肉泥棒、見つかる
次の土曜、ホテルへ向かう電車の窓に映る自分を見て、隆史は一度だけ目を細めた。
今日も、宝塚隆史の顔だった。
鼻筋を通し、目元を少し締め、首を長く見せてある。ホテルの空気に合わせた、少し整いすぎた男の顔。
朝の車窓に映ると、それが余計に現実味をなくして見えた。
「……やめときゃいいのに」
小さくつぶやく。
何を、とは言わなくても分かっている。
ホテルのシフト自体はやめる理由がない。時給はいいし、制服も似合うし、会場に立てば見られる。そこまではいい。
問題は、その先だ。
厨房の余り肉を思い出している。
しかも、ただ思い出しているだけじゃない。今日の終わりにどう動くか、ぼんやり計算している自分がいる。
余りの量。
人の流れ。
ラップの位置。
バッグの脇ポケット。
「……終わってるな」
今さらすぎる言葉を吐いて、窓から目をそらす。
それでも、電車はいつものように駅へ着く。
隆史はホームへ降りて、ホテルへ向かった。
◇
ロビーへ入ると、今日も空気が違う。
磨かれた床。花の匂い。低い照明。抑えた声。
こういう場所に来ると、自分の作った顔が一段ちゃんとしたものに思えてくる。
更衣室で制服に着替える。
白いシャツ。黒いベスト。黒いパンツ。
鏡の前に立つと、やはりよく似合う。
自分で作った顔と、自分で選んだ立ち方が、ここではちゃんと効いている。
「おはようございます」
更衣室を出て、会場側へ向かいながら挨拶する。
先輩が振り返って「おはよう」と返す。別の女性スタッフが一瞬だけこちらを見て、それから軽く笑う。
そういう小さい反応が、今日もちゃんとある。
効いてるな、と思う。
効いていると思うたび、少し気分がいい。
だから余計に厄介だった。
気分がよくなれば、この顔を使う理由が増える。
この顔を使えば、また減る。
減れば、また肉を欲しがる。
全部つながっている。
「小野、そっち手伝って」
「はい」
返事をして、テーブルの位置を整える。
白いクロスを引き、グラスを置き、皿の角度を合わせる。
仕事自体は嫌いじゃない。細かい位置や見え方を揃えていく作業は、フィギュアを飾るときに似ていて案外性に合っていた。
だからこそ、余計なことまでうまく回ってしまう。
仕事もできる。見た目も通る。肉もある。
それが全部同じ場所にあるのが、あまりにも都合がよかった。
◇
披露宴が始まると、客席側からの視線が今日もあった。
新婦の友人らしい女の子たちが、料理より先にこっちを見てくる。
料理を運べば一瞬だけ目が合う。
下げ物に回れば、またちらっと見られる。
気のせいじゃない。
こういうのは、普通の隆史では起こらない。
胸のどこかが少し浮く。
同時に、腹の奥もじわじわ減っていく。
今日は朝から顔を整えている。首も肩も少し触ってある。だから来るのは分かっていた。
問題は、その欲求が思っていたより早く、思っていたよりはっきり来たことだった。
肉。
頭に浮かぶのが、その一語になる。
運ばれていく皿に、いちいち反応してしまう。
ローストビーフ。チキン。ハム。ソーセージ。
皿の上の肉が、妙に鮮明に見える。
食いたい。
かなり食いたい。
唾を飲み込みながら笑顔を作るのが、少しきつかった。
「小野、大丈夫?」
隣を通った先輩に聞かれる。
「大丈夫です」
反射的にそう返したが、あまり大丈夫ではなかった。
肉が目に入る。
皿が下がるのを待ってしまう。
終わったあとの厨房のことを考えてしまう。
そこまで来ると、もうかなりまずい。
◇
披露宴が終わったあと、先輩に厨房の手伝いへ回された。
「残り片づけるから、皿運んで」
「はい」
会場と違って、厨房は熱気と音で満ちている。
皿のぶつかる音。湯気。短い指示。ステンレス台を打つ手の音。
その中で、余り料理がまとめられていく。
ローストビーフ。
ハム。
ソーセージ。
チキン。
今日もちゃんと肉があった。
料理長が、こっちを見もせずに言う。
「食うなら邪魔にならん範囲で食っとけ」
「はい」
その一言で、腹の奥が少しだけ軽くなる。
皿を運びながら、隙を見て肉を口へ入れる。
うまい。
やっぱり、これだ。
冷めていても関係ない。体の奥へ落ちる感じが、ほかと全然違う。
もう一枚。
ソーセージも食う。
ハムも食う。
それでも、全部は食えない。
部屋へ帰れば、また減る。
明日の朝まで持つ保証はない。
だったら――
その先の思考が、前より自然に出てくる。
ラップの場所は知っている。
人の流れも見えている。
どこで視線が切れるかも、何となく分かる。
それが一番まずかった。
「小野、それ下げて」
「はい」
返事をしながら皿を動かす。
視線だけで周りを見る。
料理長は奥。
先輩はシンク側。
もう一人はワゴンを押して外。
ほんの少しだけ、死角ができる。
今だ、と思ってしまった。
その時点で、もうかなり駄目だった。
隆史はラップを引く。
手つきは前より速かった。
ローストビーフを数枚。ハムを少し。ソーセージを二本。
量は控えめにする。
欲張ると目立つ。
そんな計算まで、もう自然に頭へ浮かぶ。
「……っ」
喉が乾く。
心臓は速い。
それでも手は止まらない。
包んだ肉をバッグの脇ポケットへ滑り込ませる。
すぐに皿へ手を戻す。
何でもない顔で次の皿を持つ。
たったそれだけなのに、背中に汗が出た。
ばれたかもしれない。
いや、今のところ誰も何も言わない。
料理長も、先輩も、普通に動いている。
だったら大丈夫か。
いや、大丈夫なわけがない。
でも今さら戻せない。
そのあともしばらく、隆史は必要以上に真面目に皿を運んだ。
手を止めない。
視線を泳がせない。
呼吸だけ整える。
心臓はずっと速かった。
◇
更衣室でバッグを開いたとき、そこに肉があるのを見て、妙な実感が出た。
本当に持ってきてしまった。
ローストビーフ。
ハム。
ソーセージ。
量は多くない。
でも、部屋へ持って帰るには十分だった。
「……やったのか、俺」
小さく口に出す。
うれしいわけじゃない。
誇らしくもない。
むしろ、少し引いた。
なのに、バッグを閉じる手は止まらなかった。
ホテルを出て、駅まで歩く。
脇ポケットの中身が、やけに重く感じる。
誰かに呼び止められる気がした。
後ろから「ちょっと」と声が飛ぶ気がした。
でも何もなかった。
そのまま改札を通り、電車に乗り、下宿へ帰る。
玄関のドアを閉めた瞬間、ようやく息が出た。
バッグから肉を出して、机の上に並べる。
たったこれだけなのに、冷蔵庫の中身よりずっと強く見えた。
隆史はローストビーフを一枚つまんで、口へ入れた。
うまい。
やっぱり、これだ。
ホテルで食ったときと同じように、腹の奥のざらつきが静まる。
もう一枚。
ソーセージ。
ハム。
止まらない。
「……これ、反則だろ」
誰に言うでもなくつぶやく。
金を払っていない。
見つかっていない。
部屋で食える。
体は楽になる。
条件だけ見れば、あまりにも都合がいい。
都合がよすぎて、まずい。
まずいのに、口と手が止まらない。
その夜、持ち帰った肉はほとんどなくなった。
少しだけ残して明日へ回そうと思ったが、結局それも食ってしまった。
腹の奥がようやく静かになるころには、時計はだいぶ進んでいた。
ベッドに倒れ込み、天井を見る。
「……最悪だな」
そう言った声に、あまり力はなかった。
最悪だと思っている。
でも、助かったのも本当だ。
その二つが同時にあるのが、自分でも嫌だった。
◇
日曜の朝、目が覚めると、昨日の夜ほどではないが、また少し腹が減っていた。
冷蔵庫の中には、何も残っていない。
隆史はしばらく黙って、その空っぽを見ていた。
「……行くか」
自分に言うようにつぶやく。
今日は持ち帰らない。
そう決める。
昨日は、たまたまだ。
初回で、ちょっと切羽詰まっていて、頭がおかしくなっていただけだ。
今日は普通に働く。
余りはその場で少し食うだけ。
それで終わり。
そうやって言い聞かせながら、また鏡の前で顔を作る。
鼻筋を通す。
首を少し長く見せる。
目元を締める。
ホテルへ行くための、宝塚隆史の顔。
鏡の中には、もう普通の小野隆史はいなかった。
「……よし」
小さくつぶやいて、家を出る。
今日は持ち帰らない。
そう決めたはずなのに、その決意はホテルへ近づくほど薄くなっていった。
◇
日曜の会場は、土曜より少し慌ただしかった。
披露宴の数も多い。
スタッフの動きも速い。
客の視線はやっぱりある。
宝塚隆史の顔は、今日もちゃんと効いていた。
料理を運べば見られる。
すれ違えば見直される。
それは気持ちいい。
けれど、今日はそれ以上に腹の減り方が気になった。
昨日の成功を体が覚えてしまっている。
ホテルに来れば、肉がある。
その場で食える。
少しなら持ち帰れる。
そんな前提で動いている自分がいる。
それがかなりまずかった。
昼を過ぎるころには、もう厨房のことばかり考えていた。
ローストビーフが残るか。
チキンはあるか。
人の流れはどうか。
昨日より読める。
知ってしまうと、動きが早くなる。
そのこと自体が嫌だった。
◇
披露宴が終わったあと、また厨房へ回された。
「残り片づけるから、皿運んで」
「はい」
熱気。
湯気。
皿の音。
厨房は今日も会場と別世界だった。
余り料理がまとめられていく。
ローストビーフは少なかった。
代わりにチキンが残っている。
ハムもある。
ソーセージもある。
料理長が言う。
「食うなら今のうちに食っとけ」
「はい」
皿を運びながら、隙を見て肉を口へ入れる。
うまい。
やっぱり、これだ。
土曜より少ない。だからこそ、余計に惜しく感じる。
全部ここで食いきるのは無理だ。
部屋へ帰ればまた減る。
だったら――
その思考が、もうほとんどためらわずに出てきた。
ラップの位置は知っている。
人の流れも分かる。
どこで視線が切れるかも、昨日より読める。
隆史は自分の心臓が少し速くなっているのを感じた。
やるのか。
本当に。
でも、手はもう動いていた。
ラップを引く。
チキンを少し。
ハムを少し。
ソーセージを二本。
量を見る。
包み方まで考えている自分に気づいて、少し嫌になる。
でも、止まれない。
手早く包む。
バッグの脇ポケットへ入れる。
昨日よりずっと自然にできた。
それが、いちばん嫌だった。
「――何してるんですか」
女の声だった。
近い。
すぐ後ろ。
隆史の手が止まる。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、厨房の先輩だった。
麻衣。
昨日までと同じ落ち着いた顔で、でも目だけがこっちの手元を見ている。
チキン。
ハム。
ソーセージ。
ラップ。
バッグ。
全部、見えていた。
「あ」
間の抜けた声が出た。
自分でも信じられないくらい、情けない声だった。
麻衣はすぐには怒らなかった。
呆れたような顔で、でも少しだけ面白がるような目で、こっちを見ている。
「いや……」
何か言おうとした。
でも、何も出てこない。
言い訳が一つも浮かばない。
余りだから。
捨てるものだから。
その場で食っていいとは言われているから。
全部、持ち帰りには使えない。
「それ、持って帰るつもりでした?」
静かな声で聞かれて、隆史はごまかすこともできずに黙った。
その沈黙が答えみたいなものだった。
麻衣は小さく息を吐く。
「……ほんとにやるんだ」
「すみません」
反射で頭が下がる。
怒鳴られると思った。
料理長に言われるかもしれないとも思った。
でも麻衣は、すぐには誰も呼ばなかった。
それどころか、少しだけ首を傾げて、改めて隆史の顔を見る。
「小野くんって」
「……はい」
「見た目のわりに、やること地味ですね」
そう言って、少し笑った。
笑うところか、と思ったが、こっちは笑えない。
心臓がずっと速い。
手の中のラップが熱い。
終わった、という言葉が頭の中で何度も回る。
「料理長に言わないでください」
気づいたら、そう言っていた。
恥ずかしいとか情けないとかを通り越して、とにかくそれしかなかった。
麻衣は少しだけ目を細める。
「素直ですね」
「すみません」
「さっきからそればっかり」
「……すみません」
また言ってしまって、自分でもどうかしていると思う。
麻衣はラップを持ったまま固まっている隆史を見て、少しだけ考えるような顔をした。
それから、意地悪そうに口元を上げる。
「じゃあ、黙っててほしいなら」
その言い方で、隆史の肩が固くなる。
「あとで少し付き合ってください」
「……え?」
思わず聞き返す。
麻衣はもう一度、今度はもう少しはっきり言った。
「仕事終わったあと。少し」
それだけ言って、麻衣は先に視線を外した。
「今はちゃんと皿運んでください。ぼさっとしてると今度こそバレます」
「……はい」
返事をするしかなかった。
麻衣はそのまま何事もなかったみたいに作業へ戻る。
こっちは呼吸すらうまくできないのに、向こうは普通だ。
普通に皿を動かし、普通に別の先輩と言葉を交わしている。
さっきのやり取りだけが、異常に浮いていた。
隆史はラップの包みを元へ戻すべきか、一瞬迷った。
だが、今さらそれも変だった。
麻衣に見られた時点で、もう「持って帰ろうとした」事実は消えない。
結局、包みはそのままバッグへ入れた。
戻すより、その方が余計に怪しくない気がしたからだ。
そこまで来ると、自分でも意味が分からなかった。
◇
仕事が終わるまでの時間が、やけに長かった。
皿を下げる。
グラスを運ぶ。
片づけをする。
やることはいつも通りなのに、頭の中だけがずっと落ち着かない。
あとで少し付き合ってください。
その言葉だけが残る。
何だそれ。
どこまでの話だ。
麻衣は怒っていたのか、面白がっていたのか、脅しているのか、ただからかっているだけなのか。
全然分からない。
でも、料理長に言わないでくださいと自分から頼んだ以上、無視するのもまずい気がした。
更衣室で制服を脱ぎながらも、ずっとそのことを考えていた。
鏡の中には、まだ宝塚隆史がいる。
この顔のまま、先輩の女と「あとで少し付き合う」。
言葉だけ見ると、だいぶまずい。
「……何なんだよ」
小さくつぶやく。
けれど、帰ってしまえば本当に料理長へ話が行くかもしれない。
麻衣がそういう人だとは思わない。
でも、確信もない。
何より、自分が完全に弱みを握られているのが最悪だった。
スマホが震える。
画面を見る。
ホテルの連絡用で見たことのある番号だった。
メッセージが一件。
『今日のこと、黙っててほしいなら、あとで少し付き合ってください』
もう一度、同じ内容だった。
短い。
逃げ道もない。
隆史は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
脅しだ。
たぶん半分くらいは。
でも、残り半分は何だ。
興味本位か。
からかいか。
それとも――。
「……行くしかないか」
小さくつぶやく。
そう口に出した時点で、もう半分くらい決まっていた。
◇
更衣室を出ると、廊下の先に麻衣がいた。
ただ立って待っている。
こっちに気づくと、少しだけ口元を動かした。
「来たんだ」
「……返事したので」
「律儀ですね」
その言い方が、少し面白がっているように聞こえる。
隆史は数歩手前で止まった。
私服に着替えても、まだ宝塚隆史の顔のままだ。
だから余計に、自分だけ場違いなことをしている気がする。
「で、どうします?」
麻衣が軽く聞く。
「どう、って」
「今日のこと、料理長に言われたくないですよね」
その一言で、また心臓が速くなる。
「……言わないでください」
「じゃあ、少し付き合ってください」
「どこにですか」
「うち」
その一言で、隆史の目が見開く。
麻衣はそれを見て、少しだけ笑いそうな顔をした。
「そんな顔しなくても。食べるものくらいありますよ」
「……食べる」
「肉もあります」
そこで、言葉が止まった。
警戒はある。
かなりある。
でも、肉という単語に体が反応するのが分かる。
今の俺、だいぶ終わってるな、と他人事みたいに思う。
「来ます?」
麻衣が聞く。
少し長めの沈黙のあとで、隆史は小さくうなずいた。
「……行きます」
麻衣はそれを聞いて、やっぱり少しだけ面白そうに笑った。
その笑い方が、余計にこっちを困らせる。
でも、もう後には引けなかった。
日曜の夜、肉泥棒を見つかって、年上の先輩の家へ行く。
冷静に考えると、かなりどうかしている。
なのに、足はちゃんと麻衣のあとをついていった。




