表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/53

普通の俺と、そうじゃない俺

 月曜の朝、目が覚めたときには、もう普通の小野隆史に戻っていた。


 天井を見たまま、しばらく動けない。


 昨日の夜、麻衣の部屋を途中で出たときのことが、まだ頭のどこかに残っていた。


 ソファの距離。


 近づいたときの匂い。


 あのまま、もう少しで何かが変わりそうだった空気。


「……危なかった」


 小さくつぶやく。


 何が危なかったのかは、自分でも少し分からない。


 変身が解けることか。


 麻衣に変なふうに思われることか。


 それとも、自分が普通にその気になっていたことか。


 たぶん全部だ。


 布団から起き上がり、洗面台の鏡を見る。


 そこにいるのは、いつもの顔だった。


 見慣れた目元。少し頼りない輪郭。宝塚隆史のときみたいな強さはない。ホテルの制服を着ていた昨日の顔とは、やっぱり違う。


 でも、その違いを見た瞬間、少しだけ安心もした。


「……今日はこれでいい」


 自分に言い聞かせるみたいに言って、顔を洗う。


 冷たい水で頭が少しだけはっきりした。


     ◇


 学食で松岡の向かいに座ると、昨日までのホテルの空気が少し遠くなった。


 トレーの上には、安い朝昼兼用みたいな定食がある。味噌汁、白飯、焼いた魚。地味だ。けれど、こういう地味さは大学の昼には合っている。


 松岡はカレーを食いながら、いきなり言った。


「お前、今日さらに普通だな」


「何だよ、それ」


「先週はちょっとだけマシだったのに」


「褒めてないだろ」


「してない」


 即答だった。


 隆史は味噌汁をすすり、小さく息を吐く。


 松岡といるときは、気を張らなくていい。宝塚隆史のときみたいに視線を意識しなくていいし、言葉の選び方も雑で済む。


 その楽さが、今日は少しありがたかった。


「で、レポートやった?」


「やってない」


「終わったな」


「お前もだろ」


「俺もだ」


 二人で笑う。


 いつもの会話だ。


 教授が眠いとか、単位がやばいとか、学食の味が変わらないとか、そんな話しかしない。けれど、このくだらなさが妙に落ち着く。


 昨日の夜、年上の女の部屋で妙に緊張していた自分が、少しだけ馬鹿みたいに思えた。


「そういやさ」


 松岡がカレーをかき込みながら言う。


「この前言ってた教育の子さ」


 隆史の箸が、ほんの少しだけ止まる。


「……高田?」


「たぶんそれ」


「たぶんかよ」


「いや、名前うろ覚えだし」


 松岡は気にした様子もなく続けた。


「なんか、お前のこと見てなかった?」


「は?」


「いや、気のせいかもだけど」


 胸の奥が小さくざわつく。


「誰が」


「その教育の子。メガネの、地味な感じの」


「何で俺を見るんだよ」


「知らんよ。でも一回じゃなくて、前も何かそんな感じだった気がする」


 松岡はスプーンを止めて、少しだけ考える顔をした。


「お前、どっかで接点あんじゃね?」


「ない」


 答えが少し早かった気がして、隆史は内心だけ舌打ちした。


 高田翔子。


 学食で唐揚げをくれた子。


 駅前でも見ていた子。


 宝塚隆史の方を、まっすぐ見ていた子。


 普通の小野隆史の自分を見ていたわけじゃない。


 でも、松岡の言い方だと何かがつながりかけているようにも聞こえる。


「ふーん」


 松岡は深く追及せず、またカレーを食い始めた。


「まあでも、ああいうのに見られるなら悪くなくね?」


「適当だな」


「お前は分かりやすい美人の方が好きそうだけど」


「雑に決めるな」


「図星か」


 また適当なことを言って、松岡は笑う。


 隆史も鼻で笑って流したが、頭の片隅には高田の視線が少し残った。


 見ているだけ。


 近づいてはこない。


 でも、何かを拾っていそうな目。


 あっちはあっちで、不思議な子だった。


     ◇


 講義が始まると、いつもの教室はいつもの教室だった。


 前の方でまじめにノートを取るやつ。後ろで半分寝てるやつ。スマホを机の下でいじるやつ。教授の声は相変わらず眠気を誘う。


 普通の顔で座っていると、世界の反応も普通だった。


 女子がちらちら見ることもない。昼を誘われることもない。名前を聞かれることもない。


 それが当たり前だったはずなのに、今は少しだけ物足りなく感じてしまう自分がいた。


「……終わってるな」


 小さく口の中だけでつぶやく。


 普通の小野隆史として大学にいる。


 それだけなら、べつに悪くない。


 松岡と馬鹿を言えるし、講義中に気楽にあくびもできる。誰にも期待されていないぶん、変に疲れない。


 でも、宝塚隆史として歩いたときの視線も、ちゃんと覚えてしまっている。


 見られる感じ。


 声をかけられる感じ。


 世界が少しだけ甘くなる感じ。


 それを知ってしまうと、普通でいるだけの日が少し薄く見える。


 嫌な発見だった。


     ◇


 昼休みの終わりごろ、廊下を歩いていると、少し先に高田翔子がいた。


 友達と二人で歩いている。地味な色の服。きっちりまとめた髪。ぱっと見では目立たないのに、一度知ってしまうとすぐ分かる。


 友達が何か言う。


 翔子が小さく笑う。


 その横顔を見た瞬間、ふと昨日の麻衣の顔が浮かんだ。


 年上の女。強い。近い。慣れているようで、こっちの反応を楽しんでいる感じがある。


 それに比べると、高田翔子はまるで別の種類だった。


 近づいてこない。


 でも、見ている。


 そしてたぶん、見たものをどこかに残している。


 翔子がふいにこっちへ気づいた。


 目が合う。


 一瞬だけ止まる。


 それからやっぱり、少し慌てたみたいに目をそらした。


「……」


 普通の顔だから、向こうは気づいていない。


 そう思うと少し妙な気分になる。


 同じ大学にいて、同じ廊下を歩いているのに、宝塚隆史のときとはまるで別人としてすれ違っている。


 それは安全でもあるし、少しさびしくもあった。


 翔子は友達と一緒にそのまま通り過ぎていく。


 すれ違いざま、鞄の口から小さなスケッチブックみたいなものが少し見えた。


 ああ、あの子は本当に何かを描いているのかもしれない、と隆史は思った。


     ◇


 放課後、ひとりで帰り道を歩きながら、隆史はスマホを見た。


 麻衣からの新しいメッセージは来ていない。


 来ていなくて当然だ。


 昨日、部屋に行って、肉を食って、いい感じになりかけて、途中で帰った。あっちからすれば意味が分からないだろうし、呆れられていてもおかしくない。


 それなのに、自分は何となく画面を見ている。


「……何期待してんだよ」


 小さくつぶやいて、スマホをポケットへ戻す。


 昨日のことを忘れたいわけじゃない。


 でも、思い出すと少し胃が重い。


 惜しかった、という気持ちがある。


 かなりある。


 せっかくあそこまで行ったのに、という未練もある。


 でもそれ以上に、あのままいたらまずかった、という感覚も残っていた。


 変身が解ける。


 その事実ひとつで、今の二重生活は簡単に壊れる。


 麻衣はまだ何も知らない。


 知らないままでいてほしい。


 そう思うのに、次に会ったときどういう顔をすればいいのかは、もう分からなかった。


     ◇


 下宿に戻ると、部屋は静かだった。


 冷蔵庫を開ける。


 中身は相変わらず心細い。


 ただ、今日は普通の顔だ。人体造形の直後みたいな、体の奥を削られるような飢えはない。普通に飯を食って、普通に過ごせる。


 その普通さに、少しだけほっとする。


 けれど、安心と一緒に別のものもあった。


 火曜になれば、また少し顔を触りたくなるかもしれない。


 木曜になれば、また宝塚隆史で大学へ行きたくなるかもしれない。


 週末になれば、ホテルの余り肉を思い出すかもしれない。


 そこまで想像できてしまう自分がいた。


 鏡の前に立つ。


 いつもの小野隆史がいる。


 宝塚隆史みたいな強さはない。


 でも、何も知らずに暮らしていた頃よりは、少しだけ複雑な顔に見えた。


「普通に戻っただけなのにな」


 ぽつりと言う。


 戻ったはずだった。


 顔も。大学も。松岡との会話も。日常も。


 でも頭の中には、もう戻っていないものがいくつかあった。


 麻衣の部屋の距離。


 高田翔子の視線。


 ホテルの余り肉。


 見られる快感。


 それを全部知ったあとで、ただの普通に戻るのは、思ったより難しい。


     ◇


 ベッドに寝転がり、天井を見る。


 今日は普通の顔で大学へ行った。


 それだけなのに、妙に疲れた。


 でも、その疲れの中に、少しだけ甘いものも混じっている。


 昨日の夜の続きが、まだ頭のどこかに残っているからだ。


「……惜しかったな」


 自分で言ってから、思わず片手で顔を覆う。


 何を言っているんだ、と自分でも思う。


 けれど、それが本音だった。


 普通の俺と、そうじゃない俺。


 そのどっちも、もう切り離せない気がしていた。


 普通に戻った顔のまま、隆史はしばらく天井を見ていた。


 次に大学で何をするのか。


 次にホテルで麻衣とどう会うのか。


 次に高田翔子が自分をどう見るのか。


 まだ何も起きていない。


 でも、もう前と同じ何も起きない日々には戻れない気がしていた。


     ◇


 翌朝、目が覚めたとき、隆史は少しだけ迷った。


 今日は何もしないで、普通のままで過ごすつもりだった。


 大学へ行って、講義を受けて、松岡とどうでもいい話をして、それで帰る。


 それでいいはずだった。


 でも、洗面台の前に立って鏡を見ると、その考えは少しだけ揺らぐ。


 そこにいるのは、いつもの小野隆史だ。


 見慣れた顔。安心できる顔。昨日までの生活なら、これで何も困らなかった顔。


 なのに今は、それを見ていると少しだけ物足りない。


「……別に、いいだろ」


 誰に言うでもなく、小さくつぶやく。


 指が、無意識に頬へ触れた。


 粘土みたいに少しだけ形が動く。もう慣れた感覚だった。


 少しだけのつもりだった。


 でも、鏡の中の顔が変わり始めると、止めどころが分からなくなる。


 頬骨の出方をほんの少し抑える。


 鼻筋をまっすぐに通す。


 顎の角を少しだけ整える。


 目元も少し締めたくなる。


 輪郭だけ整っていても、首と顎がつながらないと気持ち悪い。


「……いや」


 隆史は一度だけ手を止めた。


 少しだけ、じゃない。


 どうせやるなら、ちゃんとやりたい。


 中途半端な顔で外に出る方が、今の自分にはよっぽど気持ち悪かった。


 そう思った瞬間、もう止まらなかった。


 鏡の中には、普通の小野隆史はいなかった。


 宝塚隆史。


 自分でそう呼んでいる顔が、そこにある。


 鼻筋が通っている。顎の線がきれいに落ちている。目元の圧が少しだけ強い。首が長く見えて、肩の線も前よりましだった。


 見れば見るほど、昨日の服装が頭に浮かぶ。


 Tシャツ。安いパーカー。よくある学生のズボン。


「……合ってねえな」


 思わず口に出る。


 この顔に、その服は弱すぎた。


 安っぽいというほどではない。普通だ。普通の大学生ならそれで何もおかしくない。


 でも今の顔は、普通の服を着ると逆に浮く。


 顔だけ妙に目立って、全体のつり合いが崩れる。


 フィギュアで言えば、頭部だけ作り込みすぎて胴体が追いついていない感じだ。


「顔に服が負けてる……」


 自分で言って、少しだけ笑ってしまう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ