普通の俺と、そうじゃない俺
月曜の朝、目が覚めたときには、もう普通の小野隆史に戻っていた。
天井を見たまま、しばらく動けない。
昨日の夜、麻衣の部屋を途中で出たときのことが、まだ頭のどこかに残っていた。
ソファの距離。
近づいたときの匂い。
あのまま、もう少しで何かが変わりそうだった空気。
「……危なかった」
小さくつぶやく。
何が危なかったのかは、自分でも少し分からない。
変身が解けることか。
麻衣に変なふうに思われることか。
それとも、自分が普通にその気になっていたことか。
たぶん全部だ。
布団から起き上がり、洗面台の鏡を見る。
そこにいるのは、いつもの顔だった。
見慣れた目元。少し頼りない輪郭。宝塚隆史のときみたいな強さはない。ホテルの制服を着ていた昨日の顔とは、やっぱり違う。
でも、その違いを見た瞬間、少しだけ安心もした。
「……今日はこれでいい」
自分に言い聞かせるみたいに言って、顔を洗う。
冷たい水で頭が少しだけはっきりした。
◇
学食で松岡の向かいに座ると、昨日までのホテルの空気が少し遠くなった。
トレーの上には、安い朝昼兼用みたいな定食がある。味噌汁、白飯、焼いた魚。地味だ。けれど、こういう地味さは大学の昼には合っている。
松岡はカレーを食いながら、いきなり言った。
「お前、今日さらに普通だな」
「何だよ、それ」
「先週はちょっとだけマシだったのに」
「褒めてないだろ」
「してない」
即答だった。
隆史は味噌汁をすすり、小さく息を吐く。
松岡といるときは、気を張らなくていい。宝塚隆史のときみたいに視線を意識しなくていいし、言葉の選び方も雑で済む。
その楽さが、今日は少しありがたかった。
「で、レポートやった?」
「やってない」
「終わったな」
「お前もだろ」
「俺もだ」
二人で笑う。
いつもの会話だ。
教授が眠いとか、単位がやばいとか、学食の味が変わらないとか、そんな話しかしない。けれど、このくだらなさが妙に落ち着く。
昨日の夜、年上の女の部屋で妙に緊張していた自分が、少しだけ馬鹿みたいに思えた。
「そういやさ」
松岡がカレーをかき込みながら言う。
「この前言ってた教育の子さ」
隆史の箸が、ほんの少しだけ止まる。
「……高田?」
「たぶんそれ」
「たぶんかよ」
「いや、名前うろ覚えだし」
松岡は気にした様子もなく続けた。
「なんか、お前のこと見てなかった?」
「は?」
「いや、気のせいかもだけど」
胸の奥が小さくざわつく。
「誰が」
「その教育の子。メガネの、地味な感じの」
「何で俺を見るんだよ」
「知らんよ。でも一回じゃなくて、前も何かそんな感じだった気がする」
松岡はスプーンを止めて、少しだけ考える顔をした。
「お前、どっかで接点あんじゃね?」
「ない」
答えが少し早かった気がして、隆史は内心だけ舌打ちした。
高田翔子。
学食で唐揚げをくれた子。
駅前でも見ていた子。
宝塚隆史の方を、まっすぐ見ていた子。
普通の小野隆史の自分を見ていたわけじゃない。
でも、松岡の言い方だと何かがつながりかけているようにも聞こえる。
「ふーん」
松岡は深く追及せず、またカレーを食い始めた。
「まあでも、ああいうのに見られるなら悪くなくね?」
「適当だな」
「お前は分かりやすい美人の方が好きそうだけど」
「雑に決めるな」
「図星か」
また適当なことを言って、松岡は笑う。
隆史も鼻で笑って流したが、頭の片隅には高田の視線が少し残った。
見ているだけ。
近づいてはこない。
でも、何かを拾っていそうな目。
あっちはあっちで、不思議な子だった。
◇
講義が始まると、いつもの教室はいつもの教室だった。
前の方でまじめにノートを取るやつ。後ろで半分寝てるやつ。スマホを机の下でいじるやつ。教授の声は相変わらず眠気を誘う。
普通の顔で座っていると、世界の反応も普通だった。
女子がちらちら見ることもない。昼を誘われることもない。名前を聞かれることもない。
それが当たり前だったはずなのに、今は少しだけ物足りなく感じてしまう自分がいた。
「……終わってるな」
小さく口の中だけでつぶやく。
普通の小野隆史として大学にいる。
それだけなら、べつに悪くない。
松岡と馬鹿を言えるし、講義中に気楽にあくびもできる。誰にも期待されていないぶん、変に疲れない。
でも、宝塚隆史として歩いたときの視線も、ちゃんと覚えてしまっている。
見られる感じ。
声をかけられる感じ。
世界が少しだけ甘くなる感じ。
それを知ってしまうと、普通でいるだけの日が少し薄く見える。
嫌な発見だった。
◇
昼休みの終わりごろ、廊下を歩いていると、少し先に高田翔子がいた。
友達と二人で歩いている。地味な色の服。きっちりまとめた髪。ぱっと見では目立たないのに、一度知ってしまうとすぐ分かる。
友達が何か言う。
翔子が小さく笑う。
その横顔を見た瞬間、ふと昨日の麻衣の顔が浮かんだ。
年上の女。強い。近い。慣れているようで、こっちの反応を楽しんでいる感じがある。
それに比べると、高田翔子はまるで別の種類だった。
近づいてこない。
でも、見ている。
そしてたぶん、見たものをどこかに残している。
翔子がふいにこっちへ気づいた。
目が合う。
一瞬だけ止まる。
それからやっぱり、少し慌てたみたいに目をそらした。
「……」
普通の顔だから、向こうは気づいていない。
そう思うと少し妙な気分になる。
同じ大学にいて、同じ廊下を歩いているのに、宝塚隆史のときとはまるで別人としてすれ違っている。
それは安全でもあるし、少しさびしくもあった。
翔子は友達と一緒にそのまま通り過ぎていく。
すれ違いざま、鞄の口から小さなスケッチブックみたいなものが少し見えた。
ああ、あの子は本当に何かを描いているのかもしれない、と隆史は思った。
◇
放課後、ひとりで帰り道を歩きながら、隆史はスマホを見た。
麻衣からの新しいメッセージは来ていない。
来ていなくて当然だ。
昨日、部屋に行って、肉を食って、いい感じになりかけて、途中で帰った。あっちからすれば意味が分からないだろうし、呆れられていてもおかしくない。
それなのに、自分は何となく画面を見ている。
「……何期待してんだよ」
小さくつぶやいて、スマホをポケットへ戻す。
昨日のことを忘れたいわけじゃない。
でも、思い出すと少し胃が重い。
惜しかった、という気持ちがある。
かなりある。
せっかくあそこまで行ったのに、という未練もある。
でもそれ以上に、あのままいたらまずかった、という感覚も残っていた。
変身が解ける。
その事実ひとつで、今の二重生活は簡単に壊れる。
麻衣はまだ何も知らない。
知らないままでいてほしい。
そう思うのに、次に会ったときどういう顔をすればいいのかは、もう分からなかった。
◇
下宿に戻ると、部屋は静かだった。
冷蔵庫を開ける。
中身は相変わらず心細い。
ただ、今日は普通の顔だ。人体造形の直後みたいな、体の奥を削られるような飢えはない。普通に飯を食って、普通に過ごせる。
その普通さに、少しだけほっとする。
けれど、安心と一緒に別のものもあった。
火曜になれば、また少し顔を触りたくなるかもしれない。
木曜になれば、また宝塚隆史で大学へ行きたくなるかもしれない。
週末になれば、ホテルの余り肉を思い出すかもしれない。
そこまで想像できてしまう自分がいた。
鏡の前に立つ。
いつもの小野隆史がいる。
宝塚隆史みたいな強さはない。
でも、何も知らずに暮らしていた頃よりは、少しだけ複雑な顔に見えた。
「普通に戻っただけなのにな」
ぽつりと言う。
戻ったはずだった。
顔も。大学も。松岡との会話も。日常も。
でも頭の中には、もう戻っていないものがいくつかあった。
麻衣の部屋の距離。
高田翔子の視線。
ホテルの余り肉。
見られる快感。
それを全部知ったあとで、ただの普通に戻るのは、思ったより難しい。
◇
ベッドに寝転がり、天井を見る。
今日は普通の顔で大学へ行った。
それだけなのに、妙に疲れた。
でも、その疲れの中に、少しだけ甘いものも混じっている。
昨日の夜の続きが、まだ頭のどこかに残っているからだ。
「……惜しかったな」
自分で言ってから、思わず片手で顔を覆う。
何を言っているんだ、と自分でも思う。
けれど、それが本音だった。
普通の俺と、そうじゃない俺。
そのどっちも、もう切り離せない気がしていた。
普通に戻った顔のまま、隆史はしばらく天井を見ていた。
次に大学で何をするのか。
次にホテルで麻衣とどう会うのか。
次に高田翔子が自分をどう見るのか。
まだ何も起きていない。
でも、もう前と同じ何も起きない日々には戻れない気がしていた。
◇
翌朝、目が覚めたとき、隆史は少しだけ迷った。
今日は何もしないで、普通のままで過ごすつもりだった。
大学へ行って、講義を受けて、松岡とどうでもいい話をして、それで帰る。
それでいいはずだった。
でも、洗面台の前に立って鏡を見ると、その考えは少しだけ揺らぐ。
そこにいるのは、いつもの小野隆史だ。
見慣れた顔。安心できる顔。昨日までの生活なら、これで何も困らなかった顔。
なのに今は、それを見ていると少しだけ物足りない。
「……別に、いいだろ」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
指が、無意識に頬へ触れた。
粘土みたいに少しだけ形が動く。もう慣れた感覚だった。
少しだけのつもりだった。
でも、鏡の中の顔が変わり始めると、止めどころが分からなくなる。
頬骨の出方をほんの少し抑える。
鼻筋をまっすぐに通す。
顎の角を少しだけ整える。
目元も少し締めたくなる。
輪郭だけ整っていても、首と顎がつながらないと気持ち悪い。
「……いや」
隆史は一度だけ手を止めた。
少しだけ、じゃない。
どうせやるなら、ちゃんとやりたい。
中途半端な顔で外に出る方が、今の自分にはよっぽど気持ち悪かった。
そう思った瞬間、もう止まらなかった。
鏡の中には、普通の小野隆史はいなかった。
宝塚隆史。
自分でそう呼んでいる顔が、そこにある。
鼻筋が通っている。顎の線がきれいに落ちている。目元の圧が少しだけ強い。首が長く見えて、肩の線も前よりましだった。
見れば見るほど、昨日の服装が頭に浮かぶ。
Tシャツ。安いパーカー。よくある学生のズボン。
「……合ってねえな」
思わず口に出る。
この顔に、その服は弱すぎた。
安っぽいというほどではない。普通だ。普通の大学生ならそれで何もおかしくない。
でも今の顔は、普通の服を着ると逆に浮く。
顔だけ妙に目立って、全体のつり合いが崩れる。
フィギュアで言えば、頭部だけ作り込みすぎて胴体が追いついていない感じだ。
「顔に服が負けてる……」
自分で言って、少しだけ笑ってしまう。




