表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/53

初めての女の設計(前編)

 夜。六畳一間のアパートは、冷蔵庫の低い唸りとパソコンのファンの音だけが重く沈んでいた。机の上には、開いたままの求人画面。『体験入店歓迎』『日払い可』『時給一万円以上も可』。派手なフォントが、安アパートの空気にひどく浮いて見えた。


 隆史はスマホを伏せた。

 翔子が突然部屋を訪ねてくるようになった今、この場所はもう安全な避難所ではない。別の拠点を確保するための資金源として、隆史は「女として稼ぐ」という禁断の選択肢を選びかけていた。


(……確認だけだ。本当に、通用する『形』を造り出せるのかどうかを)


 自分に言い訳をしながらも、隆史の指先はすでに熱を持っていた。


 彼はパソコンのモニターを洗面所へ運び、検索履歴から「理想」を呼び出す。オードリー・ヘプバーンの清潔な骨格と、和風の静けさを湛えた目元。


「……やるか」


 隆史は身に着けていたTシャツを脱ぎ捨て、スウェットを足元に落とした。完全に裸になり、全身が映る鏡の前に立つ。そこにあるのは、造形師としての執着が形となった、小野隆史という男の尊厳を削り出した「理想の女性像」の雛形だった。


 皮膚の下で骨と肉の並びが静かにずれていく、あの「ぬるり」とした不快で甘美な感触とともに作業が始まる。


 まず隆史は自らの胸板に指先を沈めた。男特有の厚みを削ぎ落とし、肋骨の浮き方をミリ単位で整えながら、布の上から最も美しく見える起伏だけを残していく。盛り上げるのではなく、面を整える。呼吸に合わせてわずかに上下する、その自然な揺らぎごと設計された胸は、主張しすぎず、それでいて視線を逃がさない、静かな存在感を持って固定された。


 次に彼が手をかけたのは、この造形の核となるウエストだ。みぞおちから臍へ向かう面を削り込み、骨盤の位置を上にずらすことで、極限のくびれを造り出した。


「……五十二センチ」


 彼が自分の腰に両手を回すと、指先は届かない。だが、あと少しで触れそうな距離に収まっていた。


 同時に、内側から激しい肉飢餓が襲ってきた。細胞が別の生物に書き換えられる際の拒絶反応のような、胃を焼く飢え。隆史は震える手で、台所に積み上げたサラダチキンの包装を引きちぎり、獣のように肉を喉へ叩き込んだ。一つ、二つ。十個のサラダチキンが瞬く間に消えていくが、飢えは収まらない。


 隆史が最も時間をかけ、フィギュア作りで培った技術を注ぎ込んだのが下半身だ。尻は、ただ丸みを足すのではない。骨盤の傾きと筋肉の流れを組み替え、立ったときに自然と重さが乗る位置へと調整していく。わずかに後ろへ引かれた重心が、腰のくびれとの対比を強め、動かずとも線が語るかたちを作り上げていた。触れれば柔らかいはずなのに、視線の上では輪郭が崩れない――そんな矛盾を抱えたまま、完成形として固定される。


 そこから伸びる脚は、まさに造形の極致だった。膝頭を小さく絞り、前腿の張りを内側へ逃がし、ふくらはぎから足首へと抜ける線。それは、高級なフィギュアにしか存在し得ないほど長く、細く、それでいて解剖学的に自然な美しさを湛えていた。鏡の中に立つその脚の線を見た隆史は、自ら「長いな……」と漏らすほどの完成度に鳥肌を立てた。


 五時間を超える裸での作業の末、洗面所の前には、最初の男はもういなかった。

 知らない女が立っている。

 洋画の女優のような骨の清潔さと、古い邦画の静かな顔立ちが一つにまとまった、見知らぬ美女。


 隆史は震える手で、自らの喉をさすった。


「……うわ」


 零れた声は、鈴を鳴らすように高かった。喉を細くし、声帯を薄く作り替えた結果だ。物理的には完璧な「女の声」に達している。


 隆史は鏡に近づき、その「完成」を隅々まで検閲した。目元、鼻、耳の下から首へ落ちる線。肩幅の収まり。どこを見ても、造形師としての自分が「正解だ」と頷いている。


 ――けれど。


 最後に視線が下へ落ちた瞬間、隆史の思考が停止した。まだ、一箇所だけ、決定的な「欠け」が男のまま残っている。


 服の上からなら分からない。だが、完璧を追求する造形師としてのプライドが、その一点に残る「男」を、耐え難いノイズとして脳に伝えてくる。画竜点睛を欠く。あるいは、蛇足か。


 隆史は自分に言い聞かせるように呟いた。その「最後の一線」を越える覚悟は、まだ肉飢餓の熱に浮かされた頭の中には、完全には整っていなかった。


 だが、スマホに映る高級キャバクラ『バビロン』の求人画面が、静まり返った部屋の中で、逃げ場のない現実を突きつけていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ