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会えるのに、気づかれない


 翌朝、鏡の前で顔を見たとき、隆史はまず前髪を押さえた。


 そこにあるのは、いつもの自分の顔だった。


 眠そうな目。少しぼんやりした輪郭。昨夜の宝塚隆史とは、同じ人間とは思えないくらい印象が違う。見慣れた顔だ。見慣れすぎていて、鏡の前で立っていても何の事件も起きない顔だった。


 なのに、今日はその顔でいるのが妙に落ち着かなかった。


 理由は分かっている。


 枕元のスマホだった。


 起きてすぐ画面を見たとき、昨夜の最後のやり取りがまだ上に残っていた。


高田翔子


また

服、見ます


 それを見ただけで、胸のあたりが少しそわつく。


 隆史は布団の端に腰かけたまま、しばらく画面を見ていた。

 彼女がいたことはない。女の子と夜にやり取りしたことも、ほとんどない。そういうことをする人間は、自分とは別のところにいると思っていた。


 なのに今、その別のところへ片足だけ突っ込んでいる気がする。


 画面が震えた。


高田翔子


おはようございます


 短い文だった。

 それだけで、口元がゆるみそうになる。


「……朝からはやいな」


 小さくつぶやいて、隆史は親指を動かす。


宝塚


おはよう


 送信。


 洗面所で歯を磨いているあいだに返事が来た。


高田翔子


昨日の服、やっぱりよかったです


 朝からそこかよ、と思う。

 でも、それが翔子らしかった。


宝塚


まだ言うのか


高田翔子


大事なので

ああいうのは、似合う方がいいです


 歯ブラシをくわえたまま、隆史は鏡の中の自分を見た。


 そりゃ似合う方がいい。


 昨日の自分に向けて言っているのに、今の普通の顔でそれを読むと、妙に変な感じがした。


「おまえ、それ見ても誰か分かんねえだろ……」


 ぽつりと言ってから、また画面を見る。


 翔子は昨日の宝塚隆史とメッセージをしている。

 でも今、鏡の前にいるのは、その顔じゃない。

 同じ名前でつながっているくせに、大学ですれ違っても気づかれないはずだ。


 そのずれが、少しおかしかった。


     ◇


 一限の教室はいつも通りだった。


 眠そうな学生。前の方に固まる真面目なやつら。後ろでだらけている連中。そこへ普通の小野隆史として入っていけば、誰も見ないし、誰も二度見しない。


 今日はそのことが、前ほど嫌ではなかった。


 自分の中にだけ、小さな続きがあるからだ。


 席に座ってノートを出す。

 教授が来るまで少し時間がある。


 隆史は机の下で、こっそりスマホを開いた。


宝塚


朝から厳しいな


 送ると、すぐ既読がつく。

 数秒して返ってきた。


高田翔子


服には厳しいです


 そこで、横から肘が当たった。


「何だよ」


 顔を上げると、松岡がにやにやしていた。


「いや、おまえ今、ちょっと笑ってたから」


「笑ってない」


「笑ってた」


「朝からうるさいな」


「その返し方がもう怪しい」


 教授が入ってきて、松岡は肩をすくめた。

 隆史も前を向く。


 講義が始まる。

 ノートは取れる。話も聞いている。けれど頭の半分くらいは、さっきの「服には厳しいです」に持っていかれたままだった。


     ◇


 休み時間、廊下へ出たときだった。


 向こうから翔子が友だちと歩いてくるのが見えた。


 メガネ。少し控えめな歩き方。隣の友だちが何か話すたび、小さくうなずいている。見間違えようがない。


 隆史は反射的に足を止めた。


 声をかけそうになって、やめる。


 今の自分は、昨日の顔じゃない。


 翔子は近づいてきて、一度こちらを見る。

 けれど何の反応もないまま、そのまま通り過ぎていった。


 当たり前だ。


 分かるはずがない。


 ついさっきまでスマホの中では普通に会話していた相手が、現実の廊下では自分を見ても何も気づかない。そこにいるのに、つながっていない。


 妙な感じだった。


 少し変で、少しおかしくて、少しだけさびしい。


 通り過ぎていく背中を見送りながら、隆史はポケットの中のスマホを軽く押した。


     ◇


 二限の終わりごろには、もうだいぶ落ち着きがなくなっていた。


 通知音は切ってある。

 なのにポケットが震えた気がするたび、意識がそっちへ飛ぶ。実際には震えていないのに、気になって仕方がない。


 講義が終わるなり、隆史はスマホを見た。


高田翔子


さっきの先生、また同じ話してました


宝塚


どの先生


高田翔子


西洋美術史です

ギリシャのところ、またでした


宝塚


三回目くらいか


高田翔子


たぶん三回目です

先生は好きなんだと思います

私は眠いです


 そこまで読んだところで、背後から声が落ちてきた。


「何してんの」


 心臓が跳ねた。


 振り向くと、松岡がいた。


「……別に」


「別に、の顔じゃない」


「どんな顔だよ」


「隠れて悪いことしてる顔」


「してない」


「じゃあ見せろよ」


「嫌だよ」


 即答したせいで、かえって怪しくなる。


 松岡が細く目をした。


「うわ」


「何だよ」


「ほんとに何かあるやつじゃん」


 隆史はスマホをポケットに戻して歩き出す。

 松岡は当然のようについてくる。


「おまえさ、今日ずっと変だぞ」


「前も言ってたな」


「前は雰囲気が変。今日は中身が変」


「中身って何だよ」


「授業中にスマホ見て、しかも顔がゆるんでる」


「ゆるんでない」


「口元」


 反射的に口元を押さえると、松岡が指をさした。


「ほらやっぱり!」


「うるさい!」


「誰だよ」


「誰でもない」


「一番怪しい答え」


 廊下の真ん中でそんなやり取りをしていると、何人かがこっちを見る。隆史は知らん顔で階段を下りた。


     ◇


 学食では、松岡のほかに同じ講義を取っている男二人も一緒になった。


 別に親友というほどではないが、時間が合うと同じテーブルにつく程度の顔ぶれだ。そういう半端な距離の相手がいるぶん、今日は余計に面倒くさい。


「小野、なんか今日機嫌いいな」

「分かる。朝からちょっときもい」


「おまえら言い方どうにかしろよ」


 トレーを置きながら返すと、松岡がにやにやしている。


「こいつ、講義中ずっとスマホ見てた」


「うわ」

「彼女?」


「違うって」


「じゃあ女だ」


「何でそうなるんだよ」


「男なら見せられるだろ」


 ぐうの音も出ない理屈だった。


 味噌汁を一口飲んだところで、ポケットが小さく震えた。


 最悪だ。


 向かいの三人の目が、一斉にこっちへ向く。


「来た」

「来たな」

「今のは分かる」


「見んなよ」


「いや見るだろ、それは」

「開けろ」

「絶対女だろ」


 隆史はできるだけ平然とスマホを出し、画面を伏せたまま膝の上へ置く。


「食ってから返す」


「余裕ある感じ出してるけど、足落ち着いてないぞ」


 松岡が言う。


「おまえほんと最悪だな」


「で、誰なの」


「言わない」


「うわ、確定だ」


 男二人まで面白がり始めた。


「経済?」

「バイト先?」

「高校の同級生?」


 質問が飛ぶ。


 隆史は面倒になって、ご飯をかき込んだ。

 だがそのタイミングで、松岡が膝の上の手元を見て言う。


「今、見ただろ」


「見てない」


「見てた」


「顔変わった」

「分かりやすっ」


 諦めて、廊下へ逃げることにした。


「トイレ」


「逃げた」

「絶対女じゃん」

「戻ってこいよー!」


 背中に飛んでくる声を無視して、学食の外へ出る。


 廊下の端まで来て、ようやく画面を開いた。


高田翔子


お昼、学食ですか


 たったそれだけの文なのに、さっきまでのうるささが少し遠のく。


 隆史は壁にもたれて打つ。


宝塚


いる

でも今、友達に見つかってからかわれてる


 すぐ既読がついた。


 少し間があってから返ってくる。


高田翔子


……すごく、分かります


 その一文で、思わず笑ってしまった。


 分かるだろうな、と思う。


 昨日のカラオケで、友だちの勢いに押されていた翔子の顔が浮かぶ。自分の話なのに前へ出られず、場を取られて、気づけば小さく笑って座っているしかなくなる感じ。


宝塚


高田もああいうの苦手だろ


高田翔子


苦手です

すぐ黙ります


宝塚


俺もわりとそう


 送ってから、少し考える。


 昨日の自分は、たしかに目立っていた。

 でも今こうして普通の顔で男友達に囲まれていると、中身の不器用さは変わっていない。


 むしろ、今の方が翔子に近いのかもしれなかった。


 スマホがまた震える。


高田翔子


でも

昨日はちゃんと話してました


 隆史は画面を見たまま、少し息を止めた。


 昨日、自分が翔子を場の中へ戻そうとしたこと。

 歌えと言ったこと。

 服のことを友だちに話したこと。

 それを翔子はちゃんと覚えている。


 胸の奥が、少しだけあたたかくなる。


宝塚


高田が黙ってたから、少しだけな


 送る。


 その返事は少し遅かった。

 向こうも何て返すか迷っているらしい。


 そのあいだに、学食の方から松岡の声が飛んできた。


「おーい! ほんとにトイレかー!」


「うるさい!」


 廊下に声が響く。

 何人かが振り向いた。


 そのタイミングで返事が来る。


高田翔子


ありがとうございます


 たったそれだけだった。


 でも、その一文でさっきまでのうっとうしさが少しやわらぐ。


     ◇


 学食へ戻ると、案の定だった。


「長い」

「トイレじゃないだろ」

「で、何て来てたの」


 三方向から一気に来る。


 隆史は席に座りながら言った。


「だから、ただの知り合いだって」


「ただの知り合いで、あんな顔になるか?」

「どんな顔だよ」

「浮かれてる顔」

「普通の顔のくせに」


「その“普通の顔”押すのやめろ」


 自分でも少し笑ってしまった。


 松岡が箸の先でこっちを指す。


「でもよかったじゃん」


「何が」


「おまえにもそういうのあるんだなって」


「どういうのだよ」


「隠れてスマホ見て、返信来たら口元ゆるむやつ」


「最低だな、その説明」


「でも合ってる」


 否定しきれないのが腹立たしい。


 男二人はもう半分くらい興味を失って、次の講義の話を始めている。松岡だけがまだこっちを見ていた。


「で」


「まだあるのかよ」


「ある。女?」


「……たぶん」


「たぶんって何だよ」


「いや、その、まだそこまでじゃないし」


「はい出ました」


 松岡が机を軽く叩いた。


「今の、“そこまで”って言ったな」


「言葉尻取るなよ」


「完全にそういうやつじゃん」


 隆史はもう諦めて、ご飯をかき込むことにした。

 けれど胸のどこかは、悪い気がしていなかった。


 からかわれている。

 面白がられている。

 普通ならうっとうしいだけのはずなのに、今日は少し違う。


 それはたぶん、からかわれるだけの理由がちゃんとあるからだった。


     ◇


 午後の講義が終わり、窓から斜めの光が入るころ、隆史はまたこっそりスマホを見た。


 通知が一件。


高田翔子


さっきは大丈夫でしたか


 そこで少しいたずらしたい気分になる。


宝塚


たぶん大丈夫

かなりからかわれたけど


 すぐに返事が来た。


高田翔子


すみません


 やっぱりそれを言う。


宝塚


だから謝るなって


 送ってから、続けてもう一つ打つ。


宝塚


でも、ちょっと楽しかった


 既読がつく。

 少し長めの間。

 それから返ってきた。


高田翔子


それならよかったです


 さらに、もう一件。


高田翔子


あの

今日は少しだけなら、会えますか


 隆史は画面を見たまま止まった。


 普通の小野隆史として教室の後ろに座っている。

 周りでは椅子を引く音や雑談がしている。

 少し離れたところで松岡が誰かと話している声も聞こえる。


 その中で、自分だけ別の扉の前に立たされたみたいだった。


 今日、自分は普通の顔だ。

 このまま会っても、翔子は分からない。


 会うなら、またあの姿になる必要がある。


 昨日の続きが、スマホの中から現実へ出てくる。

 その気配に、胸がどくんと鳴った。


 隆史はゆっくり息を吐いて、返事を打つ。


小野隆史


会える


 送信。


 画面を閉じる前に、口元が少しゆるむ。


「おい」


 すぐ横で、松岡の声がした。


 いつの間に戻ってきたのか分からない。


「またその顔してる」


「見んなよ」


「もう無理だろ、それは」


 松岡は呆れたように笑った。


「おまえ、今日一日ずっと、普通の顔でこそこそしてたな」


 その言い方が妙におかしくて、隆史はとうとう笑ってしまった。


 たしかにその通りだった。

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