映画でも見ようか
焼肉重の蓋を開けたあと、宝塚くんはしばらくほとんど喋らなかった。
箸の動きだけが妙に速い。
さっきまでの切迫した感じは、食べはじめて数分で少しずつ引いていった。顔色も戻ってくる。呼吸も落ち着いて、肩の力も抜けていく。
ちゃんと回復しているのだと分かって、翔子は少しだけ安心した。
けれど、安心したからといって、さっきの違和感まで消えるわけではない。
向かいで肉を食べている宝塚くんは、もう苦しそうではない。なのに、その回復の仕方が、やっぱり少しだけ普通ではなかった。
「……大丈夫そうですか」
翔子が聞くと、宝塚くんはごはんを飲み込んでからうなずいた。
「だいぶ」
「ほんとに?」
「ほんと。さっきより全然まし」
その返事は、さっきより自然だった。
翔子は自分の弁当の唐揚げを箸でつつきながら、小さく息をつく。
ほんとうは、もっと近くに座っていたかった。ベッドに戻って、さっきの朝の続きみたいな空気の中にもう一度沈みたかった。
けれど今は、そういう気分にはなれなかった。
さっきまで確かにあった空気が、肉の匂いと一緒に少し現実へ戻ってしまっている。
宝塚くんも同じなのかもしれない。食べることに集中している横顔は、朝とは別の意味で真剣だった。
「……なんか」
翔子が言うと、宝塚くんが顔を上げる。
「ん?」
「急に、すごく生活っぽいです」
「それは悪い意味?」
「少しだけ」
「ひどいな」
そう言いながら、宝塚くんは笑った。
その笑い方はいつもの調子に近い。さっきまでの苦しそうな顔を見ていたせいで、翔子はそれだけで少しほっとしてしまう。
「でも、戻ってよかったです」
「うん。ごめん」
「また謝ってます」
「心配かけたし」
「かけました」
「はい」
そこで素直にうなずくから、怒りきれない。
翔子は箸を置いて、小さく首をかしげた。
「まだ聞きたいことはありますけど」
「うん」
「今は、そこまで問いつめる気分でもないです」
「助かる」
「助かるって言われると少し嫌です」
「ごめん」
「またです」
同じやり取りをして、二人とも少しだけ笑った。
空気は戻りきってはいない。けれど完全に壊れてもいない。
その中途半端さが、今の二人にはちょうどよかった。
◇
食べ終わるころには、部屋の中はだいぶ静かになっていた。
コンビニの袋を片づけ、空になった容器をまとめる。
翔子が立ち上がろうとすると、宝塚くんが先にそれを引き取った。
「俺やる」
「いいです」
「今日は責任とるんだろ」
そう言われて、翔子は少しだけ笑う。
「覚えてたんですね」
「そこは忘れない」
流しの前に立つ背中を見る。
さっきまで肉しか見えていなかった人と、同じ人には見えなかった。見えないのに、同じ人だ。
この人には、自分の知らない波がいくつもある。そう思うと少し不安になる。
けれど今は、その背中が自分の部屋の流しに立っていることの方が不思議で、少しだけうれしかった。
片づけが終わると、二人とも自然にベッドの方を見る。
今朝はあんなにそこから離れがたかったのに、今は少し違う。
戻れば、またくっつくことはできる。たぶん、お互いそれは分かっている。
でも、さっきの「肉がほしい」が間に割り込んだせいで、同じ調子には戻れない。
翔子はベッドの端に腰を下ろして、シーツのしわを指で伸ばす。
宝塚くんも少し離れて座った。
「……さっきまでと、空気変わりましたね」
翔子が言うと、宝塚くんは苦笑した。
「変わったな」
「もっと、その」
「うん」
「ここで、昨日の夜みたいにしてるのかと思ってました」
「してたと思う」
「俺も」
そこで言葉が切れる。
たぶん、二人とも同じことを考えていた。
ベッドの上で、もう少しだけ朝を長引かせるつもりだった。
けれど肉問題で、その空気はきれいに吹き飛んだ。
翔子は思わず口元を押さえる。
「今、そのまま言われると恥ずかしいです」
「俺はあんまり恥ずかしくないよ」
「そうですか」
「だって、かなり真剣だったし」
「肉に?」
「肉に」
あまりに真顔で、翔子はとうとう声を立てて笑ってしまった。
笑うと、宝塚くんもつられて笑う。
そのあいだだけは、変な緊張も、小さな引っかかりも、少しだけ遠くなる。
◇
「今日って、何時まで……」
翔子は途中で言葉を切った。
宝塚くんは少しだけ黙ってから答えた。
「二十三時までは、いられる」
「じゃあ、今日はまだ長いですね」
「長いな」
「思ってたより」
「翔子が休んだし」
「そこはあなたのせいです」
「知ってる」
翔子はベッドの上に置いたスマホを手に取る。
大学からの通知が一件来ているだけだった。授業の欠席登録はもう済んでいる。
けれど宝塚くんの方は違う。
「松岡さんに連絡しないんですか」
「……あ」
少し間の抜けた声だった。
「忘れてましたね」
「忘れてた」
「友達なんですよね」
「そうだけど、今ちょっと世界が狭くなってた」
その言い方はずるかった。
翔子は何も言わずに視線をそらす。
「今のは、反応に困るやつです」
「ごめん」
「謝らなくていいです」
「じゃあ続ける」
「それも違います」
小さく笑いながら、宝塚くんはスマホを取り出した。
打っては止まり、消して、また打つ。
「なんて送るんですか」
「今日休む、って」
「それだけ?」
「あとノート頼むくらい」
「普通ですね」
「それくらいしか送れない」
送信してすぐ、返信が来たらしい。宝塚くんの眉が少し動く。
「なんて?」
「『お前、昨日から何してんの』」
翔子は思わず吹き出した。
「鋭いです」
「いらんところでな」
「なんて返すんですか」
「体調悪いことにする」
「さっきまで実際悪かったじゃないですか」
「そうなんだけど、説明できない悪さなんだよ」
その一言で、笑いが少しだけ止まる。
けれど次の言葉でまた戻る。
「送った?」
「送った」
「なんて?」
「『腹減って死んでる』」
「体調悪いじゃないです」
「ほぼ本当だろ」
翔子はまた笑う。
スマホがもう一度震える。
「今度は?」
「『意味分からん。とりあえずノートはあとで送る』」
「いい友達ですね」
「そうなんだよ」
その言い方に、少しだけやさしいものが混じる。
翔子はそれを聞きながら、この人には自分の知らない時間がちゃんとあるのだと思う。
そのことを少しだけ寂しく思って、同時に少し安心もする。
◇
「で、どうしますか」
翔子が聞くと、宝塚くんは首をかしげた。
「どうするって?」
「今日はまだ長いので」
「ああ」
部屋の中には、片づけたあとの静けさがある。
ベッドでだらだらするには、さっきの肉騒ぎがまだ少し近い。
外へ出るにしても、あまり人が多い場所は落ち着かない。
その中間を探している感じだった。
「映画でも見る?」
先に言ったのは宝塚くんだった。
「映画」
「部屋でもいいし、外でもいいし」
「外って、映画館ですか」
「うん。でも、シネコンって感じじゃないな」
少し考えてから続ける。
「もっと、静かなとこがいい」
翔子は小さくうなずく。
「分かります」
「ポップコーン抱える感じじゃないです」
「それ」
スマホを開いて探す。
「ミニシアター、あります」
「ある?」
「少し離れたところに。一館だけ」
画面を見せると、宝塚くんが少し身を寄せてきた。
視線が一つのタイトルで止まる。
「……あ」
「知ってる映画ですか」
「うん。これ、好き」
「恋はデジャヴ?」
「高校のときに見た」
「そういうのが好きなんですね」
「そういうの、って何だよ」
「もう少し派手なのかと思ってました」
「失礼だな」
少し笑う。
「でもこれ好きなんだよ。ちゃんと人を好きになる話だから」
言ってから、少しだけ黙る。
翔子も何も言わない。
二十三時には終わる。
そのことは、言わなくても分かる。
「……じゃあ、それにしますか」
「いいの?」
「宝塚君の好きな映画なら、見てみたいです」
「ほんとに?」
「少し嬉しそうだったので」
「分かる?」
「少しだけ」
上映時間を確認する。
「三時半からです」
「ちょうどいいな」
「少し早めに出れば間に合います」
「じゃあ、行こうか」
「はい」
それだけのことなのに、今日の形が少しだけはっきりした。
◇
「その前に」
「ん?」
「ちゃんと、もう一回歯みがいてください」
「そこ大事?」
「大事です」
「厳しい」
「大事です」
宝塚くんが笑いながら立ち上がる。
「コンビニで買ったやつ、まだある?」
「あります。洗面台の横です」
「了解」
洗面所へ向かう背中を見る。
さっきまで肉しか見えていなかった人が、今は歯ブラシを探している。
その少しだけ情けない感じが、逆に落ち着く。
水音が聞こえる。
翔子はそのあいだに、服を整えて、髪を手ぐしで直した。
「翔子」
「はい」
「その映画で、ほんとにいいの?」
「なんでですか」
「もっと普通の恋愛映画の方がよくない?」
「もう遅いです」
「そう?」
「選んだとき、少し嬉しそうだったので」
洗面所の奥で、小さく笑う気配。
やがて戻ってくる。
「これでいい?」
「さっきよりは」
「評価低いな」
「さっきがひどかったんです」
「それは認める」
翔子は道順を確認する。
少しだけよそゆきの距離。
完全に元通りではない。
でも今日は、まだ時間がある。
「じゃあ、準備しましょうか」
「うん」
今日という一日は、まだ終わり方を決めていない。
それが少し怖くて、でも同じくらい楽しみだった。




