせた。とはいえ根本的な解決ではない。むしろ、ラフな格好をした若い女に見えるだけだった。
玄関で靴を見て、また止まる。
いつものスニーカーは、今の足には少し大きい。
昨日、足首と甲も少しいじっていた。履けないほどではないが、紐を締めても少し遊ぶ。これでは歩き方が変になる。
「……これもか」
小さく言って、無理やり紐を強く締めた。
帽子をかぶるか迷ったが、かえって怪しい気がしてやめた。隠すより、自然にしていたほうがまだましだ。
外に出た瞬間、朝の冷たい空気が頬に当たった。
住宅街は静かだった。ゴミ出しの主婦。犬を散歩させる老人。通学途中の高校生。いつもの隆史なら何も感じない景色なのに、今日は全部の視線が気になった。
――いや、違う。
気になったのではない。
待っていたのだ、と歩き出してすぐに分かった。
向こうから来た高校生の男子二人が、一瞬だけこちらを見て、そのあと振り返った。露骨ではない。だが、分かった。顔を見たのだ。
ジャージ姿のままなのに、だ。
その瞬間、胸の奥が少し熱くなる。
嫌ではなかった。
むしろ、分かってしまう。
見られている。
ちゃんと目を引いている。
昨日、洗面所で五時間かけて作った線が、朝の住宅街でも通じている。
それが気持ちよかった。
自転車の男子学生がすれ違いざまに目を向け、少し行き過ぎてからもう一度だけこちらを見た。犬を連れたおじさんまで、挨拶のついでみたいな顔で視線を止めた。
服がひどいのに、それでも見る。
ということは、服の下の造形が勝っているのだ。
隆史は歩幅を少しだけ小さくした。
すると今度は、ジャージ姿なのに妙に女っぽく見える。
そこへまた、視線が引っかかる。
胸の奥がさらに熱くなる。
昔、実家で作ったフィギュアを机の上へ置いたときの感覚に似ていた。
首の角度を詰め、膝の丸みを削り、髪の流れを何度も直して、最後に全体を見たとき、「これは視線を吸う」と分かる瞬間がある。
あの感覚に近かった。
ただ今回は、台の上に置かれているのがフィギュアではなく、自分自身だ。
そこが少しおかしくて、そしてたまらなかった。
商店街へ着くころには、変な汗をかいていた。
古着屋はまだ開店して間もない時間で、入口にはワゴンが出ていた。五百円、八百円、千円。色あせた値札がぶら下がっている。
店のドアを開ける。
古着独特の匂いがした。洗剤と布と、少し古い空気の混じった匂い。
狭い通路の左右にラックが並び、奥のほうに女物のコーナーがある。
店員はレジのところに一人。
二十代後半くらいの女で、黒いニットにジーンズ。髪は後ろでまとめていて、目つきが少しきつい。
隆史が入ると軽く顔を上げて、「いらっしゃいませ」とだけ言った。
それで十分だった。
男扱いされなかった。
分かってはいたが、実際にそうなると胸の奥がざわつく。
隆史は視線を落として奥へ進んだ。
女物の棚の前で、完全に止まる。
多すぎた。
色も形も丈も値段も、何が正解か分からない。
「……どうすんだよ」
小さくつぶやく。
とりあえず条件だけははっきりしていた。
目立ちすぎないこと。
安いこと。
そして、店まで行けること。
派手なのは論外。
フリルも無理。
短すぎるのも無理。
黒いワンピースが掛かっていた。
古い形だ。肩は出ない。首元は開きすぎず、ウエストに少しだけ絞りがある。
派手ではない。むしろ地味なくらいだ。
だが、吊るされているだけで、どこか映画の衣装みたいだった。
手に取る。
布は安い。でも形だけはきれいだった。
指が離れない。
「それ、たぶん合いますよ」
後ろから声をかけられて、肩が跳ねた。
店員だった。
隆史はそのまま試着室へ入った。
カーテンを閉める。
ようやく息が出る。
「危な……」
ジャージを脱ぐ。
Tシャツとトランクスだけになる。
そのまま、鏡を見る。
「……」
一瞬、頭が止まる。
なんだこれ、と思う。
細い首。
肩の落ち方。
胸の形。
腰のくびれ。
全部、さっき作った通りに出ている。
完全に女だった。
上は。
――なのに。
トランクスだけが、完全に合っていなかった。
ぶかぶかだった。
腰に引っかかっているだけで、ほとんど支えになっていない。
今にも落ちそうだった。
少し動けば終わる。
「……なんじゃこりゃ」
思わず口に出る。
女の体に、男のトランクス。
しかもサイズが合っていない。
成立していない。
ただ、引っかかっているだけだった。
もう一度、鏡を見る。
上は、完全に女だ。
下だけが、壊れている。
視線がそこに吸い寄せられる。
ワンピースなんか着て歩いたら、確実に落ちる。
歩くどころじゃない。
「……だめだろ」
小さく吐き出す。
外はできている。
なのに、そこだけが壊れている。
そのズレが、急に我慢できなくなる。
黒いワンピースをかぶる。
布が肩から落ちる。
腰でまとまり、膝下へ流れる。
鏡を見る。
「……うそだろ」
さっきより、さらに完成している。
首から胸、腰、脚まで、全部が一枚につながる。
女だった。
どこから見ても。
――だからこそ、分かる。
中が、ダメだ。
このままじゃ外に出られない。
カーテンの向こうで足音がする。
「サイズどうですかー」
心臓が跳ねる。
「……大丈夫、です」
声は通る。
だが、喉が少し乾く。
鏡を見る。
外側は、完璧だった。
だからこそ分かる。
――ここを埋めないと、外には出られない。
隆史はワンピースを脱いだ。
そして一度深く息を吐く。
そのまま、試着室のカーテンを開ける。
戻る場所は決まっていた。
隆史はその場で買うものを決めた。
黒いワンピース。
細いベルト。
黒のカーディガン。
フラットシューズ。
ショルダーバッグ。
フェイクパールは迷って、最後の最後でレジへ置いた。やりすぎだと思ったからだ。だが、店員が値札を見て「三百円なんで、あってもいいと思いますよ」と言うから、結局そのまま買ってしまった。
レジの合計は思ったより高かった。
新品よりはずっと安い。それでも財布から札が消えていくのを見ると、胸が重くなる。
こんな金があれば、肉がどれだけ買える。
大学の昼飯が何回分になる。
部屋代の足しにどれだけなる。
全部、秘密のための出費だった。




