表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/53

オスカル様、服屋へ行く

 水曜の講義が終わったあと、隆史は一人で駅前の通りを歩いていた。


 目的地は決まっている。


 服屋だ。


 昨日からずっと、頭のどこかに引っかかっていた。


 顔に服が負けている。


 自分で言って、自分で少し笑った言葉だったが、あれは冗談ではなかった。宝塚隆史の顔に対して、手持ちの服が弱い。安いとか高いとかいうより、全体のつり合いが取れていない。


 顔だけ仕上がっていて、服と立ち方が追いついていない。


 それが、どうにも気持ち悪い。


「……見に行くだけだしな」


 誰に言うでもなくつぶやいて、駅前のファッションビルへ入る。


 中は平日の午後らしく、そこまで混んではいない。


 店の前に立つマネキンは細くて姿勢がよく、どれもいかにも今風だった。


 隆史はまず、自分の場違いさを少しだけ意識した。


 いや、正確には逆だ。


 今の顔なら、店の中で浮いているわけではない。


 むしろ店員の方が一瞬こちらを見るくらいには、妙に馴染んでいる。


 問題は中身だ。


 何を選べばいいのか、よく分からない。


 とりあえずシャツを見る。ジャケットを見る。細身のパンツを見る。


 色も形もいろいろあるが、どれが自分に合うのかまでは判断しきれない。


 顔は分かる。


 輪郭も、首の線も、肩の見え方も、自分で触って作ってきた。


 だからこそ、何となく「これは違う」までは分かる。


 でも、「これが正解だ」は難しい。


「いらっしゃいませ」


 店員に声をかけられて、隆史は軽く会釈した。


「何かお探しですか?」


「いや、ちょっと見るだけで」


 自然に返したつもりだったが、相手は少しだけ笑った。


「似合いそうなの、いろいろありますよ」


 そう言われると、悪い気はしない。


 普通の小野隆史のときなら、たぶん言われ方も違っただろうと思う。


 宝塚隆史の顔で店に入ると、服屋の空気まで少し変わる。


 そのことがおかしくて、ちょっと気持ちいい。


 けれど、気持ちいいだけで選べるわけではない。


 隆史はラックの前で足を止めた。


 濃いネイビーのシャツ。黒に近いジャケット。細いパンツ。


 どれも悪くない気はする。


 でも手に取る決め手がない。


 自分が服を買うときは、こんなに迷わなかった。


 安くて、無難で、大学に着ていって浮かなければいい。それだけだったからだ。


 今は違う。


 今は顔に合わせないといけない。


「……面倒くせえ」


 小さくつぶやいた、そのときだった。


「……あ」


 すぐ近くで、小さな声がした。


 女の声。


 聞き覚えがあった。


 振り向くと、高田翔子が立っていた。


 手には小さな紙袋。大学帰りらしい地味な服。きっちりまとめた髪。


 ぱっと見では目立たないのに、もう一度見たらすぐ分かる顔。


 そして今、その目は明らかに動揺していた。


 翔子の方は、たぶんさっきからこちらに気づいていたのだろう。


 でも話しかける直前で止まった、そんな顔だった。


 呼び方に困ったのかもしれない。


 名前を知らないのだ。


「高田さん」


 先に声をかけると、翔子はびくっと肩を揺らした。


「は、はい」


 緊張がそのまま声に出ている。


 どうしてここにいるのか、という顔だった。


 たぶんこっちも同じ顔をしていたと思う。


「こんなとこ来るんだ」


 とりあえず自然なことを言うと、翔子は少し慌ててうなずいた。


「その……画材を見に来た帰りで」


「ああ」


 このビルの上に文具店と画材店が入っていたのを思い出す。


 なるほど、ありえる。


 翔子はまだ少し困った顔のままだった。


「えっと……」


 言いかけて、止まる。


 やっぱり呼び方だな、と隆史は気づく。


「ああ、名前まだだったか」


 そう言うと、翔子の目が少しだけ大きくなった。


「す、すみません」


「何で謝るの」


 思わず笑う。


「宝塚でいいよ」


「……宝塚、さん」


 ぎこちなく繰り返す。


 その呼び方が妙にくすぐったくて、隆史は少しだけ肩をすくめた。


「それで十分」


「……はい」


 翔子は小さくうなずく。


 でも、その目だけはまだ少し熱っぽかった。


 たぶん、見つけた瞬間にかなり驚いたのだろう。


 いや、驚いただけじゃない。


 もっと別のものも混じっている気がした。


「服、見てたんですか」


「まあ」


「……似合うと思います」


「まだ何も着てないけど」


 そう返すと、翔子は一瞬だけ口を閉じて、それから少し赤くなった。


「すみません」


「いや、いいけど」


 妙に真面目だなと思う。


 それにしても、高田翔子が服屋でこの顔の自分に会う、というのはなかなか変な状況だった。


 大学で見るときより、翔子の反応がさらに強い気がする。


 目が完全に泳いでいるのに、時々、服とこっちの顔を一緒に見ている。


 ただ見惚れているというより、比べている感じだ。


「高田さん、服とか詳しい?」


 何となく聞いてみると、翔子は一瞬だけ固まった。


「……え」


「いや、何か見方がそうっぽいなと思って」


 そこで翔子の目が少しだけ変わる。


 驚きから、別の集中へ切り替わる感じ。


「詳しい、というほどでは」


「でも分かるんだ」


「少しだけなら」


 その言い方は控えめだったが、声の震えは少し減っていた。


 なるほど、と思う。


 この子はたぶん、見る対象が決まると強いのだ。


「じゃあ、ちょっと見てもらっていい?」


 言った瞬間、翔子の目が大きく開いた。


「え」


「正直、自分じゃよく分かんなくて」


「私が、ですか」


「高田さん以外、今ここにいないし」


 本当は店員がいる。


 でも、なぜかこの子に聞いた方がいい気がした。


 ただの感覚だ。


 けれど、翔子の目は人より少し深く見ている。その感じがあった。


 翔子はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。


「……はい」


 その返事だけで、妙に空気が変わる。


 さっきまでおどおどしていたのに、服を見る段になると少しだけ背筋が伸びた。



「これと、これなら」


 翔子はラックの前で、二枚のシャツを見比べた。


 一枚は黒。もう一枚は少し青みのある濃いネイビー。


「黒の方が強いですけど、こっちの方が……」


「こっち?」


「はい。少しだけ柔らかいので」


「柔らかい方がいい?」


「たぶん、その……顔が強いので」


 言ったあとで、翔子は少しだけ気まずそうに視線を下げた。


 でも、言っていることはかなり当たっていた。


 顔が強い。


 まさにそれだ。


 店員ではなく、この子に聞いて正解だったかもしれないと思う。


「じゃあネイビーか」


「あと、首元が詰まりすぎない方がいいと思います」


「何で?」


「首の線がきれいだから」


 さらっと言い切ってから、翔子は自分でも何を言ったのか気づいたらしい。


 耳まで赤くなる。


「……すみません」


「何で謝るの」


「その、変な言い方だったので」


「いや、ちゃんと見てるんだなと思った」


 そう言うと、翔子はまた少し黙った。


 黙ったまま、今度はジャケットの方を見る。


「これは、どうですか」


 翔子が手を伸ばしたのは、余計な装飾のない軽いジャケットだった。


 黒に近い、落ち着いた色。


「地味じゃない?」


「地味な方が、いいです」


「そう?」


「はい。派手なのを足すより、引いた方が……目立つと思います」


 面白い言い方だ。


 でも、感覚は分かる。


 今の顔はもう十分目立つ。


 服でさらに足すより、抑えた方が全体が締まる。


 美術科の目なのかもしれない、と隆史は思った。


 ただ好きだから見ているだけじゃない。


 構図みたいに、人を見ている。


「高田さん、やっぱり分かるんだな」


 言うと、翔子は小さく首を横に振った。


「分かるというか……」


「うん」


「その、人を見てると、線とか、バランスとか、気になるので」


 線。


 バランス。


 その言葉で、急にしっくり来る。


 フィギュアと同じだ、と隆史は思った。


 頭部だけ完成していても駄目だ。


 首、肩、服、立ち方、全部で一つの形になる。


 この子はそれを、たぶん無意識に見ている。


「じゃあ、パンツは?」


「細い方がいいです」


「即答」


「……すみません」


「いや、もうそのまま行って」


 翔子は少し迷ってから、パンツも一つ選んだ。


 細身で、色は黒。癖は強くない。


 でも脚の線がきれいに出そうな形だ。


「たぶん、これだと全体がつながると思います」


「全体がつながる」


「はい。顔だけ先に完成してる感じが、今は少しあって……」


 そこでまた、翔子ははっとした顔をした。


「すみません、偉そうに」


「いや、すごい合ってる」


 本当にその通りだった。


 思っていたことを、そのまま言われた。


 翔子はこっちの顔をまともに見られないくせに、服の話になると一番核心を突いてくる。


 それが妙におかしい。



 試着室から出ると、翔子は一瞬だけ息を止めた。


 分かりやすすぎる反応だった。


「……どう?」


 聞くと、翔子はすぐには答えなかった。


 たぶん答えられなかったのだ。


 目が完全にこっちに持っていかれている。


 顔。首。肩。シャツ。ジャケット。全体。


 その順で見ている。


「高田さん」


「……あ」


 ようやく我に返る。


「ごめんなさい」


「何回謝るの」


「その」


「で、どうなの」


 翔子は唇を少しだけ結んで、それから小さく言った。


「……すごく、似合います」


「すごく」


「はい」


 そのあと、少しだけ勇気を出したみたいに続けた。


「いちばん、似合ってます」


「前は似合ってなかった?」


「顔に対して、服が少し負けてました」


 そこはきっぱりだった。


 隆史は思わず笑ってしまう。


「やっぱりそう見えてたんだ」


「見えてました」


 ここだけ妙に強い。


「高田さん、服のことになると急に厳しいな」


「……すみません」


「褒めてる」


 そう言うと、翔子はまた少し黙った。


 でも、その口元がほんの少しだけやわらぐ。


 たぶん今、かなり嬉しいのだろう。


 それが分かるくらいには、この子の反応も見えてきた。


「じゃあ、これにする」


 隆史が言うと、翔子の肩が小さく揺れた。


「ほんとに?」


「高田さんが選んだんだし」


「……はい」


 その“はい”が、妙に熱を持っていた。


 レジへ向かうまでのあいだ、翔子は半歩後ろを歩いていた。


 ついてきているのに、出しゃばらない距離だ。


 その距離感が、なんとなくこの子らしい。



 会計を終えて店を出ると、夕方の光がガラスに反射していた。


 紙袋を受け取り、隆史は少しだけそれを持ち上げる。


「助かった」


 そう言うと、翔子は少し慌てたように首を振る。


「いえ」


「いや、ほんとに。自分だけじゃ分かんなかった」


「そんなことないと思います」


「かなりあった」


 言い切ると、翔子はまた少しだけ笑った。


 控えめな笑い方だった。


 でも、大学で遠くから見ているときよりずっとやわらかい。


「高田さんって、普段からそうやって人見てるの?」


 何となく聞くと、翔子は一瞬だけ戸惑った。


「え」


「線とか、バランスとか」


 そこで、翔子は視線を少し落とす。


「……見てます」


「やっぱり」


「ごめんなさい」


「だから何で謝るの」


 翔子は少し考えてから、ほんの少しだけ正直な顔になった。


「好きなので」


「服が?」


「人を描くのが」


 その答えに、隆史は少しだけ納得した。


 やっぱり描いているのだ。


 スケッチブックを持ち歩いているのも、気のせいではなかったのだろう。


「じゃあ、俺も描かれてたりする?」


 軽く冗談のつもりで聞いた。


 けれど、翔子の反応は冗談ではなかった。


 ぴたりと固まる。


 目が泳ぐ。


 耳まで赤くなる。


「……高田さん?」


「そ、それは」


 図星だ、と思う。


 思った瞬間、少し面白くなる。


「描いてるんだ」


「……少しだけ」


「少しだけでそんな反応になる?」


 翔子は完全に言葉に詰まっていた。


 逃げたいのに逃げきれない顔。


 それでも嫌そうではない。


「見せて、とは言わないけど」


 隆史がそう言うと、翔子は目に見えてほっとした。


「……ありがとうございます」


「礼言うことじゃないでしょ」


 でも、その反応でだいたい分かった。


 この子は本当に、宝塚をどこかに残している。


 ただ見ているだけではない。


 持ち帰っている。


 それが少し不思議で、少し嬉しかった。


 ブティックを出ると、もう空は少し暗くなり始めていた。


 ネオンが点き始めた通りを、また二人で歩く。


 人は増えている。


 どこかへ向かう学生、仕事帰りの大人、制服のまま遊んでいる高校生。


 隆史はさっきより自然に歩けている気がした。


 翔子も、少しだけ緊張がほどけているように見えた。


 このまま、もう少しだけ二人で歩けたらいい。


 そう思ったときだった。


「えっ、翔子?」


 前から来た三人組の女子が、ぴたりと足を止めた。


 翔子の肩が目に見えて跳ねる。


 その中の一人は、昼に学食で翔子の背中を押していた友だちだった。


 残り二人も同じ学科らしい。


 三人とも、翔子より声が大きくて、空気の取り方がうまそうなタイプだった。


「何その状況」

「ちょっと待って、だれ?」

「え、めっちゃかっこいいんだけど」


 矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。


 さっきまで話していた翔子が、そこで急に黙った。


「あ、えっと……」


 と一度だけ言って、それきり口が閉じる。


 目が泳いでいる。


 肩も少し内側へ入る。


 バッグの持ち手を握る指に力が入る。


 場の主導権が、一瞬で向こうへ移ったのが分かった。


「翔子、紹介しなよ」

「同じ大学?」

「ていうか、翔子こういう知り合いいたの?」


 悪意はない。


 からかい半分、興味半分だ。


 でもその勢いの中で、翔子はうまく声を出せなくなっていた。


 隆史はその顔を見た瞬間、変な既視感を覚えた。


 少し前までの自分だ、と思う。


 目立つやつが前に出て、話の早いやつが場を回して、気づいたら自分の居場所が端へ押しやられている。


 何か言おうとしても、その一瞬をつかめない。


 結果、笑ってごまかすか、黙るしかなくなる。


 何度もあった。


 男同士でも、大学でも、高校でも。


 翔子は今、その位置にいる。


「同じ大学だよ」


 気づいたら、隆史が口を開いていた。


 三人の視線がこっちへ集まる。


「高田さんに服見てもらってたんだ。こいつ、見る目があるみたい」


 すると、翔子が驚いたように顔を上げた。


「え、そうなの?」

「翔子が?」

「まじで?」


 三人の矛先が、少しだけ翔子に向く。


 翔子は戸惑ったまま、小さくうなずいた。


「……ちょっとだけ」


「ちょっとどころじゃないよ。さっきまでダサかったのに、ちゃんと見られるようになったし」


「ちょ、宝塚さん」


 翔子が慌てる。


 でも、さっきまでより声が出ていた。


「へえー、翔子やるじゃん」

「言ってくれたらうちらも見たのに」

「ていうか、その流れで二人で歩いてたの?」


 三人がまた盛り上がる。


 すると、そのうちの一人がにやにやしながら言った。


「じゃあさ、このままカラオケ行かない?」


「え」


 翔子が固まる。


「今から?」

「時間あるし」

「翔子も来るでしょ?」


 翔子は完全に困った顔で、三人と隆史を見比べた。


 断りたいのか、どうしたいのか、自分でも決めきれないような顔だった。


 本当は二人でいたかった。


 隆史はそう思った。


 せっかく少し話せるようになってきたところだったのに、とも思う。


 でもその横で、翔子はまた場に押されかけている。


 あの顔のまま、ここで一人にさせるのも違う気がした。


「高田さんが嫌なら、別に――」


 言いかけたところで、翔子が小さく首を振った。


「……行きます」


 声は弱いが、ちゃんと聞こえた。


「だ、大丈夫です」


 たぶん自分に言い聞かせるみたいな声だった。


「じゃ決まり!」


 三人が一気に動き出す。


 カラオケ店はすぐそこだった。


 歩き出したあと、翔子がほんの少しだけこちらを見る。


 困っているような、でも少しだけ助かったみたいな顔だった。


 隆史は何も言わず、紙袋を持ち直した。


 せっかく高田が選んだ服だ。


 なら、もう少しだけちゃんと着こなしてやろうと思う。


 そのまま四人で、ネオンの明るい通りをカラオケ店へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ