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肉がほしい

 アパートを出るころには、二人とも少しだけ急いでいた。


 翔子は鍵を閉めながら、自分の頬がまだ少し熱いのを感じていた。ついさっきまで部屋の中であんなふうにくっついていたのに、昼前の外へ出ると急に全部が明るすぎる。通路の手すりも、隣の部屋のドアも、階段のきしむ音も、妙に現実的だった。


 なのに宝塚くんは、その現実の中でひとりだけ別のものに引っ張られているみたいだった。


 階段を下りる足が、明らかに速い。


「そんなに急がなくても、コンビニすぐです」


「……うん」


 返事はする。けれど目線が落ち着かない。空腹のせいだと頭では分かるのに、ただおなかが空いている人の様子には見えなかった。横顔に力が入っている。何かをこらえているというより、何かに引っ張られているみたいだった。


 道を曲がるたび、宝塚くんはコンビニの看板を探すみたいに顔を上げる。


「ほんとに大丈夫ですか」


「大丈夫。食えば平気になる」


「さっきから、その言い方ちょっとこわいです」


「ごめん」


 謝ってはいるけれど、気持ちはもう先に行っていた。


 コンビニの自動ドアが開いた瞬間、宝塚くんの肩がわずかにほどけたのが分かった。肩の力が抜けたというより、もうすぐ届くと分かって、やっと息ができた、みたいな感じだった。


 店内の涼しい空気と、温め物の匂いと、棚の上の明るい照明。どこにでもある昼前のコンビニなのに、宝塚くんはまっすぐ弁当の棚へ向かった。


 翔子もそのあとを追う。


 いつもなら、まず飲み物やおにぎりを見る。けれど今日は違った。宝塚くんは最初から肉のある棚しか見ていない。迷っているのではなく、それ以外が目に入っていないみたいだった。


 唐揚げ弁当。

 ハンバーグ弁当。

 焼肉重。

 ソーセージの入ったパスタ。

 チキン南蛮。


 目が、そこだけを拾っていく。


「……すごいですね」


「何が?」


「目線です」


「そんな分かる?」


「分かります。野菜を一回も見てないです」


 翔子がそう言うと、宝塚くんは焼肉重を一つ手に取った。けれどすぐ隣の唐揚げ弁当も見る。さらにその横のハンバーグ弁当も見て、結局また最初の焼肉重に戻る。


 迷っているのではなかった。全部欲しいのだ。どれか一つを選んだとしても、残りを棚に戻すのが惜しくてたまらない、という顔だった。


 翔子は思わず、少しだけ笑ってしまう。


「そんなに迷います?」


「全部うまそう」


「それは分かりますけど」


「いや、今日のはちょっと違う」


 その言い方に、翔子の笑みが少しだけ止まる。


「違うって?」


「……なんていうか、全部今すぐ食いたい」


 声は小さかった。でも冗談じゃないのが分かった。というより、冗談を言う余裕がなかった。


 宝塚くんは焼肉重を持ったまま、棚の中を見ている。選んでいるというより、これで足りるかどうかを測っている顔だった。飢えた人間が食べ物の前に立ったときの、あの目だった。


「一つで足りますか」


「足りない」


 今度は「たぶん」もなかった。


 翔子は少しだけ息を止める。


「じゃあ、もう一つ取ってください」


 そう言うと、宝塚くんはすぐに唐揚げのパックを手に取った。迷いがなかった。最初からそれを取るつもりだったみたいに、迷いがなかった。


 翔子はその様子を見て、首をかしげた。


「そんなにおなか空いてたんですね」


「……うん」


「朝から何も食べてないから、ですか」


 その問いに、宝塚くんは一瞬だけ黙った。


 ただ空腹だからだと、すぐに言い返すと思っていた。けれどそうしなかった。その短い沈黙が、翔子には小さく引っかかった。


「まあ、それもある」


「それも?」


「いや」


 宝塚くんはそこで視線をそらす。それから、ごまかすみたいに冷蔵ケースの奥をのぞきこんだ。


「これもいいな」


 指さしたのは、炭火焼きチキンのパックだった。


 翔子はその横顔を見る。


 さっきまで部屋で、自分の肩に頬を寄せていた人と同じなのに、今は目の色だけ少し違って見える。言いすぎかもしれない。でも、本当に少しだけ、切実すぎた。食べ物を前にした人間の目じゃなくて、何かもっと根っこのところで必要としている人の目だった。


「宝塚くん」


「ん?」


「肉しか言ってないです」


「……ほんとだ」


「気づいてなかったんですか」


「気づいてたけど、止まらない」


 さっきと少し違う答えだった。言い直したわけじゃない。ただ、うっかり本当のことが出た、みたいな言い方だった。


 翔子は少しだけ黙る。


 宝塚くんは結局、焼肉重と唐揚げのパック、それからレジ横のホットスナックまで見はじめた。


「まだ買うんですか」


「これ、今食べたい」


「今?」


「今」


「部屋まで三分です」


「三分が長い」


 その返事があまりに真顔で、翔子はつい吹き出した。


「そんなにですか」


「かなり」


「もう少しだけ我慢してください」


「努力する」


 努力、という言い方が妙に本気で、翔子は笑いながらもレジ横を見た。


 唐揚げ棒が並んでいる。焼き鳥もある。少し甘辛い匂いが漂っていて、急に自分までおなかが空いてくる。


「じゃあ、一本だけ買いますか」


 そう言うと、宝塚くんがほんとうに少しだけ目を輝かせた。


「いいの?」


「よくないかもしれないですけど、今の顔見てると、買わない方が危ない気がします」


「そこまで?」


「そこまでです」


 レジで会計をしているあいだも、宝塚くんの意識はホットケースの方へ向いていた。店員が袋詰めしているのを見ながら、まだ足りないかもしれないと考えているのが、表情で分かる。


 受け取った唐揚げ棒を、店を出てすぐ一口かじる。


 その瞬間、宝塚くんの顔が変わった。


 ほどけた、というより、何かが満たされていく途中みたいな顔だった。目を閉じるわけでも、声を出すわけでもない。ただ、張り詰めていたものが少しだけ緩んで、呼吸が戻ってくるみたいな。


 翔子は隣を歩きながら、それを見る。


「そんなに変わります?」


「変わる」


「すごいですね」


「今、人生でかなり上位のうまさ」


「大げさです」


「大げさじゃない」


 ほとんど噛みしめるというより、確かめるみたいな食べ方だった。飲み込んだあとも、少しだけ惜しそうに串を見る。


 翔子は笑いかけて、でも途中でやめた。


 やっぱり少しおかしい。


 食べること自体ではない。食べ方でもない。そこに向かう感じが、空腹以上のものに見えるのだ。食べる前と後で、人が変わるみたいな切実さがあった。


 アパートへ戻る道で、宝塚くんはやっと歩く速さを落とした。さっきまで張っていた糸が、少しだけ緩んだみたいだった。


「落ち着きましたか」


「ちょっと」


「ほんとに?」


「……半分くらい」


「半分なんですね」


「部屋戻って食えば、ちゃんと戻る」


 またその言い方だった。


 翔子は袋を持ち直しながら、横目で宝塚くんを見る。


「戻るって、何に戻るんですか」


 問いかけると、宝塚くんは一瞬だけ歩幅を乱した。


「え?」


「普通の空腹じゃないみたいに聞こえるので」


「……そんなことない」


「あります」


「翔子、今日ちょっと鋭くない?」


「今日じゃなくても、たまには気づきます」


 そう言うと、宝塚くんは困ったように笑った。困った顔なのに、どこか観念した人みたいでもあった。


「ほんとに、大したことじゃないんだ」


「その言い方の時点で、大したことなく聞こえないです」


「……あとで話す」


 小さな声だった。


 翔子はそれ以上すぐには追わなかった。


 聞きたい。けれど、今ここで問いつめて、さっきまでの空気を全部変えてしまうのも違う気がした。


「分かりました」


 そう答えると、宝塚くんは少しだけ安心した顔をした。


 でも、その安心の仕方が、翔子には逆に少しだけ気になった。


     ◇


 部屋の前に着く。


 鍵を開けて中へ入ると、ついさっきまでいた場所なのに、外を挟んだだけで少しだけ空気が変わっていた。コンビニの袋を低い台の上に置く。宝塚くんはすぐに焼肉重へ手を伸ばしかけて、でも翔子の視線に気づいて止まった。


「……食べていい?」


「だめって言ったらどうするんですか」


「たぶん、すごく困る」


「じゃあ、いいです」


 翔子がそう言うと、宝塚くんは本気でほっとした顔をした。


 蓋を開けた瞬間、甘いタレと肉の匂いが部屋に広がる。


 その匂いに、宝塚くんの喉が小さく動いた。


 やっぱり少し変だ。


 でも、その変さの正体を知るのは、たぶんもう少しあとになる。


 翔子は自分の弁当の袋を開けながら、向かいに座る宝塚くんを見る。


「……ちゃんと、あとで話してくださいね」


 そう言うと、宝塚くんは箸を持ったまま少しだけ止まり、それから小さくうなずいた。


「うん」


 返事は短かった。


 けれどその短さの奥に、簡単ではないものがある気がして、翔子は胸のどこかで静かに身構えた。

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