オスカル様、服屋へ行く
水曜の講義が終わったあと、隆史は一人で駅前の通りを歩いていた。
目的地は決まっている。
服屋だ。
昨日からずっと、頭のどこかに引っかかっていた。
顔に服が負けている。
自分で言って、自分で少し笑った言葉だったが、あれは冗談ではなかった。宝塚隆史の顔に対して、手持ちの服が弱い。安いとか高いとかいうより、全体のつり合いが取れていない。
顔だけ仕上がっていて、服と立ち方が追いついていない。
それが、どうにも気持ち悪い。
「……見に行くだけだしな」
誰に言うでもなくつぶやいて、駅前のファッションビルへ入る。
中は平日の午後らしく、そこまで混んではいない。
店の前に立つマネキンは細くて姿勢がよく、どれもいかにも今風だった。
隆史はまず、自分の場違いさを少しだけ意識した。
いや、正確には逆だ。
今の顔なら、店の中で浮いているわけではない。
むしろ店員の方が一瞬こちらを見るくらいには、妙に馴染んでいる。
問題は中身だ。
何を選べばいいのか、よく分からない。
とりあえずシャツを見る。ジャケットを見る。細身のパンツを見る。
色も形もいろいろあるが、どれが自分に合うのかまでは判断しきれない。
顔は分かる。
輪郭も、首の線も、肩の見え方も、自分で触って作ってきた。
だからこそ、何となく「これは違う」までは分かる。
でも、「これが正解だ」は難しい。
「いらっしゃいませ」
店員に声をかけられて、隆史は軽く会釈した。
「何かお探しですか?」
「いや、ちょっと見るだけで」
自然に返したつもりだったが、相手は少しだけ笑った。
「似合いそうなの、いろいろありますよ」
そう言われると、悪い気はしない。
普通の小野隆史のときなら、たぶん言われ方も違っただろうと思う。
宝塚隆史の顔で店に入ると、服屋の空気まで少し変わる。
そのことがおかしくて、ちょっと気持ちいい。
けれど、気持ちいいだけで選べるわけではない。
隆史はラックの前で足を止めた。
濃いネイビーのシャツ。黒に近いジャケット。細いパンツ。
どれも悪くない気はする。
でも手に取る決め手がない。
自分が服を買うときは、こんなに迷わなかった。
安くて、無難で、大学に着ていって浮かなければいい。それだけだったからだ。
今は違う。
今は顔に合わせないといけない。
「……面倒くせえ」
小さくつぶやいた、そのときだった。
「……あ」
すぐ近くで、小さな声がした。
女の声。
聞き覚えがあった。
振り向くと、高田翔子が立っていた。
手には小さな紙袋。大学帰りらしい地味な服。きっちりまとめた髪。
ぱっと見では目立たないのに、もう一度見たらすぐ分かる顔。
そして今、その目は明らかに動揺していた。
翔子の方は、たぶんさっきからこちらに気づいていたのだろう。
でも話しかける直前で止まった、そんな顔だった。
呼び方に困ったのかもしれない。
名前を知らないのだ。
「高田さん」
先に声をかけると、翔子はびくっと肩を揺らした。
「は、はい」
緊張がそのまま声に出ている。
どうしてここにいるのか、という顔だった。
たぶんこっちも同じ顔をしていたと思う。
「こんなとこ来るんだ」
とりあえず自然なことを言うと、翔子は少し慌ててうなずいた。
「その……画材を見に来た帰りで」
「ああ」
このビルの上に文具店と画材店が入っていたのを思い出す。
なるほど、ありえる。
翔子はまだ少し困った顔のままだった。
「えっと……」
言いかけて、止まる。
やっぱり呼び方だな、と隆史は気づく。
「ああ、名前まだだったか」
そう言うと、翔子の目が少しだけ大きくなった。
「す、すみません」
「何で謝るの」
思わず笑う。
「宝塚でいいよ」
「……宝塚、さん」
ぎこちなく繰り返す。
その呼び方が妙にくすぐったくて、隆史は少しだけ肩をすくめた。
「それで十分」
「……はい」
翔子は小さくうなずく。
でも、その目だけはまだ少し熱っぽかった。
たぶん、見つけた瞬間にかなり驚いたのだろう。
いや、驚いただけじゃない。
もっと別のものも混じっている気がした。
「服、見てたんですか」
「まあ」
「……似合うと思います」
「まだ何も着てないけど」
そう返すと、翔子は一瞬だけ口を閉じて、それから少し赤くなった。
「すみません」
「いや、いいけど」
妙に真面目だなと思う。
それにしても、高田翔子が服屋でこの顔の自分に会う、というのはなかなか変な状況だった。
大学で見るときより、翔子の反応がさらに強い気がする。
目が完全に泳いでいるのに、時々、服とこっちの顔を一緒に見ている。
ただ見惚れているというより、比べている感じだ。
「高田さん、服とか詳しい?」
何となく聞いてみると、翔子は一瞬だけ固まった。
「……え」
「いや、何か見方がそうっぽいなと思って」
そこで翔子の目が少しだけ変わる。
驚きから、別の集中へ切り替わる感じ。
「詳しい、というほどでは」
「でも分かるんだ」
「少しだけなら」
その言い方は控えめだったが、声の震えは少し減っていた。
なるほど、と思う。
この子はたぶん、見る対象が決まると強いのだ。
「じゃあ、ちょっと見てもらっていい?」
言った瞬間、翔子の目が大きく開いた。
「え」
「正直、自分じゃよく分かんなくて」
「私が、ですか」
「高田さん以外、今ここにいないし」
本当は店員がいる。
でも、なぜかこの子に聞いた方がいい気がした。
ただの感覚だ。
けれど、翔子の目は人より少し深く見ている。その感じがあった。
翔子はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……はい」
その返事だけで、妙に空気が変わる。
さっきまでおどおどしていたのに、服を見る段になると少しだけ背筋が伸びた。
◇
「これと、これなら」
翔子はラックの前で、二枚のシャツを見比べた。
一枚は黒。もう一枚は少し青みのある濃いネイビー。
「黒の方が強いですけど、こっちの方が……」
「こっち?」
「はい。少しだけ柔らかいので」
「柔らかい方がいい?」
「たぶん、その……顔が強いので」
言ったあとで、翔子は少しだけ気まずそうに視線を下げた。
でも、言っていることはかなり当たっていた。
顔が強い。
まさにそれだ。
店員ではなく、この子に聞いて正解だったかもしれないと思う。
「じゃあネイビーか」
「あと、首元が詰まりすぎない方がいいと思います」
「何で?」
「首の線がきれいだから」
さらっと言い切ってから、翔子は自分でも何を言ったのか気づいたらしい。
耳まで赤くなる。
「……すみません」
「何で謝るの」
「その、変な言い方だったので」
「いや、ちゃんと見てるんだなと思った」
そう言うと、翔子はまた少し黙った。
黙ったまま、今度はジャケットの方を見る。
「これは、どうですか」
翔子が手を伸ばしたのは、余計な装飾のない軽いジャケットだった。
黒に近い、落ち着いた色。
「地味じゃない?」
「地味な方が、いいです」
「そう?」
「はい。派手なのを足すより、引いた方が……目立つと思います」
面白い言い方だ。
でも、感覚は分かる。
今の顔はもう十分目立つ。
服でさらに足すより、抑えた方が全体が締まる。
美術科の目なのかもしれない、と隆史は思った。
ただ好きだから見ているだけじゃない。
構図みたいに、人を見ている。
「高田さん、やっぱり分かるんだな」
言うと、翔子は小さく首を横に振った。
「分かるというか……」
「うん」
「その、人を見てると、線とか、バランスとか、気になるので」
線。
バランス。
その言葉で、急にしっくり来る。
フィギュアと同じだ、と隆史は思った。
頭部だけ完成していても駄目だ。
首、肩、服、立ち方、全部で一つの形になる。
この子はそれを、たぶん無意識に見ている。
「じゃあ、パンツは?」
「細い方がいいです」
「即答」
「……すみません」
「いや、もうそのまま行って」
翔子は少し迷ってから、パンツも一つ選んだ。
細身で、色は黒。癖は強くない。
でも脚の線がきれいに出そうな形だ。
「たぶん、これだと全体がつながると思います」
「全体がつながる」
「はい。顔だけ先に完成してる感じが、今は少しあって……」
そこでまた、翔子ははっとした顔をした。
「すみません、偉そうに」
「いや、すごい合ってる」
本当にその通りだった。
思っていたことを、そのまま言われた。
翔子はこっちの顔をまともに見られないくせに、服の話になると一番核心を突いてくる。
それが妙におかしい。
◇
試着室から出ると、翔子は一瞬だけ息を止めた。
分かりやすすぎる反応だった。
「……どう?」
聞くと、翔子はすぐには答えなかった。
たぶん答えられなかったのだ。
目が完全にこっちに持っていかれている。
顔。首。肩。シャツ。ジャケット。全体。
その順で見ている。
「高田さん」
「……あ」
ようやく我に返る。
「ごめんなさい」
「何回謝るの」
「その」
「で、どうなの」
翔子は唇を少しだけ結んで、それから小さく言った。
「……すごく、似合います」
「すごく」
「はい」
そのあと、少しだけ勇気を出したみたいに続けた。
「いちばん、似合ってます」
「前は似合ってなかった?」
「顔に対して、服が少し負けてました」
そこはきっぱりだった。
隆史は思わず笑ってしまう。
「やっぱりそう見えてたんだ」
「見えてました」
ここだけ妙に強い。
「高田さん、服のことになると急に厳しいな」
「……すみません」
「褒めてる」
そう言うと、翔子はまた少し黙った。
でも、その口元がほんの少しだけやわらぐ。
たぶん今、かなり嬉しいのだろう。
それが分かるくらいには、この子の反応も見えてきた。
「じゃあ、これにする」
隆史が言うと、翔子の肩が小さく揺れた。
「ほんとに?」
「高田さんが選んだんだし」
「……はい」
その“はい”が、妙に熱を持っていた。
レジへ向かうまでのあいだ、翔子は半歩後ろを歩いていた。
ついてきているのに、出しゃばらない距離だ。
その距離感が、なんとなくこの子らしい。
◇
会計を終えて店を出ると、夕方の光がガラスに反射していた。
紙袋を受け取り、隆史は少しだけそれを持ち上げる。
「助かった」
そう言うと、翔子は少し慌てたように首を振る。
「いえ」
「いや、ほんとに。自分だけじゃ分かんなかった」
「そんなことないと思います」
「かなりあった」
言い切ると、翔子はまた少しだけ笑った。
控えめな笑い方だった。
でも、大学で遠くから見ているときよりずっとやわらかい。
「高田さんって、普段からそうやって人見てるの?」
何となく聞くと、翔子は一瞬だけ戸惑った。
「え」
「線とか、バランスとか」
そこで、翔子は視線を少し落とす。
「……見てます」
「やっぱり」
「ごめんなさい」
「だから何で謝るの」
翔子は少し考えてから、ほんの少しだけ正直な顔になった。
「好きなので」
「服が?」
「人を描くのが」
その答えに、隆史は少しだけ納得した。
やっぱり描いているのだ。
スケッチブックを持ち歩いているのも、気のせいではなかったのだろう。
「じゃあ、俺も描かれてたりする?」
軽く冗談のつもりで聞いた。
けれど、翔子の反応は冗談ではなかった。
ぴたりと固まる。
目が泳ぐ。
耳まで赤くなる。
「……高田さん?」
「そ、それは」
図星だ、と思う。
思った瞬間、少し面白くなる。
「描いてるんだ」
「……少しだけ」
「少しだけでそんな反応になる?」
翔子は完全に言葉に詰まっていた。
逃げたいのに逃げきれない顔。
それでも嫌そうではない。
「見せて、とは言わないけど」
隆史がそう言うと、翔子は目に見えてほっとした。
「……ありがとうございます」
「礼言うことじゃないでしょ」
でも、その反応でだいたい分かった。
この子は本当に、宝塚をどこかに残している。
ただ見ているだけではない。
持ち帰っている。
それが少し不思議で、少し嬉しかった。
ブティックを出ると、もう空は少し暗くなり始めていた。
ネオンが点き始めた通りを、また二人で歩く。
人は増えている。
どこかへ向かう学生、仕事帰りの大人、制服のまま遊んでいる高校生。
隆史はさっきより自然に歩けている気がした。
翔子も、少しだけ緊張がほどけているように見えた。
このまま、もう少しだけ二人で歩けたらいい。
そう思ったときだった。
「えっ、翔子?」
前から来た三人組の女子が、ぴたりと足を止めた。
翔子の肩が目に見えて跳ねる。
その中の一人は、昼に学食で翔子の背中を押していた友だちだった。
残り二人も同じ学科らしい。
三人とも、翔子より声が大きくて、空気の取り方がうまそうなタイプだった。
「何その状況」
「ちょっと待って、だれ?」
「え、めっちゃかっこいいんだけど」
矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。
さっきまで話していた翔子が、そこで急に黙った。
「あ、えっと……」
と一度だけ言って、それきり口が閉じる。
目が泳いでいる。
肩も少し内側へ入る。
バッグの持ち手を握る指に力が入る。
場の主導権が、一瞬で向こうへ移ったのが分かった。
「翔子、紹介しなよ」
「同じ大学?」
「ていうか、翔子こういう知り合いいたの?」
悪意はない。
からかい半分、興味半分だ。
でもその勢いの中で、翔子はうまく声を出せなくなっていた。
隆史はその顔を見た瞬間、変な既視感を覚えた。
少し前までの自分だ、と思う。
目立つやつが前に出て、話の早いやつが場を回して、気づいたら自分の居場所が端へ押しやられている。
何か言おうとしても、その一瞬をつかめない。
結果、笑ってごまかすか、黙るしかなくなる。
何度もあった。
男同士でも、大学でも、高校でも。
翔子は今、その位置にいる。
「同じ大学だよ」
気づいたら、隆史が口を開いていた。
三人の視線がこっちへ集まる。
「高田さんに服見てもらってたんだ。こいつ、見る目があるみたい」
すると、翔子が驚いたように顔を上げた。
「え、そうなの?」
「翔子が?」
「まじで?」
三人の矛先が、少しだけ翔子に向く。
翔子は戸惑ったまま、小さくうなずいた。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとどころじゃないよ。さっきまでダサかったのに、ちゃんと見られるようになったし」
「ちょ、宝塚さん」
翔子が慌てる。
でも、さっきまでより声が出ていた。
「へえー、翔子やるじゃん」
「言ってくれたらうちらも見たのに」
「ていうか、その流れで二人で歩いてたの?」
三人がまた盛り上がる。
すると、そのうちの一人がにやにやしながら言った。
「じゃあさ、このままカラオケ行かない?」
「え」
翔子が固まる。
「今から?」
「時間あるし」
「翔子も来るでしょ?」
翔子は完全に困った顔で、三人と隆史を見比べた。
断りたいのか、どうしたいのか、自分でも決めきれないような顔だった。
本当は二人でいたかった。
隆史はそう思った。
せっかく少し話せるようになってきたところだったのに、とも思う。
でもその横で、翔子はまた場に押されかけている。
あの顔のまま、ここで一人にさせるのも違う気がした。
「高田さんが嫌なら、別に――」
言いかけたところで、翔子が小さく首を振った。
「……行きます」
声は弱いが、ちゃんと聞こえた。
「だ、大丈夫です」
たぶん自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「じゃ決まり!」
三人が一気に動き出す。
カラオケ店はすぐそこだった。
歩き出したあと、翔子がほんの少しだけこちらを見る。
困っているような、でも少しだけ助かったみたいな顔だった。
隆史は何も言わず、紙袋を持ち直した。
せっかく高田が選んだ服だ。
なら、もう少しだけちゃんと着こなしてやろうと思う。
そのまま四人で、ネオンの明るい通りをカラオケ店へ向かった。




