麻衣はまだ知らない
あの顔は、やっぱり反則だと思う。
麻衣はアパートの階段を上がりながら、少しだけ後ろを振り返った。
ついてきている。
ホテルの制服から私服に着替えたあとでも、その男はまだ目立っていた。派手ではないのに、妙に視線を引く。鼻筋だの首の長さだの、そういう細かいところが全部ちょうどよく整っていて、歩いているだけで少し浮く。
さっき厨房で見たときより、今の方が余計にそう見えた。
肉をラップで包んで、こっそりバッグに入れようとしていたくせに。
やっていることは地味というか、みみっちいというか、正直ちょっと笑えるくらいなのに、見た目だけは無駄にちゃんとしている。
「……ほんと、何なの」
小さくつぶやく。
もちろん、後ろの小野には聞こえないくらいの声だ。
アパートの二階、角の部屋。
麻衣は鍵を開けて、ドアを押し開けた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
ちゃんとそう言って入ってくるあたり、妙に律儀だった。
麻衣は靴を脱ぎながら、少しだけ笑いそうになる。
肉をくすねようとしていた男が、こういうところだけ妙にまともだ。
◇
部屋に入ると、小野はあからさまに少し緊張していた。
無理もない。
職場の年上の女の部屋に、夜、二人きりで入る。
状況だけ見れば、かなり落ち着かないはずだ。
麻衣はバッグをソファの横に置いて、冷蔵庫を開けた。
「座っててください」
「はい」
返事も素直だ。
こういうところが余計に変だった。
ホテルの会場にいるときは、見た目のせいもあってそれなりに場に馴染んでいる。客の視線も集まるし、スタッフの女の子も少し浮つく。
でも中身は、思っていたよりずっと普通の大学生っぽい。
いや、普通なら肉をくすねて持ち帰ろうとはしないか。
そこだけは普通じゃない。
「ビール飲みます?」
「いや、大丈夫です」
「じゃあお茶でいいですか」
「はい」
冷蔵庫から麦茶を出して、二つのコップに注ぐ。
麻衣はそのついでに、作り置きの皿も取り出した。
ハム。ソーセージ。少しだけ残っていたローストビーフ。
ホテルから持ち帰ったものではない。自分で買ったやつだ。
皿に並べて、テーブルへ置く。
小野の目が、一瞬でそっちに吸われた。
分かりやすい。
「食べます?」
「……いいんですか」
「その顔で遠慮されるとちょっと面白いですね」
そう言うと、小野は少しだけ困った顔をした。
整った顔でそういう反応をされると、確かに反則だと思う。
「いただきます」
小野はそう言って、ソーセージを一本取った。
口へ入れる。
噛む。
その瞬間、顔つきが少し変わった。
安心したみたいに、わずかに力が抜ける。
麻衣はそれを見て、ふっと眉を上げた。
「そんなに腹減ってたんですか」
「……まあ」
「ホテルでも結構食べてましたよね」
「すみません」
「何でまた謝るんですか」
「いや、なんか……」
そこで言葉が切れる。
気まずいんだろうな、と麻衣は思った。
そりゃそうだ。肉を持ち帰ろうとして見つかったその日のうちに、その先輩の部屋でまた肉を食っている。冷静に考えると、かなり変な状況だ。
でも、小野はもう一本ソーセージを食べた。
次にハムへいく。
その食べ方には、がっついているというほどの下品さはない。
ただ、明らかに体がそれを求めていた。
「小野くんって、そんなに肉好きなんですか」
何気なく聞く。
小野の手が、ほんの少しだけ止まった。
「……最近、ちょっと」
「ちょっと?」
「前より食べたくなるっていうか」
「成長期ですか」
「大学二年です」
即答で返ってきて、麻衣は笑った。
そういう返しはできるんだ、と思う。
小野は照れたみたいに視線をそらし、またローストビーフへ箸を伸ばした。
食べる。
噛む。
飲み込む。
そのたびに、顔の緊張が少しずつ抜けていく。
それが妙に印象に残った。
この男は、見た目ほど余裕がない。
むしろかなり分かりやすい。
分かりやすいのに、顔だけはちゃんとできている。
だから余計に面白い。
◇
「で」
麻衣はコップを持ったまま、小野を見る。
「何で持って帰ろうとしたんですか」
その一言で、小野の肩が固くなった。
やっぱりそうなるか、と思う。
逃がす気はない。
ただ怒鳴りたいわけでもない。
単純に気になっていた。
余りものをその場でつまむスタッフはいる。料理長も黙認している。けれど、ラップで包んでバッグに入れようとするのは、さすがに別だ。
それを、この見た目の男がやっていた。
そのちぐはぐさが気にならないはずがなかった。
「……金、なくて」
小野は少し黙ってから、そう言った。
麻衣は瞬きを一つする。
「金?」
「食費、ちょっときつくて」
「だから肉?」
「……はい」
間が抜けているようで、でも嘘をついている感じではない。
麻衣は腕を組む。
「別にパンでもカップ麺でもよくないですか」
「よくないです」
そこだけ、妙にはっきり返ってきた。
麻衣は少し笑いそうになる。
「何で」
「何でって……」
小野はそこで困った顔をした。
言葉にできないらしい。
でも、言えないなりに何とかしようとする顔はしている。
「最近、なんか……肉じゃないと落ち着かないんです」
「それ、だいぶ変ですよ」
「自分でも分かってます」
「じゃあやめた方がいいです」
「……はい」
返事は素直だ。
でも、素直に返事をしたからといって本当にやめる顔ではない、と麻衣は何となく思った。
切羽詰まっているというほどでもない。
かといって、軽い出来心だけでもなさそうだ。
食費がない。
肉が欲しい。
だから持ち帰る。
理屈は単純だ。
単純なのに、その欲しがり方だけが少し異様だった。
「お好み焼き屋でも食べられるでしょ」
「食べられますけど」
「けど?」
「腹はふくれるんですけど、違うんです」
「何が」
「……分かんないです」
そこで本当に分からない顔をするから、麻衣は少しだけ黙った。
この男は、何かを隠している。
そこまでは分かる。
でも、それが何なのかはまだ見えない。
金がないだけでは説明しきれない何かがある。
けれど、それを今ここで全部暴こうという気にはならなかった。
「まあ、とりあえず」
麻衣はローストビーフの皿を少し押す。
「食べてください」
「……ありがとうございます」
「それと、次から持ち帰るなら、もうちょっと上手くやった方がいいです」
言った瞬間、小野が固まった。
「え」
「え、じゃないです。あんな分かりやすくラップ持ってたらすぐ見つかります」
「いや、あの」
「やるなとは言ってますよ」
「はい」
「でもやるなら雑すぎます」
麻衣がそう言うと、小野はますます微妙な顔をした。
怒られているのか、助けられているのか分からない顔だ。
その反応が少し可笑しくて、麻衣は笑った。
「冗談です」
「……どっちですか」
「半分くらい」
「怖いです」
その返しに、麻衣はまた笑う。
年上の女の部屋で、肉泥棒の話をして、半分脅されているのに、こういうやり取りができる時点で、だいぶ変な空気だ。
でも悪くなかった。
◇
肉を食べて、麦茶を飲んで、少し話すうちに、小野の緊張は目に見えて解けていった。
ソファの端に硬く座っていたのが、いつの間にか少しだけ力を抜いている。
顔つきも、最初に入ってきたときより柔らかい。
「やっと人っぽくなりましたね」
「最初そんな死んでました?」
「かなり」
「まじですか」
「まじです」
麻衣はそう言いながら、自分の分のハムを一枚食べた。
小野はローストビーフへ手を伸ばす。
食べるたび、どこか安心していくのが分かる。
それが面白くて、つい見てしまう。
「小野くんって、彼女いるんですか」
何となく聞いてみる。
すると、分かりやすく小野がむせた。
「いないです」
「即答」
「いるように見えます?」
そう返してくるところが、少しだけ拗ねたみたいで可笑しい。
麻衣は視線を上から下まで一度流す。
「今の見た目なら、まあ」
「今の、って」
「その顔、ずるいですよね」
はっきり言うと、小野は黙った。
困ったような、照れたような顔をする。
整っているのに、そういう表情が妙に素直だ。
そのギャップが、また反則だった。
「……見た目だけです」
「そうでもないと思いますけど」
「いや、ほんとに」
「ふーん」
麻衣はそこで話を切った。
それ以上いじると、本気で困らせそうだったからだ。
でも、困っている顔も少し見てみたくなる。
そのくらいには、もう面白くなっていた。
◇
気づけば、ソファの距離が少しだけ縮んでいた。
最初はテーブル越しだった。
それが、皿を真ん中に寄せて、コップを置き直して、話をしているうちに、いつの間にか同じソファに並ぶ形になっていた。
麻衣はそこで初めて、そのことを意識した。
近い。
小野の肩までの距離が、思っていたよりない。
柔軟剤か、シャンプーか、よく分からない清潔な匂いが少しする。
そのくせ、男の体温もちゃんとある。
「……緊張してます?」
麻衣が聞くと、小野は少しだけ黙った。
「してます」
「正直ですね」
「さっきからそればっか言われてません?」
「そうでしたっけ」
「そうです」
小さい声で返してくる。
その返し方が妙にかわいくて、麻衣は思わず口元をゆるめた。
小野がそれに気づいて、少しだけ視線をそらす。
顔は強いのに、中身はこういうふうに逃げる。
それが余計に距離を縮める。
「ねえ」
麻衣は少しだけ身体を寄せる。
「今日、ほんとは怒られると思ってました?」
「……はい」
「怖かった?」
「かなり」
「今は?」
そこで、小野は言葉に詰まった。
視線が泳ぐ。
喉が少し動く。
それだけで答えになっていた。
麻衣はその反応を見て、少しだけ楽しくなる。
からかっている自覚はあった。
でも、完全にそれだけでもない。
この男がどういう顔をするのか、もっと近くで見てみたい気持ちがあった。
宝塚みたいな顔で、こんなふうに困るのはずるい。
麻衣は小野の肩に軽く手を置いた。
その瞬間、小野の身体がぴくっと強張る。
「ほんと分かりやすい」
小さく笑うと、小野が困ったようにこっちを見る。
近い。
目元の線も、鼻筋も、やっぱりきれいだ。
ホテルの照明じゃなく、安アパートの部屋の明かりで見ても、それは変わらない。
麻衣は少しだけ、顔を寄せた。
小野も逃げない。
逃げないけれど、完全に慣れている感じでもない。
その不安定さが、逆に空気を濃くする。
あと少しで、何かが変わる。
そう思ったところで、小野の呼吸が少し乱れた。
「……どうしたの?」
麻衣が小さく聞く。
小野は何か言いかけて、やめた。
顔色がほんの少し変わっている。
さっきまでとは別の意味で、余裕がないように見えた。
「すみません」
「またそれ?」
「いや、あの……」
小野は視線を伏せる。
それから、かなり言いにくそうに言った。
「そろそろ帰った方がいいかもしれないです」
「え?」
予想外だった。
麻衣は思わず目を瞬く。
小野の方も、言ったあとで自分が何を言っているのか分からなくなったみたいな顔をしている。
「何、急に」
「……ちょっと」
「ちょっと何ですか」
「うまく説明できないです」
それが嘘ではないのは分かった。
帰りたいというより、帰らないとまずい、みたいな顔をしている。
さっきまでの緊張とは違う。
もっと切羽詰まった、別の焦り。
麻衣はそこでようやく、小野がただ照れているだけではないことに気づいた。
「体調悪い?」
「いや、そういうんじゃ」
「じゃあ何」
聞いても、小野は答えない。
答えられない、という方が近そうだった。
麻衣は少しだけ黙って、その顔を見る。
整った顔。
でも今は、その整い方の下で何かを必死に隠している感じがある。
何かある。
でも、それが何なのかはまだ分からない。
そこまで追い詰めたいわけでもなかった。
「……分かりました」
麻衣は手を引く。
「今日は帰ります?」
「すみません」
「だから謝りすぎです」
小さくそう返すと、小野は少しだけ苦い顔で笑った。
その笑い方に、逆に少しだけ胸が引っかかる。
惜しい、と思った。
何が惜しいのかは、自分でも少し曖昧だったけれど。
◇
玄関まで見送るとき、小野は靴を履きながらもう一度だけ「すみません」と言った。
「ほんとにそれ好きですね」
「好きじゃないです」
「じゃあやめてください」
「……はい」
返事は素直だ。
麻衣はドアにもたれたまま、小野を見る。
「今日のこと、料理長には言いません」
そう言うと、小野の肩から目に見えて力が抜けた。
「ありがとうございます」
「でも、次やるならもう少しうまくやってください」
「やる前提なんですか」
「冗談です」
「絶対半分本気ですよね」
「どうでしょう」
麻衣が笑うと、小野は困った顔をした。
その顔のまま帰っていくのを見送る。
ドアが閉まる。
部屋が静かになる。
麻衣はそこでようやく、深く息を吐いた。
「……何なんだろ、あの子」
肉を盗もうとする。
見た目は反則みたいに整っている。
なのに中身は妙に素直で、変なところで真面目だ。
しかも、さっきはあの空気のところで自分から引いた。
慣れていないのか、事情があるのか、それとも本当にただの変な大学生なのか。
分からない。
でも、少しだけ興味は増えた。
テーブルの上には、食い終わった皿がある。
ソファには、さっきまで小野が座っていた気配がまだ少し残っている。
麻衣はそこを見ながら、小さく笑った。
あの顔で、あの反応はずるい。
ほんの少し前まで、キスくらいならしてもいいかと思っていた自分を思い出して、麻衣は冷蔵庫の扉を開けた。
「……危ないの、どっちだろ」
自分でもよく分からないまま、残りの麦茶をコップに注ぐ。
部屋はもう静かだった。




