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この部屋は、もう安全じゃない 

 翔子が帰ったあと、隆史は一人、ベッドの端で沈んでいた。  見慣れた六畳一間。安い棚、古い机、ジャンク箱の山、そして机に鎮座する魔王フィギュア。この場所は普通の自分に戻るための唯一の避難所であり、同時に「宝塚隆史」を造り上げる工房でもあった。

 ――だが、それも今日までだ。

 翔子はもう二回、この部屋に来た。一度目は呼び、二度目は不意打ちだった。  今日はほぼ「普通の顔」のままで応対し、かろうじて最悪の事態は免れたが、偶然という盾はもうボロボロだ。完全にはバレていなくとも、彼女の鋭い観察眼は確実に「違和感」を蓄積させている

「……また突然来られたら、次は終わる」

 声に出すと、それは呪いのような現実味を帯びて響いた。  もし変身していない時に来られたら。逆に「宝塚」の姿でいる時に松岡が遊びに来たら。一つの拠点で二つの顔を回し続けるのは、物理的にも精神的にも、もう限界だった。

 隆史は立ち上がり、机の上のノートを引き寄せた。  家賃、光熱費、食費、スマホ代。そこにバイトのシフトを書き重ねていく。平日のお好み焼き屋、土日のホテル。今の生活を回すだけで精一杯の数字が並ぶ。  さらに、人体造形に伴う「肉飢餓」が追い打ちをかけた。変身を維持するための食費は通常の大学生の枠を大きくはみ出し、宝塚用の白シャツや靴といった「外装」への出費も地味に財布を削っている

「……足りねえ。もう一室借りるなんて、夢のまた夢だろ」

 ペン先が止まる。敷金、礼金、仲介手数料。必要なのは、短時間で稼げるまとまった金だ。  家庭教師、塾講師、深夜コンビニ、引っ越し――思いつく限りのバイトを書き出したが、どれも決め手に欠けた。体力か時間を削りすぎるわりに、得られる対価は今の「維持費」を補う程度でしかない。

 しばらく無動のままペンを見つめていた隆史の思考が、不意に、禁断の方向へと滑った。

(男で無理なら……女ならどうだ?)

 自分で考え、自分で自分に突っ込む。だが、一度浮かんだその線は、脳裏から消えなかった。  今の自分にできるのは「形」をいじることだ。骨の配置、肉の流れ、影の落ち方。男を整えられるなら、女の形に寄せることも理屈では同じ――いや、むしろフィギュア作りで散々やってきた、得意な領域でさえある

 隆史は洗面所の鏡の前に立った。  翔子に「普通ですね」と言われた、地味な男の顔。  頬に手を当てる。ここを削り、顎を細く落とす。目元の骨の圧を抜き、鼻筋は通すが硬くしすぎない。鎖骨を浮かせ、首筋のラインを細く絞る。  まだ触れてもいないのに、頭の中ではすでに「完成した形」が透けて見えていた

「……いや、何考えてんだ」

 手を離すが、スマホを持つ指は勝手に「高時給」の単語を繋げていく。  週一、短時間、日払い。  検索画面に並ぶのは、キャバクラの求人だった。ドレスに身を包んだ女たちの写真と、桁の違う時給の数字

「……うそだろ。倍どころじゃない」

 数回出れば部屋代の足しになり、うまくいけば新しい拠点の初期費用も見えてくる。まともな道ではない。だが、近道であることは確かだった。  画面の向こう側の世界は、かつては遠い異教の地のようだった。しかし今の隆史には、彼女たちの美しさがすべて「形」として分析できる。重心の位置、首の長さ、肩幅の比率。

「……作れる。かなり、精度よく」

 嫌な確信だった。机の上の魔王フィギュアが、皮肉げにこちらを見ている気がした。「使わねえと、詰むんだよ」と誰にともなく吐き捨てる

 男の顔で夜の街に出るより、この世にいない「女」として動く方がリスクは低い。  もう一度、鏡を見た。普通の顔に、別の線を重ねる。細い顎、柔らかな目元、胸の位置、そして腰のくびれ。  どこまでやれば、「女」として通用する?

「……一回、試すだけだ」

 そう自分に言い訳をした時点で、賽は投げられていた。  スマホが震える。ホテルのシフト確認。現実に引き戻されながら、隆史は一つの店で指を止めた。駅から少し離れた場所にある、体入歓迎の店。

「この部屋は、もう安全じゃない。だから、金がいる」

 そのための手段は、もはや「普通の自分」でも「宝塚」でもなかった。  鏡の中、暗い瞳が自分を見つめ返している。

 次に造り上げるべき形。  それは男の上位互換などではない。

「……女だ」

 その決意が、静まり返った六畳間に、重く冷たく、確かな輪郭を持って落ちた

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