第98話:夏の匂いと「おかえり」の威力。
六日目の夕方。凛ちゃんとの約束を果たすべく、朝陽くんは熱気あふれるお祭り会場へと繰り出します。
人混みに揉まれながら「おねだりリスト」をコンプリートしようとする彼が出会ったのは、二人の事情をよく知る親友・陽菜ちゃん。
冷やかしとエールを背に受けて帰宅した朝陽くんを待っていたのは、胸が締め付けられるほど温かい「日常」の光景でした。
ソースの焦げる香ばしい匂いと、行き交う人々の熱気。
かつての俺なら、間違いなく避けて通ったはずの喧騒の中に、今の僕はいた。
「ええっと、次は……チョコバナナか」
片手にはすでに焼きそばとたこ焼きの袋。もう片方の手には、凛が熱望していた真っ赤なりんご飴。
サポーターとしての俺の使命は、「冷めないうちに、かつ形を一切崩さずに」これらをアパートへ持ち帰ることだ。
人混みを縫うように歩きながら、俺は凛の「おねだりリスト」を頭の中で再確認する。
「あ、やっぱり瀬戸だ。何してるの、そんなに買い込んで」
不意に横から声をかけられ、俺は足を止めた。
そこには、涼しげな浴衣を纏った陽菜――佐藤さんが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「……業務だ。凛の夕飯の調達だよ」
「あはは、相変わらずだねぇ。あ、凛に『フルスロットルはやめなさい』って釘を刺しといたけど、少しは効果あった?」
「……フルスロットル?」
何のことだ。昨日から、凛はむしろ妙にお淑やかというか、静かだった気がするけれど。
「ま、いいや。あんまり根詰めすぎないようにね、瀬戸。あんた、真面目すぎるから」
佐藤さんはそう言って、僕の肩をポンと叩いた。
「今度、落ち着いたら三人でご飯でも食べに行こうよ。……じゃあ、凛によろしくね!」
「ああ……。そっちもな」
嵐のような親友を見送り、俺は再び歩き出した。
「三人で」か。
十日間の同棲が終わった後も、そんな未来があるんだろうか。
そんな根拠のない期待を振り払うように、俺は帰路を急いだ。
両手に袋を抱え、ようやくアパートに辿り着く。
お祭りの喧騒が遠ざかり、静まり返った廊下を歩く。
いつものように鍵を開け、ドアを押し開けた。
「……ただいま」
「朝陽くん! おかえりなさい!」
パタパタと、廊下を駆けてくる軽い足音。
玄関の照明に照らされて、そこには満面の笑みを浮かべた凛がいた。
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
一人暮らしだった俺にとって、学校から帰った後の家は真っ暗な箱でしかなかった。
けれど今は、扉を開ければ明かりがついていて、誰かが俺の帰りを待っていてくれる。
「……ああ。ただいま。ほら、冷める前に食べるぞ」
「わぁ、すごい! 完璧だよ朝陽くん、全部ある!」
照れ隠しにぶっきらぼうに答える俺を、彼女は一切気に留めない。
嬉しそうに袋を覗き込む彼女の横顔を見て、人混みで揉みくちゃにされた疲れが、嘘のように消えていくのを感じた。
テーブルの上に広げられた、茶色い「屋台の味」たち。
二人で焼きそばを食べ、たこ焼きを頬張る。
今日だけは特別な「お祭り」だ。
「んー、美味しい! おうちでお祭り気分になれるなんて最高だね」
「栄養バランスは最悪だがな。……明日からしっかり調整するぞ」
「もう、今はそういうの無し!」
凛は笑いながら、デザートのチョコバナナに手を伸ばす。
その時、遠くで「ドン……」という、地面を震わせるような重低音が響いた。
「……始まったか」
僕は時計を確認し、用意しておいたクッションと虫除け、そしてキンキンに冷えたジュースを手に取った。
ベランダには、彼女が作業の合間に外を眺められるよう、あらかじめ即席の「特等席」を作っておいた。
「よし、行こうか」
「うん!」
夜風がカーテンを揺らすベランダへ、僕たちは並んで足を踏み出した。
第98話、ありがとうございました!
陽菜ちゃんとの遭遇、そして帰宅した時の「おかえり」。
独り身の男性にとって、これほど心に染みる言葉はありませんね。朝陽くん、無意識に「帰る場所」としての温かさを感じ始めています。
屋台のジャンクな味を二人で楽しみ、いよいよ舞台はベランダへ。
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