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顔に服が負けている

 火曜の朝、目が覚めたとき、隆史は少しだけ迷った。


 今日は何もしないで、普通のまま過ごすつもりだった。


 大学へ行って、講義を受けて、松岡とどうでもいい話をして、それで帰る。


 それでいいはずだった。


 でも、洗面台の前に立って鏡を見ると、その考えは少しだけ揺らぐ。


 そこにいるのは、いつもの小野隆史だ。


 見慣れた顔。安心できる顔。昨日までの生活なら、これで何も困らなかった顔。


 なのに今は、それを見ていると少しだけ物足りない。


「……別に、いいだろ」


 誰に言うでもなく、小さくつぶやく。


 指が、無意識に頬へ触れた。


 粘土みたいに少しだけ形が動く。もう慣れた感覚だった。


 頬骨の出方をほんの少し抑える。鼻筋をまっすぐに通す。顎の角を少しだけ整える。


 少しだけのつもりだった。


 でも、鏡の中の顔が変わり始めると、止めどころが分からなくなる。


 目元を少し締める。首の見え方も直したくなる。輪郭だけ整っていても、首と顎がつながらないと気持ち悪い。


「……いや」


 隆史は一度だけ手を止めた。


 少しだけ、じゃない。


 どうせやるなら、ちゃんとやりたい。


 中途半端な顔で外に出る方が、今の自分にはよっぽど気持ち悪かった。


 そう思った瞬間、もう止まらなかった。


     ◇


 鏡の中には、普通の小野隆史はいなかった。


 宝塚隆史。


 自分でそう呼んでいる顔が、そこにある。


 鼻筋が通っている。顎の線がきれいに落ちている。目元の圧が少しだけ強い。首が長く見えて、肩の線も前よりましだった。


 見れば見るほど、昨日の服装が頭に浮かぶ。


 Tシャツ。安いパーカー。よくある学生のズボン。


「……合ってねえな」


 思わず口に出る。


 この顔に、その服は弱すぎた。


 安っぽいというほどではない。普通だ。普通の大学生ならそれで何もおかしくない。


 でも今の顔は、普通の服を着ると逆に浮く。


 顔だけ妙に目立って、全体のつり合いが崩れる。フィギュアで言えば、頭部だけ作り込みすぎて胴体が追いついていない感じだ。


「顔に服が負けてる……」


 自分で言って、少しだけ笑ってしまう。


 馬鹿みたいだと思う。


 でも本当だった。


 せっかく作ったのに、服で損している感じがある。


 クローゼットを開ける。中身はたいしたことがない。安いシャツ、よれたTシャツ、大学生らしい無難な服ばかりだ。


 その中からまだましな濃い色のシャツを引っ張り出し、黒に近いパンツを選ぶ。靴も少し悩んで、結局いちばん癖のないものにした。


 全部着てから、もう一度鏡を見る。


 さっきよりはましだ。


 でもまだ少し足りない。


 高い服が要るとか、そういう話ではない。顔に対して、服の選び方そのものが追いついていない感じがした。


「……難しいな」


 造形は触れば変わる。


 でも服は、クローゼットの中にあるもので何とかするしかない。


 その不自由さが少し面白くて、少し腹が立つ。


     ◇


 大学の正門をくぐった瞬間、やっぱり視線はあった。


 二人組の女子が会話を止める。少し向こうのベンチでも、誰かがこっちを見てからまた友達に何か言う。


 もう驚くほどではない。


 でも、胸の奥はちゃんと気持ちよかった。


 昨日、普通の顔でここを歩いたときとは全然違う。


 それだけで、世界の手触りまで少し変わって見える。


「やっぱり、これか」


 誰にも聞こえない声でつぶやいて、隆史は講義棟へ向かった。


 廊下の窓に映った自分の姿を見る。


 顔はいい。


 姿勢も悪くない。


 でも、やっぱり服が少し弱い。


 シャツは悪くないのに、全体で見るとまだ学生っぽさが残りすぎる。そこが逆に、顔の強さを浮かせている。


「惜しいんだよな……」


 そんなことを考えながら歩いている時点で、少し前の自分からしたら十分おかしかった。


     ◇


 講義室に入ると、斜め前の席の女子がすぐ気づいた。


「あ、おはよう」


「おはよう」


「今日ちょっと雰囲気違いません?」


 いきなりそ、と思う。


「そう?」


「この前より、少しにあってる」


「服じゃない?」


 適当に返すと、向こうは少し笑った。


「それです。服」


 図星だった。


 別の席の女子も会話に入ってくる。


「でも顔が強いから、何着てもそれっぽいですよね」


「それ褒めてる?」


「褒めてますよ」


 好き勝手言われる。


 隆史は笑って受け流しながら席に着いた。


 話しかけられるのは気分がいい。前なら絶対なかった反応だ。


 でも今日は、それだけじゃなかった。


 服の見え方が気になる。


 自分の袖。襟。肩の落ち方。


 たぶん、前より見られているからだ。見られる側になると、顔だけじゃなく全体のつり合いまで急に意識してしまう。


 その感覚は、少し新しかった。


     ◇


 授業が始まって二十分ほどで、腹の奥がじわっと薄くなった。


 来た、と思う。


 人体をいじるとこうなる。物を触ったときとは減り方が違う。もっと直接、自分の中身を持っていかれている感じがある。


 パンでは弱い。学食の軽いメニューではごまかせない。


 頭に浮かぶのは、噛んだときに繊維と脂があるものばかりだ。焼肉。唐揚げ。ソーセージ。ハンバーグ。


「……っ」


 小さく腹が鳴る。


 横の女子が一瞬だけ振り向きかけたが、気づかなかったふりをしてくれた。


 助かる。


 ノートを取るふりをしながら、隆史は早く昼になれと思った。教授の声は耳に入っているのに、頭には残らない。


 空腹そのものより、肉の映像がどんどんはっきりしてくる感じが嫌だった。


     ◇


 昼休み、学食へ入ると真っ先に肉の列を探した。


 焼肉丼。唐揚げ定食。生姜焼き。


 一瞬だけ迷って、今日は唐揚げ定食にした。


 トレーを持って席を探す。


 その途中で、少し離れた席に高田翔子を見つけた。


 友達と二人。地味な色の服。きっちりした髪。相変わらず目立たないのに、一度覚えるとすぐ分かる。


 翔子もこっちに気づいたらしい。


 一瞬だけ目が止まる。


 それからやっぱり、少し慌てたみたいに視線を落とした。


 まただ、と思う。


 近づいてはこない。

 でも、見ている。


 その見方が他の女子と少し違った。顔を見ているだけじゃなく、全体を拾っている感じがある。


 服の違和感まで見られていそうで、少しだけ居心地が悪い。


 けれど同時に、悪い気もしなかった。


 翔子の鞄の口から、今日も小さなスケッチブックの端が見えた。


「……やっぱり描いてんのかな」


 小さくつぶやく。


 その言葉は自分でもよく分からないまま消えた。


     ◇


 席に着いて唐揚げを口へ入れる。


 うまい。


 学食の唐揚げだ。衣は少し重いし、特別うまいわけでもない。けれど今の体にはちゃんと効く。


 一口。

 二口。

 三口。


 腹の奥のざらつきが、少しだけ静まる。


 そのとき、前に影が落ちた。


「ここ、いいですか?」


 この前の女子だった。


 断る理由もないのでうなずくと、向こうは自然に座った。さらに、もう一人来る。結局、今日もまた少し囲まれる形になる。


「やっぱり学食来るんですね」


「来るでしょ、普通」


「普通って感じしないですけど」


「何それ」


「なんか、外で高いランチしてそう」


 適当だなと思いつつ、少し笑う。


 昨日の普通の小野隆史なら、こういう会話は始まっていない。


 今日の自分だから起きている。


 全部、変身の力で手に入れた反応だ。


 そう思うと、胸のどこかがまた甘くなる。


「でも今日、前よりは、服に気をつけてますよね」


「さっきも言われた」


「服?」


「たぶん」


「その顔だと、逆に服が大変そう」


 また図星だった。


 隆史は思わず箸を止める。


「そう見える?」


「見える。イケメンすぎるから」


 言い方は雑なのに、感覚は合っている。


 この女、案外見るなと思う。


 それが少し面白くて、少しだけおそろしい。


     ◇


 午後の講義へ向かう廊下で、ガラスに映った自分をもう一度見た。


 顔。首。肩。シャツ。


 まだ足りない。


 でも、前よりは分かった気がする。


 宝塚隆史という顔は、ただ目立つだけじゃない。服まで選ばせる。立ち方まで変える。周りの反応まで変える。


 そこまで含めて、もう別の人間だった。


「普通の俺と、そうじゃない俺、か」


 昨日の夜に考えていた言葉が、また浮かぶ。


 どっちが本物なんだろうな、と一瞬だけ思う。


 でも、その答えはまだ出ない。


 普通の顔で松岡とくだらない話をしている時間も本当だ。こうして別の顔で見られている時間も本当だ。


 そして、どっちの自分も、もう簡単には捨てられない気がしていた。


     ◇


 帰り道、下宿へ向かう途中で服屋の前を通った。


 ショーウィンドウにマネキンが立っている。


 濃い色のシャツ。細いパンツ。軽いジャケット。値段は、学生には少し痛い。


 隆史は立ち止まってしばらく見た。


「……こういうのか」


 昨日までなら、たぶん素通りしていた。


 でも今日は違う。


 顔を変えると、欲しくなるものまで変わるのかもしれない。


 いや、違う。


 欲しいのは服そのものじゃない。あの顔に見合う全体の完成だ。


 そう考えた瞬間、自分で少し笑ってしまう。


「フィギュアかよ」


 でも、感覚としては近かった。


 頭部だけ完成度が高くても駄目だ。胴体、服、立ち方、全部がそろって初めて形になる。


 そう思ってしまうあたり、やっぱり自分は造形オタクなのだろう。


 店のガラスに映った自分を見て、隆史は少しだけ口元を上げた。


 顔だけ先に進んでしまった。


 だったら、服も追いつかせるしかない。


 そういう問題が増えていくのは面倒なはずなのに、少しだけ楽しかった。

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