今日学校休みます
ゆっくりと目が開く。まだ眠気の残った視線が、少しだけぼんやりしたまま翔子の方へ向いて、それからぴたりと止まった。
「……おはよう」
かすれた声だった。
「おはようございます」
自分の声も、思っていたよりずっと小さい。
昨夜より、今の方が恥ずかしい。
暗い部屋の中では見えなかったものまで、朝の光はきちんと見せてしまう。
何もまとわない肩先に触れる空気まで意識してしまって、翔子は少しだけ目を伏せた。
すると彼の指先が、そっとその肩に触れた。
強く引き寄せるでもなく、逃がさないように確かめるみたいな触れ方だった。
「……見ないでください」
言いながら、自分でもずるいと思う。
ほんとうは、見ていてほしい気持ちも少しある。
「無理」
返事は早かった。
翔子が顔を上げると、彼は昨夜より少しやわらかい目をしていた。
「きれいだ」
たったそれだけだった。
大げさな言い方ではないのに、その一言が胸よりもう少し深いところへ落ちて、翔子はうまく息ができなくなる。
(あなたのほうがきれいよ)
と言いたいのに、うまく言えない。
次の瞬間、唇が触れた。
やさしいのに、朝の静けさごと閉じ込めるような口づけだった。
昨夜のことを思い出すより先に、今ここでまた近づいてしまう。
翔子は目を閉じて、小さく肩の力を抜く。
彼の胸に頬を寄せると、心臓の音がやけに近い。
自分のものも、たぶん同じくらい早い。
背中に回る腕は、昨夜より少しだけ自然だった。
耳元にかかる息がくすぐったくて、翔子は思わず指先を彼の腕にかける。
触れれば触れるほど、朝になったのにまだ昨夜の続きの中にいるみたいだった。
時間の感覚が、そこだけ少し曖昧になる。
このままではだめかもしれない、とぼんやり思う。
でも、だめでもいいと一緒に思ってしまう。
「今日、授業……」
やっとそれだけ言うと、彼はすぐには答えなかった。
代わりに、もう一度だけ翔子の髪へ唇を落としてから、低い声で言う。
「……今日は、行かないでほしい」
お願いというより、本音がそのままこぼれたみたいな言い方だった。
翔子は目を閉じたまま、小さく息をつく。
そんなことを言われたら、たぶん断れない。
「ずるいです」
「うん」
「分かって言ってますか」
「言ってる」
その正直さが、また困る。
翔子は彼の胸元に額を寄せたまま、少しだけ笑った。
「……たぶん、もともと行く気あまりなかったです」
「よかった」
「よくないです」
「じゃあ、俺だけよかった」
そういう言い方まで、少しうれしいと思ってしまう自分がいた。
翔子はようやく身を起こす。
シーツが肩から滑りそうになって、慌てて押さえると、彼が少しだけ笑った。
「笑わないでください」
「ごめん」
「ごめんって思ってないです」
「半分くらい」
「ひどいです」
そう言いながら、翔子は自分でも笑っていた。
小さな下宿の部屋の朝が、こんなふうにやわらかくなるなんて思っていなかった。
机の上には課題の紙が残ったままで、床には昨日脱いだ服が少し乱れていて、現実の景色なのに、その真ん中にいる自分だけが少し夢の方へ寄っている気がする。
「お茶、入れます」
翔子がそう言うと、彼は枕に肘をついたままこちらを見る。
「うん」
「その前に、ちゃんと何か着てください」
「翔子も」
「……それは今からです」
「今じゃだめ?」
「だめです」
即答すると、彼がまた少し笑う。
翔子はその笑い声を背中で聞きながら、床に落ちていた服へ手を伸ばした。
指先が少し震えているのは、朝の空気が冷たいからだけではない。
背中に、まだ彼の視線を感じる。
たぶん今日一日は、もう普通の日には戻らない。
そう思いながら袖を通したとき、胸の奥に小さな甘い痛みが広がった。
好きになってしまったのかもしれない、と。
昨夜より、今朝の方がはっきりそう思った。
着替え終わって振り向くと、彼はまだベッドの上にいて、少し眠たそうな顔のままこちらを見ていた。
「なに見てるんですか」
「いや」
「いや、じゃないです」
「翔子、ほんとにいるなって」
そんなことを言われると、また困る。
翔子は返事の代わりに髪を耳へかけて、視線をそらす。
「います」
「うん」
「いるので、早く起きてください」
「翔子」
「はい」
「今日、ほんとに行かないで」
今度はさっきより少しだけ低く、甘えるよりも真面目な声だった。
翔子は立ったまま、その言葉を胸の中で受けとめる。
大学の授業のことが頭をよぎる。
午後に一つだけある。休んでも致命的ではない。
だからこそ、余計に迷う。
行くべきかどうかじゃなくて、ここに残りたい理由のほうがはっきりしているからだ。
彼のそばにいたい。
その気持ちを認めてしまうのが、少し怖いだけだった。
「……あとで、ちゃんと後悔しても知りません」
「しない」
「わたしがするかもしれないです」
「そのときは、一緒に後悔する」
ずるい。
またそう思う。
でも、ずるいと言いながら、もう半分以上、負けていた。
翔子は小さく息をついて、スマホを手に取る。
「欠席、入れます」
「うん」
「その代わり、今日はちゃんと責任とってください」
「責任?」
「お茶も、ごはんも、全部です」
「分かった」
「ほんとですか」
「たぶん」
「たぶんは困ります」
そう言うと、彼はようやく起き上がった。
朝の光の中で見るその姿に、翔子はまた少しだけ息を止める。
やっぱり、見慣れることなんてたぶんない。
こんなふうに何もまとわない彼が、自分の部屋で、自分の朝の中にいること自体が、まだ少し信じがたかった。
それでももう、夢ではない。
翔子は大学のアプリを開いて、午後の授業の欠席を入れた。
送信を押した瞬間、小さな罪悪感より先に、今日という一日が自分のものになった気がした。
彼が後ろから近づいてくる気配がする。
「ほんとに休んだ」
「休みました」
「うれしい」
「そういうの、あまり素直に言わないでください」
「なんで」
「もっと休みたくなるので」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。
けれど彼はすぐ後ろで、少しだけ笑っていた。
その笑い声を聞きながら、翔子は思う。
今日はたぶん、長い一日になる。
そしてその長さを、少しも嫌だと思っていない自分がいた。
朝の幸福感に気を取られていて、翔子は最初、宝塚の異変に気づかなかった。
「……宝塚くん?」
呼ぶと、返事が少し遅れた。
背中に回っていた手が、ふっと止まる。
さっきまでの近さが、少しだけずれる。
宝塚くんが低く息を吐く。
「どうしたんですか」
「……いや」
声が少しかすれている。
翔子は体を起こした。
宝塚くんも起き上がる。
その顔が、少しだけおかしい。
「大丈夫ですか」
「……腹、減った」
それだけなら普通のはずなのに、少し違う。
空腹というより、もっと切迫した感じ。
宝塚くんは片手で額を押さえる。
「肉が……」
「え?」
「肉、ほしい」
一瞬、意味が分からなかった。
その直後、ぐう、と妙にはっきり鳴る。
翔子は思わず小さく笑いそうになる。
「……すごい音でした」
「ごめん」
今度は少し普通の声に戻っていた。
けれど、さっきの感じが少しだけ残る。
「冷蔵庫、ほとんど何もないです」
「コンビニ……行く?」
「行きます」
そう答えてから、少しだけ迷う。
さっきまでの空気が、少しだけ変わっている。
壊れてはいない。
ただ、現実が一つ増えた感じ。
「ほんとに大丈夫ですか」
「うん。たぶん、肉食えば戻る」
「戻る?」
「……いや、変な言い方した」
うまく笑えていなかった。
翔子はその顔を見て、小さな引っかかりを感じる。
この人には、まだ知らない部分がある。
でも今は、それより先に。
「じゃあ、唐揚げの入ってるお弁当にします」
そう言うと、宝塚くんが顔を上げる。
「……それ、めちゃくちゃいい」
「そんなにですか」
「うん。今すぐ食いたい」
その必死さに、翔子は少しだけ笑った。
笑いながらも、さっきの違和感は少し残る。
でも今は、それよりも。
一緒に何を食べるか考えているこの時間のほうが、大きかった。
翔子は服を引き寄せる。
「急いで行きますか」
「……うん。悪い」
「悪くないです」
少しだけ付け足す。
「でも、あとでちゃんと理由を聞きます」
宝塚くんは一瞬だけ黙る。
それから、曖昧に笑った。
「……それは、考えとく」




