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翔子の部屋

 翔子から送られてきた住所は、大学から二駅離れた古い学生向けアパートだった。


 駅前のコンビニでお茶を一本買って、隆史は夜道を歩く。


 宝塚隆史の顔で、女の子の部屋へ向かっている。


 そんな状況のはずなのに、頭の中は妙に静かだった。


 緊張はしている。しているのに、もう戻る気はなかった。


 途中でスマホが震える。


高田翔子

二階のいちばん奥です

階段、少しきしみます


 その文を見て、隆史は少しだけ笑った。


 そういうところまで先に言うのが、翔子らしい。


 教えられた通りのアパートは、外灯がひとつだけついた薄暗い建物だった。


 階段を上がると、たしかに一段目がぎし、と鳴る。


「ほんとに鳴るな」


 小さくつぶやいて、もう一段。


 いちばん奥のドアの前で足が止まる。


 ここまで来て、急に心臓がうるさくなった。


 夜だ。

 相手は女の子だ。

 しかも相手の部屋だ。


 自分から言い出したくせに、今さら本当にいいのかと思う。


 けれど帰る気にはなれなかった。


 隆史は小さく息を吐いて、インターホンを押す。


 すぐに内側で物音がして、扉が少しだけ開いた。


「……こんばんは」


 翔子がいた。


 部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っていて、髪はゆるくまとめ直してある。


 大学で見るときより少し幼く見えるのに、そのぶん、今ここが本当に翔子の生活の場所なんだと分かって、隆史の胸は妙に熱くなった。


「こんばんは」


 たったそれだけの挨拶なのに、声が少しかすれた。


 翔子の視線が一度、隆史の顔を見て、それから少しだけ落ちる。


「……来たんですね」


「来たよ」


「どうぞ」


 それだけ言って、翔子は扉を広く開けた。


「お邪魔します」


 靴を脱いで部屋に入る。


 思っていたより整然としている。


 小さなワンルームで、ベッドと机、本棚と小さな棚。


 ただ机の上だけは紙とスケッチブックと鉛筆で埋まっていて、そこだけがすこし雑然としていた。


「散らかってるって言ってたけど」


「机の上がです」


「なるほど」


「そこは見ないでください」


「じゃあ見ない」


 そう言うと、翔子が少しだけ口元を緩めた。


 その顔を見た瞬間、来てよかったと思った。


「これ」


 隆史はコンビニ袋を差し出す。


 翔子は受け取って中を見て、それから小さくうなずいた。


「ほんとに買ってきたんですね」


「頼まれたからね」


「ありがとうございます」


 翔子は小さなキッチンでコップを二つ出した。


 ペットボトルのお茶をコップに注ぐ。


 その背中を見ているだけで落ち着かない。


 電話ではあれだけ言えたのに、同じ部屋にいると、急に何を話せばいいのか分からなくなる。


「座ってください」


「うん」


 ベッドに座るのは違う気がして、隆史は床のクッションの近くへ腰を下ろした。


 翔子も少し離れたところに座る。


 コップを受け取るとき、指先が少しだけ触れた。


「あ」


「ごめん」


「いえ」


 すぐ離れる。


 でも、その一瞬だけ、空気が少し近くなる。


 静かな部屋だった。


 冷蔵庫の小さな作動音と、たまに外を走る車の音だけが聞こえる。


「……ほんとに、来ると思ってませんでした」


 翔子がコップを持ったまま言う。


「俺も、半分くらいは来ないつもりで電話した」


「半分は来るつもりだったんですね」


「声聞いたら、来たくなった」


 言ってから少し恥ずかしくなる。


 けれど翔子は笑わなかった。


「私も」


「え?」


「電話、うれしかったです」


 静かな声だった。


 静かなのに、それだけで部屋の空気が少しだけ変わる。


 隆史はコップを置いた。


「昼、ごめん」


「もういいです」


「ずっと気になってた」


 翔子は膝の上で指を組む。


「私も、少しだけ気にしてました」


 視線は下を向いたままだった。


「でも、宝塚くんが来てくれたから、今はいいです」


 その言い方は、やっぱり大きな言葉ではなかった。


 翔子はいつも必要なぶんだけしか言わない。


 けれど今は、その少ない言葉の中にあるものがちゃんと分かった。


 会いたかったのは、自分だけじゃなかった。


「翔子さん」


 初めて、名前で呼んだ。


 翔子が顔を上げる。


 その瞬間、二人の間に残っていた少しの距離が、急に気になる。


 隆史は手を伸ばしかけて、止まる。


 すると翔子の方が、ほんの少しだけ体をこちらへ寄せた。


 逃げるのではなく、近づくような小さな動きだった。


 隆史はゆっくり手を出し、翔子の指先に触れる。


 驚くほど細い。


 翔子は手を引かなかった。


 代わりに、ほんの少しだけ力を返してきた。


 黙ったまま、手を離さない。


 それだけで、さっきまでのぎこちなさが少しずつほどけていった。


「……緊張してますか」


 翔子が小さく聞く。


「してる」


「私もです」


「おあいこだね」


 そう言うと、翔子がまた少しだけ笑う。


 その笑い方に、隆史は胸の奥がゆるむのを感じた。


 何を急ぐ必要もなかった。


 大学のこと。

 課題のこと。

 お好み焼き屋のこと。

 服の話。


 くだらない話をして、少し黙って、またどちらかが言葉を探す。


 だけど手は離さない。


 話の中身よりも、こうしている時間のほうが大事だった。


 隆史は肩を寄せる。


 顔を上げる。


 目が合う。


 翔子の部屋の灯りはやわらかかった。


 机の上にはまだ課題の紙が広がっているのが目に入った。


 コップのお茶は半分以上残ったままだった。


 何度目かに目が合ったとき、今度はどちらもそらさなかった。


 隆史は確かめるように、もう少しだけ翔子の方へ近づく。


 翔子は黙ったまま、目を閉じた。


 急がないように。


 一人だけ先に進まないように。


 たしかめながら、少しずつ近づいていく。


 翔子の呼吸が近い。


 夜は静かで、部屋の外の音は遠かった。


 気づけば、隆史は、翔子を胸に抱いていた。


「……今日は、帰りますか」


 翔子が小さく言った。


 終電を気にした問いかけにも聞こえたし、確認にも聞こえた。


 隆史は少しだけ考えて、それから首を振る。


「帰りたくない」


 翔子のまつげが揺れる。


「……私も、今日はあまり帰したくないです」


 隆史は、部屋の電気スイッチを目で探した。


 翔子は、視線で示す。


 部屋の明かりは落ちた。


 あとのことを、隆史は細かく思い返せなかった。


 ただ、慎重だったことだけは覚えている。


     ◇


 朝、目を覚ました翔子は、隣の気配に息を止めた。


 そこにいたのは、オスカル様だった。


 しかも、何もまとっていない。


 白いカーテンの隙間から入る朝の光が、昨夜よりもはっきりとその輪郭を照らしている。


 眠っているのに、鼻筋から唇へ落ちる線はきれいで、肩から胸にかけての影まで静かに整っていた。


 黙っているほうがいい。寝顔は至宝だ。


 何もまとっていないその姿は、きれい、というだけでは足りなかった。


 夢の中でだけ許されるものみたいに、現実なのに現実から少し浮いて見える。


 夢みたいだ、と翔子は思う。


 けれど頬に触れる朝の空気も、すぐそばにある体温も、あまりに本物だった。


 眠る彼の鼻に、そっとキスをする。


 長いまつげがわずかに動く。


 思わず息をひそめる。


 けれど、目は開かなかった。


 小さく寝返りを打つ気配だけがして、それからまた静かになる。


 翔子はゆっくりと息を吐いた。


 胸の奥がまだ、やけにうるさい。


 たったそれだけのことなのに、心臓がばれたみたいに跳ねている。


 朝の光が、白いカーテン越しにやわらかく部屋へ落ちていた。


 机の上には課題の紙。床には昨夜脱いだ服。


 何も変わっていない部屋なのに、その真ん中にいる自分だけが、少し違う場所に立っている気がした。



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